Ep.39「キミの幸せについて知る権利」
旦那様、紫乃盾晴矢。
元軍人で、他人の体を切り刻むのが趣味。
ボクの無数の傷はすべて彼によって刻まれた。刻まれながら犯され、犯されながら傷をつけられた。
ボクが知っているのはそれだけだ。
それ以上は知りたくもない。
◇
「やあ、遊兎都。久しぶりだね」
なんでこのひとがここにいる。
「どうした? 私の顔を忘れてしまったかな?」
なんでこのひとが生きている。
「遊兎都? なんだ、幽霊でもあったような顔をして」
なんでこのひとが、ボクを見ている。
「……なんでアナタが……」
「なんで? ……ああ、改革のことかい? まさか、私は軍人だよ。あの程度で殺されやしないさ」
「……」
改革で『使用人』を雇っていた成金共は一掃された。一人残らず、殺されたはずだ。
ボクはそう聞いていたし、実際あの後、ボクを売った人間もボクを抱いた人間にも会わなかった。
だから、彼も同様に死んでいると思った。
「私は神に会って力を得た。些末なものだったが、生き延びるにはなかなか有意義でね」
「……」
「空間を、こうやって割ってね」
旦那様は拳を握って後ろを叩いた。するとそこに鏡でもあるかのように、空間がひび割れた。
先ほどの音は、彼が現れた合図だったのだ。
「おや、兎戯」
「……」
「あぁ、どうしたんだい? そんな悲しい顔をして……」
旦那様は大仰で芝居がかった物言いで、呆然とする兎戯君を抱き寄せた。
ぞっとする笑顔だった。兎戯君は旦那様の腕の中にしまわれた。
――あの愛おしげ表情は、それゆえのものじゃない。自分のものが自分の思う通りに動いていることを確認し、満足している顔だ。
ああやって薄気味悪い笑顔を浮かべたまま、こいつはボクの体を切り刻んだ。痛みに喘げばもっと聞かせておくれ、と更にひどくなった。いつしか奥歯が砕けるくらい、歯を食いしばって耐える術を覚えたが、それが彼の癇に障ってボクの口は裂かれた。そして雑に縫われて残っている。
ボクは無意識のうちにその傷に手を伸ばしていた。凹凸に触れて、痛みがぶり返す。それを目ざとく見つけた旦那様がうっとりと笑った。
「……ああ、遊兎都。まだその傷を愛でてくれるんだね」
「……ッ!」
違う。
愛でてなんかいない。
ボクの、この傷は。
そういうものじゃない。
「……これは」
「うん?」
「……ボクが生き延びた証拠だ。お前に愛された証じゃない」
すると、すう、と旦那様から笑顔が消えた。真顔になってボクを見つめる。
すっかり忘れたはずの痛みが、じわじわとボクの中で疼いていた。
燻るこの気持ちは、怒りだ。
「兎戯君を、……ボクと同じにするつもりなのか」
ボクにしたように。
愛している、などと都合よく飼い馴らして。
「え?」
ぽかんとした顔が、腹立たしかった。
わかるだろうが、お前のすることなんてひとつしかないのに。
「彼もボクと同じように切り刻むのかって聞いているんだ」
「……ああ。……いや」
旦那様の長い指が、兎戯君の髪をすいた。彼は無反応だった。
何も言わず、黙っている。まるで人形みたいだった。
「しないよ、――代用品にすら、ならないんだから」
「……!!」
甘い声で、囁くように、やさしく、旦那様は言った。
その腕の中に、兎戯君を抱き締めたまま!!
