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Ep.4「その首を刎ねよ」

 朝踏(あさぶみ)高等学院。

 すべての情報はハニーBから受けた説明の通りだった。立派なお屋敷のあった場所をまるっと教育機関にしたような、それなりに立派な佇まいだった。

 コンクリートの壁で作られた校舎とは別に、木造の小屋がひとつぽつんと鎮座していた。中は狭く、電気もない。収納されている掃除用具なんかを取りに行くくらいしか開け閉めはしないそうだ。

 そう説明してくれたのは依頼主である学院の生徒会長たる常澄(つねずみ)朱火(あけび)さんだった。

 朱火さんは艶のある黒髪をした、大輪の花を思わせる美少女――の格好をした青年だった。正直ハニーBからの事前情報がなければ、ボクは勘違いしていたのだろう。正しく朱火君、なわけだがなんだか呼ぶのが躊躇われる雰囲気だった。

 物言いも態度も慎み深く、学院のマドンナと呼ばれているのも頷ける。けれど彼と相対して、ボクは複雑な心境に陥っていた。


「うぅ……」

「よ、喜び……これは……」


 彼は当然のように、人間の上に座っていた。四つん這いに伏せたふたりの男の背中に座している。これだけではない、至る所で主従というよりも、飼い主とペットみたいな関係性を目にした。

 学院の一番良い椅子とは屈強な男の背中のことであり、一番悪い椅子とはがりがりに痩せた男の背中のことだという。


「――でも残念だわ」


 朱火さんが憂いの色を滲ませた。

 声を聞いてもやっぱり男には思えなかった。


「『ラビットホール』なんて洒落た名前だから、素敵な方が来ると思ったのに。来たのはちんちくりんで椅子にもならないような男と立派な椅子になれそうな男だけだったわね」

「……すみません」


 ひとまず、機嫌を取るために謝っておいた。〝とりあえずの謝罪〟を気取られてますます嫌な顔をされた。

 名づけをしたのは勿論、全権を委ねられているボクである。権利者(リーダー)が名付けた時点で代案は上がらない。特に不便はなかったし、好きなお伽噺に絡めたこともあって、割と気に入っていた。だが、文句をつけられるともう少し考えた方がよかったかななんて思ってしまう。

 朱火さんは人間椅子の上で足を組み直す。体重のかかり方が変わったせいか、椅子になっている男が「うぅ」と呻き声をあげた。


「ああ、でも。そちらの男は椅子にするにはもったいない顔立ちだわ……すごくきれいね。もう少しよく見せてくださらない?」


 朱火さんが手招きしたが、凛彗(りんぜ)さんは動かなかった。


「あら……?」


 朱火さんは怪訝そうな顔をする。今まで手招いてこちらに寄ってこなかった人間がいなかった、とでもいうような顔だ。どんな女王様生活をしていたのだろう。


「あなたたち、こんな言葉はご存知?」

「はい?」

「『郷に入っては郷に従え』」

「ああ……友人から聞いたことがあります」

「あら、椅子になれないくせに記憶力はあるのね」


 ピンとこない罵倒に、ボクは頭上に疑問符を浮かべながら彼女の言葉の続きを待った。


「わからないかしら。つまるところここでは『私の言うことは絶対であり、決して覆されてはならない』という規則があなたたちにも適用される、ということよ……。わかるわね?」

