Ep.38「紫色の邂逅」
ぼやぼやと霞んでいた意識が一気に引き戻される。
唇を貪っていたボクは正気に戻り、兎戯君と距離を置いた。
薄い布の向こう側に見慣れた影がふたつあった。周囲を取り囲んでいた男たちはいなかった。
「み、蜜波知さん……?」
「よ」
居酒屋に入るみたいに気軽さで、蜜波知さんがピンク色の帳をくぐってきた。その後ろには険しい顔の凛彗さんがいて、彼のフードからネウが顔を覗かせている。
ネウと目が合うと、すぐさまフードから降りてきてボクの足元に寄ってきた。
「ネウ……」
ネウは何も言わなかった。でもボクはすぐにその体を抱き上げた。
ぬくもりにほっと一息をつく。
「……ユウ君」
名を呼ばれて顔を上げるとの同時に、凛彗さんに横抱きにされていた。ボクの腹のうえにカッターナイフ分の重みがある、パーカーが置かれた。その上から凛彗さんの手が載せられた。
「……もう、大丈夫だよ」
彼が微笑む。その声があたたかくて、ボクは泣きたくなった。
「……つまんないの」
そんな再会をぶち壊すような声は兎戯君だった。凛彗さんが体ごと振り返ったので彼の顔が目に入った。口を尖らせて拗ねているようだった。
「ちえっ、なんだよ。いいところだったのに、もうちょっとで全部よくなったのに」
兎戯君が苦虫を噛み潰したような顔で「うぜえ、超うざい」と不快感を露にした。
正直初めて見る姿だったから、ボクは驚いてぽかんとしてしまった。
ボクの知る兎戯君はストレスのコントロールがうまくないから、泣いて喚いて駄々をこねる少年だった。でも目の前にいる彼は違う。
成長したというよりも――こじらせている感じに近かった。
「遊兎都君ってずるいよね。なんでも手に入れちゃうんだもん。おれなんかひとっつも手に入らなかったよ。親から愛されなかったし、旦那様にも気に入ってもらえなかった」
兎戯君はぶすくれた顔でベッドに腰かけた。
「なんで? なんで、遊兎都君ばっかそうなの? 『魔性』ってそんなにイイものなの?」
「……は?」
「は? じゃないよ。きみのそれ、『魔性』っていうんだって。どんなひとでも虜にできちゃうすごい体質。はあ、せっかくならおれにも分けてほしかったよ……おれも愛されたかったなあ」
兎戯君は膝を抱えてぶつぶつ文句を言い始めた。
ボクはそれよりも彼が言った『魔性』が気になった。
どんなひとでも虜にする体質? ボクが?
「おれも神さまから同じ体質を授かったんだよ。でもきみと同じものは手に入らなかった。誰も彼もおれの体にしか興味がないんだ」
「な……、なにを言っているの?」
「だーかーら! 『魔性』の話だよ!」
だから、なんだその『魔性』っていうのは。
誰かに同じことを言われなかったか――あれは、たしか。
――お前は他人の人生を狂わせる……『魔性』
吟慈さんの言葉だ。
他人の人生を、狂わせる?
ぐるぐると考え込んでいると、兎戯君が底意地の悪い顔をして「え、もしかして遊兎都君……知らないの?」と嗤った。
「ふうん、きみのお父さんもお母さんもぉ、きみのことをほんとうにすっごくすっごく大事にしてくれていたんだねえ、よかったねえ」
褒められているのに馬鹿にされているみたいな物言いだった。
羨望ではない、嫉妬である。妬み嫉みをぶっかけた甘ったるい言葉が、耳に絡みついた。
「あのね、それじゃあね! おれが、教えてあげるね!」と兎戯君は楽しげだった。
「遊兎都君はね、『魔性』なんだよ。きみにその気がなくっても、きみはいろんなひとをメロメロにする。だからそのふたりはメロメロなんだよ? よかったねえ、愛されているって錯覚ができて。そんなこと、ぜーんぜんないのにねえ?」
「……」
言葉が出てこなかった。
愛されているという、錯覚?
ボクの体質のせいで、ふたりはボクのことを。
そんな、まさか。
――でも、その方が理に適っているんじゃないのか?
ばくばくと心臓が音を立て始める。
気持ちが悪い。視界がぐらぐらと揺れていた。
――愛されていると、思ったのか?
誰かがボクの耳元で呟く。それはボク自身の声だった。
ぎょっとして身をすくめると「遊兎都」と声が降ってきた。
「凛兄ちゃん……」
「違うよ。君の体質は何も関係ない」
紫苑色の目で真っ直ぐボクを見つめて、凛兄ちゃんは力強く断言した。
不安が消えていく。音を立てていた心臓が正常に脈打ち始めた。
「『魔性』体質ってのは、他人をメロメロにする――んじゃなくて、信仰に近い気持ちを誘発するってえのがまあ一般的な解釈らしい」
説明口調で割って入ってきたのは、蜜波知さんだった。表情が険しい。
「まあ簡単にいやぁ、信者を無意識に増やしちまうって話だ。まあだからなんだって話なんだけど。俺はそんなの関係ナシに遊兎都のこと好きだし」
「っは、なにそれ。だからそれが錯覚だって言ってるでしょ」
「違ぇっつうの。錯覚かどうかなんざな、大人になりゃわかるンだよ。ガキにはわかンねえかもしれねえけどな」
「あー、はいはい……。そういう自分がアテられてないって、正気だって言いたいからってそんな嘘ついて――」
「嘘じゃねえんだよ、クソガキ。――俺は遊兎都が好きだ」
はっきりとした蜜波知さんの声。
凛兄ちゃんへの気持ちを自覚した時と同じように、再びボクの心の歯車が、けたたましい音を立てて動き出した。
ぎいぎいと言いながら、世界を明るく照らし始める。
「真っ直ぐに俺を受け入れてくれる遊兎都が、俺は一等好きなんだよ」
琥珀色の目はきれいで、澄んでいて、宝石みたいだった。
蜜波知さんはボクの額に手をやり、ついでぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。それがなんだか嬉しくて自然と口元が笑みの形になる。
「ああ、でも……やっぱ、駄目かあ」
「……は?」
「――オコサマには、わからねえよなぁ。難しいよなあ、――なあ?」
蜜波知さんははっきりと兎戯君を馬鹿にしていた。たぶん、相当怒っているのだと思う。
兎戯君が目を見開いて固まっている。暫くの間そうしていて、それからゆっくりと立ち上がった。
「ふうん……」
目の中に光がない。うろを見ているような心地になった。
怒りでもなく、悲しみでもなく、呆れているわけでもなく、ただただ突き付けられた事実を兎戯君は羨ましがっている。
「いいなあ、いいなあ……いいなあっ!」
だんっ!