怒りに全身が強張った。殺してやろうか、と脳裏によぎった瞬間くしゃ、と頭を撫でられた。この撫で方は誰か、なんて考えなくてもわかる。
頭を包み込むみたいな触れ方。雑だけれどあたたかみのあるぬくもり。
蜜波知さんだ。
「おいおい、とんでもねえお人が出てきたなあ。お前、紫乃盾晴矢だろ」
蜜波知さんはズボンのポケットに手を突っ込んだまま、いつもと変わらない調子で言った。
彼は平時と寸分たがわない。陽気なおじさんのままだった。心が凪いでいくのを感じた。
旦那様は首を傾げた。
「うん? 君はだれだい?」
「俺のことなんざどうでもいいだろ。紫乃盾晴矢……戦場じゃ『鬼』と呼ばれた男だ。単に殺すだけじゃねえ、いたぶって殺すってんで『殺し屋』からも恐れられていた、って聞いてるぜ」
「〝鬼〟だなんて……怖いなあ。私はただ、可哀想な兎たちを愛でてあげただけだよ」
その愛で方が大問題だったわけだが。
今更言っても仕方がない。矯正できない性癖なのだ。ついでに言うと、共感もできない。
旦那様は兎戯君を片手間に愛でながら、恍惚に語り始める。
聞きたくもない、己の性癖についての詳細を。
「私はね、死にかかった兎の喘ぎ声が一番好きなんだ。必死に生き延びようと上げる悲鳴に私はこの上なく……、興奮する。……そういう意味では翠玉はちょっとつまらなかったね、あの子は辛抱強くて。強い分、いろんなことができてよかったけれど」
友人を軽んじられてボクは奥歯を噛んだ。血管がぶちぎれそうだ。
ボクの顔を見て、旦那様は笑った。
「ふふふ、いい子だね遊兎都。翠玉のこと、友だちのように思っていたものね」
「……友だちのようにではなく、友だちだ」
うるさい。
黙れ、ボクの友だちの名を、お前なんかが口にするな。
「ああ、そう。まあ、私の屋敷で唯一使い物になったのは君たちくらいだったから……友情も育まれるか。恋情にはならなかったんだね」
「……」
余計なお世話だ。
「ところで……。私をずうっと睨んでいるそこの子は誰だい?」
旦那様の指さす先、凛彗さんがいた。
彼の顔を確認してボクはひゅ、と息を呑んだ。
鬼か、悪魔か、はたまた般若か。恐ろしい形相で、旦那様を見ている。
目で人が殺せそうだった。今まで見たこともないほどの、強く深い殺意が滲んでいた。
「凛兄ちゃん……?」
驚きながら凛兄ちゃんを呼ぶと、彼は少しもこちらを見ないまま、荒い呼吸で答えた。
「……ああ……うん。……大丈夫、だよ……ごめん、ね……。今、少し……気を、抜くと……殺して、……しまいそうに、なる……、から……」
激情を抑え込んでいるのがありありとわかる声だった。
ふと見ると、凛兄ちゃんの握った拳からは血が垂れていた。敷かれた絨毯に赤い痕を穿っている。ボクは慌てて拳を両手で覆い、「凛兄ちゃん!」と叫んだ。
彼がゆっくりとボクを見る。
「……ユウ君」
「大丈夫、大丈夫だから。ボクのために自分を傷つけないで」
「……」
凛兄ちゃんは拳を緩めてくれた。緩めた手をそのまま握り込む。凛兄ちゃんはとても悲しい顔をしたまま、ボクの額に口づけた。
やさしいひと、どうかそんな顔をしないでほしい。
凛兄ちゃんが苦しんでいるのなんか、見ていたくない。
「――ははは!」
声。
笑い声。
耳障りで不愉快な、声。
「そうかそうかそうか! 遊兎都、君は恋人ができたのか!」
まるで父親みたいなツラをして旦那様は喜んでいた。
「嬉しいなあ、我が事のように嬉しいよ! 私が丹精込めて作った可愛い人形に――」
そこで、途切れた。
凛彗さんの足蹴りが炸裂した。
「!?」
信じられないことが起きた。
旦那様は――彼の蹴りを片腕一本で抑えていた。
刀と同じ切れ味を持つ、足蹴りを。
ひとの首を飛ばす威力のある蹴りを。
凛彗さんも驚いたようで、空中で方向を転換し、着地した。
「いい蹴りだ。いい蹴りだが……まだ、弱いな。それで私は殺せない」
「……そう」
凛彗さんが再び突進する。今度は拳。けれどそれも、片手で受け止められてしまった。
あり得ないと思うのと同時に、彼ならあり得ると思う自分がいた。
凛彗さんの強さも異次元だが、この男の強さもまた同じく異次元なのだ。
「っ! っ!」
「ああ、確かに強いなあ。私でない者ならすぐに肉塊だ、はは」
凛彗さんのいかなる攻撃も、旦那様には通用しなかった。
化け物じみた彼の攻撃の一切通用しない――紫乃盾晴矢、おぞましい怪物である。
滅多に息の上がらない凛彗さんが、少しだけ肩で息をし始めた。消耗しているのが目に見えてわかった。
凛彗さんはふう、と息を吐いた。息を吐いてから、「……ユウ君」と弱々しくボクを呼んだ。
その目は――
「……ごめんね」
「……え?」
「……僕は……強くない、みたいだ……」
「……ッ!」
凛彗さんは、うちひしがれている。