「……」


 朱火さんの有無も言わさぬ理不尽な物言いに、凛彗さんは沈黙を返す。凛彗さんは基本ボクといる時以外は寡黙なひとである。

 凛彗さんは目を瞑って、考えている。そして、彼は目を開けた。答えが出たのだろう。


「……あら、あらあら」


 凛彗さんは嫌々とわかる態度のまま、朱火さんの方へ歩いて行った。

 朱火さんは座っているから、立っている凛彗さんはすごく背が高く見えるはずだ。


「なんてきれいなの……陶磁器みたいな肌ね……隈すらお化粧みたいに見える……十字傷はなに? 刺青、ではないわね……」


 朱火さんは惚れ惚れと凛彗さんを観察していた。背中しか見えていないけれど、あの様子だとあちこち触られているに違いない。


「ああ……すごい……っ、筋肉だわ……ああ、なんて……整って……はあ……」


 段々と吐息多めの感想になってきて心配になった。媚薬を盛られたみたいな反応だ、よろしくない。

 朱火さんのお触りタイムはなかなか終わってくれなかった。凛彗さんも場を荒立てないよう耐えている。この状況下で彼女の行動を止めるのは、ボクの役目だった。


「あ……あの。すみません、それくらいにして……」

「――あなた、邪魔ね」


 突然敵意を向けられた。

 凛彗さんを盾にして、その体の脇から彼女は顔を覗かせていた。


「へ?」

「邪魔だわ、なぜ彼と一緒にいるのかしら」

「え? だってボクはふたりで……」

「出て行って。私は彼とふたりきりで話がしたいの」

「えっ、それはだめですよ」

「なぜ?」

「なぜってそれは凛彗さんはボクの、」

「ボクの?」

「ボクの……えっと」


 ――即答できなかった。

 相棒? 幼馴染? 友だち?

 ――恋人?

 言葉が出てこなかった。ボクはなんて言おうとしたんだ?

 戸惑うボクの気まずい沈黙を破ったのは、朱火さんだった。


「ふん……、金魚の糞ならとっとと処分されるべきね」


 ああ、なるほど。言い得て妙かも。

 感心するのと鈍い音がして意識が暗闇に落ちるのは、ほぼ同時だった。


 ◇


 脳味噌に心臓があるみたいな、鼓動のような鈍痛が連続した。

 ぼやぼやと綿を何重にも重ねたような視界が、徐々にはっきりしてきた。


「おい、このすっとこどっこい」

「……ん」

「すっとこどっこい、コラ。起きろ」

「……ああ、うん。……おはよう、ネウ……」


 ボクは上体を持ち上げた。目隠しなし、手足も縛られていない。何もされていないまま、真っ暗などこかに閉じ込められているらしい。

 何度かボクを〝すっとこどっこい〟呼びしたネウを見る。見るといっても暗闇に黒猫なので、さっぱり姿を捉えられない。


「おはようじゃないだろうが」


 ネウが肩に乗ったのが辛うじてわかるくらいの暗闇だった。目を凝らすとなんとかやっとネウの黒い体が見えてくる。


「……? ネウ、なんで怒っているの?」

「お前、どうして迷った」

「……迷う?」

「凛彗との関係を問われて、嘘でもいいから答えればよかっただろう」

「……そうだね」


 そう、嘘をつけばよかったのに。どうして即答できなかったのだろう。

 考えようとすると、殴れた部分が痛んでうまくいかなかった。


「ああ、そうだ……殴られたのかボクは」

「そうだ。そして閉じ込められた」

「……なるほどね。キミの存在はバレていないみたいでよかったよネウ」

「……」


 ネウが押し黙る。どんな表情しているかわからなかった。

 ただ暗闇にふたつの満月が浮かんでいる。


「なぜ」

「うん?」

「なぜ、アイツは助けに入らなかったんだ……」

「アイツ……、凛彗さんのこと?」

「それ以外に誰がいる。お前のことを想うなら防衛行動に入るべきだったろう」


 ネウは怒っているみたいな物言いをしていた。彼はどうやらボクを救うことを第一に考えている凛彗さんが、そうしなかったことに憤っているらしい。

 手探りでネウの頭を見つけて撫でる。「そんなの、わかりきっていることだよ」


「わかりきっていること……だと?」

「…凛彗さんはボクにとって最善な行動をとっただけさ……てて。随分強く殴ったな、血は……出てない、か」

「……どういうことだ?」

「……あそこで凛彗さんが暴れたら依頼どころの騒ぎじゃないし、『緑』で騒動を起こしたって知られたら信用()()()()だろ。だから我慢したんだよ……ボクにとってそれはあまりよくないことだから」