兎戯君が強く、足を踏みつけた。
「ねえ、なんで? なんできみばっかりそうなの? きみとおれの違いってなに? あのひともきみのことばっかり言うんだよ、後ろの具合はおれの方がずっといいはずなのに! 口でするのだっておれが……ずっとずっと……ずぅっと上手なのにさあっ!」
「あのひと?」
「そう、あのひと……おれを神さまに会わせてくれたひと……」
「神様に?」
「そうだよ、おれはねえ、拾われたの。旦那様に捨てられてそれを拾ってくれたんだ。あのひとはおれをトクベツにしてくれるって言った。だから、だからだからだから!」
だんだんだんだん!!
兎戯君は地団太を踏む。床が抜けるのではないかってぐらい、強くその場を踏みつけた。
「だから! おれはァッ! あのひとの力になりたくってェッ!! ああああああああもうなんだよ!!」
暴露なんてものじゃなかった、爆発している。
兎戯君は髪の毛を掻き毟りながら叫び続けた。
声が高いから、きんきんと耳に、頭に、響いた。
「なんでおまえなんだよ!! なんの力もないクセに!! なんの力もねえクセによォッ!! ただカワイソーなガキだってだけでェッ!! オトコふたりも誑かしやがって!! おれとおまえの何が違うんだよッ!!」
唾をまき散らしながら、兎戯君は吠える。
なぜおまえが、なぜおまえが、と何度もボクに問いかけてくる。
脳味噌を揺らすような絶叫に、段々頭が痛くなってきた。
痛くて、痛くて、苛々する。
知らねえよ、ボクだって知りてえよ。
ボクのせいだって? 可哀想なボクには可哀想な生き方がお似合いだって?
うるさい、うるさいうるさい。
黙れ、ボクは。
ボクはな、ボクだって。
「なァッ! おい!! なんで――」
「――うるさい」
ボクは凛兄ちゃんの腕から降りた。そして、ガキの胸倉を掴んで引き寄せた。
ああ、むかつく。自分だけ、自分だけが被害者面しやがって。
この世の中で一番不幸みたいなツラして、ボクの人生を勝手に。
勝手に決めつけやがって。
ボクがひとり、ズルしたみてえな、クソみたいな、考え方をしやがって。
苛々するんだよ。
「うるさいってんだよ、ガキ」
「は? え? 遊兎都くん……?」
「可哀想なガキ? そうだな、そうかもな。けどなぁ、それだけでボクの人生終わってねえんだよ。可哀想なまんまで生きるなんてごめんだからさ、ボクはボクなりに幸せってやつを見つけようとしてんだよ」
「遊兎都君、あの……え?」
「他人の人生を指くわえて羨んでるヒマがあるならなァッ! ちょっとは自分の頭で考えろよッ!!」
羨まれるのは結構だ。同情もいいだろう。
でも、ボクがなにもしないで得たものだと、勝手に決めつけられるのは腹立たしい勘違いだ。
笑い方、媚び方、体の清め方、準備の仕方、甘え方。あらゆることをボクは覚えた。
生きるために、生き延びるために。
ボクは必死にもがいた。もがいた結果がここにある。
生き続けた結果が、ここに残っている。
「……遊兎都君……」
「――やっぱりボクは、キミのことを好きになれないよ兎戯君」
襟元から手を放した。
久しぶりに激昂なんてものをしたから、喉がからからに乾いていた。
「……嫌いとも言えないけれどね」
兎戯君は放心状態だった。
ボクが感情を露にするなんて思いもよらなかったのだろう。ボクだって思いもよらなかった。
案外激情型なのかもしれない。
「もう、これ以上キミと関わりたくない。……帰るよ」
言って背を向けた時だった。
ぱりん、とガラスの砕ける甲高い音がした。何事だろうと首だけ後ろに回してボクは言葉を失った。
いつの間にか兎戯君の隣に若い男が立っていた。
「……え?」
絶句した。なんで、このひとが、ここにいるんだ?
現実が遠のく。ここは、どこだ?
正気か、狂気か。
ボクはまだ、あの日の夢でも見ているのか?
――烏のように真っ黒な髪、目は赤と金のオッドアイ。切り刻まれたような傷跡で覆われているのに、それらを物ともしない美しい相貌。
知っている。ボクは彼を理解している。
ボクをぐちゃぐちゃに切り刻んで、笑って、犯した張本人。
「……旦那様……」
ほろりとこぼれたその言葉に、彼は――紫乃盾晴矢は笑った。