ボクを嫁にもらう条件に〝強くなったら〟と言っていた。
だから、弱い自分を目の当たりにして、恐れている。
ボクが離れていくんじゃないか、って。
――怖いんだ、凛兄ちゃん。
だったら、ボクがするべきはひとつだけ。
駆け寄って彼を見つめる。「遊兎都……?」と見つめ返す目は、紫苑色。
凛兄ちゃんの色。強くてきれいでやさしい、大好きなひとの目の色。
「凛兄ちゃん」
「……?」
「ボクはずっとあなたのそばにいるからね」
「……! 遊兎都……」
彼は言った――同じ気持ちを返してもらわなくたっていい、帰ってくる思いが罪悪感であっても構わない、と。
でも本当は、好きでいてほしいと思っている。それはボクだって同じだ。
ボクだって好きでいてほしい。
嫌われたくない。捨てられたくない。そういう我儘を、誰もがきっと抱えている。
心のやわらかいところに隠して生きている。
だから、
「旦那様……。いや、紫乃盾晴矢」
癖づいたそれを振り払う。
お前はもうボクの『主人』ではない。
そしてボクももう、無力に飼われる奴隷じゃない。
「うん? なんだい、可愛い遊兎都」
「……」
ボクがまだ、このひとのものだとでも言いたげだった。
違う。その縁は既に切れている。ボクとあなたを繋ぐものなどなにひとつだって存在しない。
目を瞑って呼吸を整える。そして、突き付けた。
「ボクはあなたのものじゃない」
「へえ?」
「ボクに関わるな、――紫乃盾晴矢!」
かつて主人だった怪物は、黙っていた。
時が止まったかのようにボクを見つめて、静止している。
物音ひとつない静寂の中――ボクが瞬き一度したほんのわずかな時間に、それがこぼれた。
「……欲しいなあ」
ありったけの羨望を詰め込んだ声音だった。
その顔はぐずぐずに溶けていて、その目は欲望にまみれていて、とても醜かった。
ボクは意図せず、一歩後ろに下がっていた。
「いいなあ。欲しいなあ。その意志の強さ。いいなあ。いいなあ。……欲しいなあ。やっぱり、あの時奪うべきだった……!!」
凛彗さんと蜜波知さんがボクを守るように前に出た。紫乃盾晴矢の顔が、ふたりの背中に隠される。
「気持ち悪ぃ目で遊兎都を見るんじゃねえ、変態」
「……不本意だけれど、……同意見だよ。ユウ君が汚れるから……、ひとまずその目を潰しても、構わないかな……」
ふたりともすごく怒っていた。
怒りのなかに、ボクへの想いがあふれているのがわかって、なんだか複雑な気分だった。
怒ってくれるのは嬉しい、でもふたりが怪我をするのは嫌だ。
「ふふふ、ふふふふ。愛されている、愛されているね。……ふふふふ……素晴らしい、素晴らしいなあ、最高傑作だよ遊兎都! あは……っあははははは!!!」
歓喜に沸く紫乃盾晴矢の声が聞こえる。
声だけでもわかる、狂気じみた笑い声。ぞっとした。ネウが気を遣ってボクの腕の中に降りてきてくれたので、厚意に甘えて抱き締めた。
ネウの癒し効果をもってしても、頭にこびりつく哄笑である。
声は徐々に小さくなり、やがて紫乃盾晴矢はニ、三度咳払いをしてから「……やっぱり奪おう」と言った。
奪う? 誰を? ボクを?
そんなこと、させるものか。
紫乃盾晴矢を睨んで、そして視界の端に茶色を見つける。兎戯君だった。
腕の中にいる彼は、先ほどから一声も発していない。気になったが追及できなかった。
突き放した当事者たるボクが、どの面下げて「大丈夫?」なんて気遣えるだろうか。
――あ。
凛彗さんも同じだったのかな。
弟を置いて出て行ってしまった負い目があるから、助けたいと面と向かって言えないジレンマ。
見捨てたくない、でも手を差し伸べることが容易でない苦しさ。
一度拒絶しただけだけれど、その〝一度〟がボクらの関係に決定的な溝を生んだ。
「堪能した獲物にそう執着しないのが、私に美点だと思っていたが違ったようだ。今はお前が愛おしくて仕方がないよ、遊兎都。やはり、私も被造物にすぎんということだな……」
鳥肌が立つ、世にもおぞましい告白だった。
「それじゃあ」と言う声が聞こえたので、慌ててボクは前に出る。
ちょうど紫乃盾晴矢が空間を割って出て行くところだった。
「あの!」
呼び止められると思っていなかったのか、紫乃盾晴矢は少しだけ驚いていた。
告白されたのなら答えるべきだろう。これは礼儀だ。
だから、言った。再び、拒絶する。
「お前なんか死んでも御免だ、クソ野郎」
ボクの返事に、男は笑みを浮かべたまま割れた空間の中に消えていった。兎戯君の肩を抱いたまま。
刹那、空間に吸い込まれる兎戯君の顔が見えた。
「!」
彼の目は真っ黒だった。
なんの光も、感情も、なかった。
兎戯君。
君はそこにいて、本当に幸せになれるの?
――そう問いかけることはできない。
ボクらはもう、友だちにはなれないから。