「……お前のために?」

「ことボクに対する忍耐はないのだけれどね。……まあいいか、それは」

「……よくわからないが、お前が納得しているのならオレから言うことはないか……」


 ボクは未だ疼痛を放つ頭を、空いた手でさすりながら言った。

 出血していないのは僥倖である、ほどよく石頭で助かった。

 凛彗さんの行動原理はボクが中心になっている。自分で言うのもなんだけれど。

 だから、ボクに迷惑をかけない方法が彼にとっての最善の行動なのだ。

 朱火さんの言うことに従ったのだって、好き勝手にされたのだって、ボクが被る迷惑を考えてのことだ。

 凛彗さんが本気を出せば、朱火さんは一瞬のうちに肉塊となるだろう。


「……ここは……言っていた小屋かな? 幽霊が出るっていう」

「幽霊、か。……ふん、胡散臭いことこの上ないな、馬鹿馬鹿しい」


 ネウは心底うんざりしている、という風に呟く。なんだかちょっと怒っているようにも聞こえた。


「どうしたのネウ。キミってそういうオカルトな感じは嫌い?」

「嫌いとか好きとかそういう問題じゃねえんだよ。――ひとの想いがそう簡単に見えてたまるか」

「……ふうん?」


 よくわからないけれど、今後はネウに幽霊の話はしないようにするか。これ以上の追及もやめよう。彼を怒らせるのは得策じゃないし、他人が怒っているのを見るのはあんまりいい気分はしない。

 ここが小屋ならやることはひとつ。幽霊を退治、じゃなくて幽霊と対峙する。

 幽霊だから手で探っても見つかるわけはないけれど、ともかくやるしかない。

 立ち上がって埃を払い、周囲を見渡した。目が慣れてくるまでは一面黒塗りの風景だった。


「ネウ、何か見える?」

「掃除用具が適当に置かれているだけだな。これといって怪しいものは……うん? なんだあれ?」

「なにかあるの?」

「ああ、ある。隅の方に……」

「じゃあ、そこまで案内してくれる?」

「わかった。まずは右方向に体を向けて、だな」


 ネウの言われた通りに進んでいくと、壁にぶつかった。足元にバケツがあって、蹴り飛ばして甲高い音が鳴り響く。中に液体が入っていたようだ、空気が微かに湿った。瞬間生臭い匂いが立ち上る。なにかが腐ったような匂いだった。


「なんだろう……?」


 暗くてよく見えない。液体であるのは確かだけれど、匂いがひどい。

 汚水か何かだろうか。いやなんでこんなところに?


「酷い匂いだな……ああ、それだ。壁に箒と一緒に引っかかって――」

「……ネウ」


 ボクはそれを手に取って少なからず、動揺した。

 それは掃除用具ではない。掃除などできようもない。だが、しまわれていた。

 よもや掃除用具として使われているのだろうか。まさか、そんな。

 だとしたらあまりに異常だ。ここは完全にいかれている。

 ここは『赤』じゃない――『緑』。『平和的な区画』じゃなかったのか。

 ボクはさまざまに思いながら()()を握った。冷え切った皮膚の硬い感触がした。


「……これ、人の腕だよ」

「なァん!?」


 ネウが猫っぽい悲鳴を上げた。


 ◇


 小屋には鍵がかけられていなかった。ボクは小屋の扉を開けて外の光を入れた。

 明るく照らし出された小屋の中は、物置というより――解体部屋だった。箒やちりとり、はたきに混じって人の腕や足、髪の毛の束などが置かれていた。バケツが無数に床に置かれていて、中身は全部血液だった。

 男を椅子にしている時点で正常じゃないとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。

 けれど、ボクが悲鳴を上げて発狂するには足りない。

 ネウも冷静だった。


「なんだ? ここは『緑』……だろ? いつの間にか境目を超えたのか?」

「化けの皮が剥がれたって感じかな。『緑』とはいえ完全に安全な場所なんてないってことだね」


 トウキョウにまともな教育機関があるとは思えなかったから、きっと隠れ蓑にロクでもないことをしているのだろうとあたりはつけていた。でも所詮ボクの拙い想像だ、裏切られるに違いない。そう自身を侮ったがゆえの、この結果。


「もう少し、ボクは予想(ボク)を信じてあげた方がよかったかな……」


 うなじを掻きつつ、これからどうするか考えていた。が、考える余地もなかった。

 背後に複数人の気配を感じて振り返る。既に状況は終わっていた。


「……あら、死んだと思ったのだけれど」


 武器を持った痩せた男たちが爛々と冴えた目で、ボクを見つめていた。人数、ざっと十人以上。団体様相手は疲れるから嫌なのだけれど。

 彼らを先導するのは朱火さんだった。


「何度か臨死体験しているので、割と死なないですよ」


 ボクは答える。答えながら衣服の下に手を滑らせた。

 充実した収納のあるパーカーの裏地に。


「そう、残念だわ。あなたを殴ったやつは明日にでも解体しなくっちゃね」

「……これを、あなたが?」

「そうよ。椅子になる価値も道具になる価値もなければ解体するの。なんらおかしいことじゃないわ、あなただっていらない道具は捨てるでしょう? それと一緒よ。人間なんて大きいから小さくしないとね」

「ここはあなたの城か何かですか」

「? なに言っているのかしら、ここは学校よ。(ふる)きを(たず)ねて新しきを知る――古き支配を知り新しい支配を作り出す、それがこの学校なの」

「……そう、ですか」

「でも本当に残念」


 朱火さんが言葉の通り、残念そうに眉をハの字にした。お芝居のような、大仰な仕草だった。


「あなたがいなくなれば、あのひととじっくりねっとり愛し合えるというのに」


 ネウがパーカーの中で「……焼き芋かよ」とぼそっと言ったので、ボクはこみ上げてきた笑いを必死に飲み込んだ。こういう時にやめてほしい。


「……最初に言っておきますが、凛彗さんに媚薬その他諸々投薬はあまり意味ないですよ。自白剤もです」

「ええ、そうね。効かなかった」

「話が早くて助かります」

「あのひとはなんなの?」

「『肉体型規格外(フィジカル・エラー)』と呼ばれている超人です。あのひとは筋肉が常人よりずっと密集しているので刃も銃弾も意味を成しません。薬の効きも同じ理由です」


 ボクが説明すると朱火さんは「ふうん」と言った。

 興味関心、まったくなし。結構な重要なことをしゃべったつもりだった。残念。


「まあ、別にいいわ。どうせ、あなたここで死ぬのだし」


 明日雨だから洗濯物は干せなさそうね、みたいな気軽な物言いだった。

 朱火さんがボクの挙動に気づく。何かされるかと思いきや、はっと鼻で笑われただけだった。


「何をしようとしているか知らないけれど、抵抗するならやめておいた方がいいわよ。椅子になりそこなったやつらだけれど、投薬で肉体改造していて強いから」

「だからそんなに獣みたいな顔しているんですね」

「副作用よ、仕方がないでしょう。椅子になれないのだから」

「あなたにとってここの生徒は椅子ですか」

「椅子或いは騎士ね」

「……騎士?」

「そう、騎士よ。椅子ばかりでは(まつりごと)は回らないでしょう。でも騎士になる素質のある者が少なくって困っているの。だから……そうね、あのひとが騎士になってくれたらきっととてもいいわね」


 政。すなわち、統治。トウキョウを掌握しようとするとは、なかなか壮大な思想をお持ちだ。けれど、凛彗さんを騎士にされては困る。だから、抵抗する。

 指先にふれた()()を一気に下に引き抜く。現れたそれを見て、朱火さんは怪訝そうに眉をひそめた。

 握っているものが小ぶりなカッターナイフだとわかった瞬間、彼女は肩を震わせた。笑う姿も可憐だった。


「なあに、それ。ふふふ、可愛い……そんなもので反撃する気なの?」

「ええ、しますよ。しますとも、ボクはこれでしか反撃ができないので」

「あなたって……おしゃべりがお好きなのね、無駄口が多い男は嫌われるわよ」

「別に好かれたいとも思いません」

「あらそう……」


 朱火さんは男たちに視線を向けた。

 色めき立つのを感じ、カッターナイフを握る手に力がこもった。

「オレを放り投げることだけはしないでくれよ」とネウがフードの中から言う。だったらしっかり爪を立ててね、とボクは返した。


「さあ、落第生ども……仕事の時間だッ!」


 朱火さんの合図で男たちが一斉に飛び掛かってきた。

 人間ではない、獣の群れだ。各々の携えた武器を掲げて、ボクを殺そうしている。でも、それに対する最適解を知っている。

 カッターの刃を最大限まで出し、地面を蹴った。


 それからはスローモーションの中での、単調作業だ。あくびが出るほど、退屈な時間である。

 攻撃を避けて、首にカッターナイフを突き刺して真横に引く。やることはそれだけだ。

 避けて、刺して、引いて。避けて、刺して、引いて。避けて、刺して――そんなのを淡々と、大体十回ほど繰り返すと敵の勢いも弱まった。


「――な、なんなの!?」


 朱火さんが驚いている。狙い通りで、助かった。

 あたりを血の海に変えながら、ボクはただひたすら、首をめがけてカッターナイフを突き刺した。

 ばたばたと男たちが倒れていく。ようやっと全員分の首を狩り終えた。


「……ふう」


 一息ついて朱火さんを見ると、彼女はちょうど膝から崩れ落ちるところだった。可哀想になるくらい、顔が真っ青だ。


「……な、え? えぇ……? なに? なんなの……? おまえ、なんなんだよ……?」


 理由を求められたので答える。


「ボクの出身はザイカなんです」


 今は亡き故郷の名前。あのひとが改革した街。

 最初の銃口を突きつけられた場所。


「ザイカ……!? ザイカ、だって……?」


 どうやらご存知のようだった。

 なら、ボクがどうして間違ったカッターナイフの使い方に長けているのかわかるだろう。

 これは戦闘用に特別に誂えたモノだから刃も丈夫で、大きさもふつうのカッターナイフより大きい。カッターナイフの形をしているのは、ひとえに油断を誘うためである。

 ボクは自衛の手段は心得ているけれど、純粋な戦闘能力はほぼないに等しいので、ある程度工夫が必要だった。


「そう、〝罪悪の街〟と呼ばれた犯罪の温床です。ボクはそこで生まれ育ち、生きるための術を習いました。なので、あの程度の連中だったらひとまず対応できます。人を殺すのにも、あまり抵抗はありません」


 だからといってあまり人を殺したいとは思わないけれど。


「ま、まさか……そんな……」


 朱火さんは呆然としている。

 ボクの見た目に完全に油断していたらしい。ありがたい限りだ。


「さて」


 刃についた血を払って、ボクはカッターナイフをしまった。

 へたりこんだままの朱火さんに近づいた。朱火さんは「ひ」と短く悲鳴を上げた。


「朱火さん。依頼は達成ですか? 未達成ですか?」

「……え?」

「え、って……。ボクたちは慈善活動家ではないので、お金をもらわないといけません。しかし依頼を達成していないのにお金をもらうわけにはいきません。判断いただけますか」

「……あ、あの……」

「なんでしょうか」

「こ、殺さないの……?」

「え?」

「……え?」


 ボクは笑みを浮かべた。


「何言っているんですか。あなたは『便利屋』の依頼人なんですよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()――で、どうなんです?」


 努めて笑顔のまま、やわらかく問いかけた。

 朱火さんは何度か宙に視線を彷徨わせてから、ボクに聞こえるくらい大きく唾を呑み込んだ。


「……た、達成で……い、いわ……」


 彼女の返答を聞いて、安堵した。

 ――ちゃんと、脅しが効いた。


 これ以上何か手を打たれていると、かなり不利である。だからある程度異常性を際立たせて怯えさせておく必要があった。反撃する気も起きないように。

 安堵と共に、首肯する。


「わかりました。それでは後日、ハニーB経由で報酬のお支払いをお願いします。額はそちらにお任せします。あと校舎内の掃除が大変かと思うので、『掃除屋』も手配しておきますね」

「……は? そ、そうじ……?」

「はい。多分今頃校舎内の誰も彼も――」


 本校舎の方を見る。学校はひどく静まり返っていた。

 朱火さんがボクに構ってくれてよかった。そうでなければ巻き添えを食らっていただろう。

 依頼人が死んでしまうとボクらはただ働きだ。それだけは避けたかった。


「凛彗さんに殺されていることでしょうから」


 朱火さんは言葉を失った。〝顔面蒼白〟、その表現がぴったりだった。


「それでは、ご依頼ありがとうございました。また何かあればご用命ください」


 朱火さんに一礼を贈り、それから彼女を背に、本校舎へ向かって歩いた。

 その途中で顔についた血を拭い、左腕の包帯を解いた。腕に並んだ正の字の、その空いた場所に今回殺した人数を追加していく。長く伸びた爪で皮膚を削った。痛みは、もうほとんど感じない。

 正の字を三つ削り終えた後、ボクは包帯を元通りにした。血がわずかに滲んでいるが問題ないだろう。


「よし……」


 凛彗さんに仕事が終わったことを伝えるため、本校舎へ足を踏み入れる。猛烈な血の匂いが鼻をつく。あちこちに変わり果てた人間たちが壁や床にぶちまけられていた。壁や天井もへこんでいるし、亀裂が入って割れているところもある。『掃除屋』だけで対応できるのならいいのだが。

 その中を歩いていると、不意にそよ風が首元を通りすぎた。


「……ん?」

「んにゃ。……どうした、遊兎都(ゆうと)

「……ううん、気のせいかな……」

「?」


 風にまぎれて、「ありがとう」と聞こえたような気がした。

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