Ep.37「欲深くあれと兎は囁く」
ここはどこだろう。
甘い香り――いや、これはあのひとが好んで炊いていたお香の匂いだ。
森の中にいるような気持ちになる清々しい匂い。でもそこで行われることを考えると、ちっとも清々しくなんてなれなかった。森の中で狩られる獲物の気持ちだ。
ボクはこれからこの部屋の支配者に、殺される。
「――遊兎都……ああ、いい子だ……っ」
聞いたことのある声に起こされて、瞼を開ける。
横倒しの視界が開ける。手足は縛られていない。ボクは毛足の短い絨毯の上に転がっていた。部屋は赤や黄色で派手に飾られていて、その中にぎしぎしとベッドのスプリングの軋む音が響いていた。それに、わざとらしい喘ぎ声と嗜虐性を含んだ声が重なる。
あれは……。
――気持ちがいいんだろう? だったらそう言いなさい、ほら遊兎都
――はい、とても気持ちがいいです
あれは、ボクと元主人だ。
自分自身の情交を見ている。傍目から見るとなんと哀れなものだろう。
狩りだなんて考えていた自分が馬鹿に思えた。
あれはおままごとだ。欲望赴くままに行われる哀れで、陳腐な、お遊戯である。
何が気持ちいいだ、なにひとつ気持ちよくなかった。痛かっただけ。でも、気持ちいいと言わないと責めはひどくなる一方だったから、生き残るために言った。
気持ちいいです、もっとしてほしいです、って。
演技している時は完璧だと思っていたけれど、改めて聞くとすごく嘘っぽいな。
――ああ、いいよ遊兎都
――覚えも早いし、それに君は、
耳に絡みつく睦言。ボクが覚えたあれこれを称賛し、ボクの体のつくりを褒めそやす男。
うれしいと答えれば、彼は勝手に喜んでボクをひどく責め立てた。
おぞましいほど作られた声音で、ボクは主人のご機嫌取りに勤しんだ。
どうしてボクはこんなものを見せられているのだろう。
というより、たしか――
「遊兎都君」
聞き慣れた声に、ボクの意識が覚醒した。
あまりにも現実的な夢――、いや、あれはボクの過去だった。
『使用人』にされてから経験した出来事。
あまり詳しくふたりに話していない内容だった。
「どうしたの? 久しぶりに見た自分のえっちな姿にコーフンした?」
「……してないよ」
ベッドに横になったボクを、兎戯君がうつ伏せになった状態で、両肘をついて眺めていた。
天蓋のついた大きなベッド。ピンク色の布が周囲をすべてを同じ色に染めている。周囲には当然のように兎面の男たちが佇んでいる。さっきよりも多い人数だ。
「そうだねえ、ココもぜーんぜん反応していないし。あれっ、遊兎都君もしかしてもうダメになっちゃったの? そんなにしているの?」
「……まだ機能するよ」
「ふうん、そっか」
言いながら兎戯君が、ふにふにとボクの股間をまさぐった。嫌だったので半身を捻って回避すると「ふふふ、くすぐったい?」と彼は笑った。
お茶の香りで酩酊したところまでは覚えている。あのふたりも同じだったのだろうか。ネウの気配も感じないし、どうやら完全に引き離されたようだ。
上体を起こす。だるさはまだあるけれど、なにもできないほどではない。
「遊兎都君。今日は泊っていきなよ」
恐ろしい提案をする。ボクは首を振った。
「どうして?」
「何されるかわからないから」
「何もしないよ、ひどいなあ」
「……」
信用できるか。
取り合っていられなかったから、ボクはベッドを降りた。帳をくぐろうとすると、すかさず兎面の男が立ち塞がった。邪魔だな、カッターナイフを、と手を後ろに回した時に気づいた。パーカーを着ていない。
半袖の黒いワイシャツと半ズボン姿にされている。
「危ないものがしまわれていたから、パーカーはおれのほうで預かっているよ」
ベッドに寝転がったまま彼は笑みを浮かべてそう言った。頭のねじがいくつか外れていようと、兎戯君賢いところはちゃんと賢いのだ。
ボクより上背のある男を相手にどうこうできる体術は会得していない。諦めてベッドに腰かけた。後ろから兎戯君が寄りかかってくる。
「ねえ、遊兎都君」
「……なに」
「しよーよ」
吐息を十二分に含んだ誘う声が、耳に流れ込んでくる。
ああ、気持ち悪い。ぞわぞわする。
それはかつて、ボク自身がやっていたことだというのに。
「……しないよ」
「どうして?」
「どうしてって……。する気が起きないからだよ」
「どうしたら……、する気になってくれる?」
「なにをしたってする気にはならない」
「……へえ」
兎戯君の指がボクの胸板を滑った。嫌な予感がして身を引くと、彼は唇を尖らせて不満そうな顔をした。
「なあに?」
「……ボクに触らないで」
「どうして? 遊兎都君、昔よりずっと敏感になってない?」
兎戯君が嘲笑った。
ひとに触れるのなんて日常茶飯事だった。それこそ、不潔な手でべたべたと遠慮なしにいろんなところをくまなく触られたし、舐められたりした。ボクの体はボクのものじゃないから、大切になんかしていなかったのに。嫌悪感なんて抱かなかったはずなのに。
敏感になったのだろうか。ボクは返す言葉に失って、唇を噛んだ。
「ねえ、遊兎都君。だからさぁ……、おれたちの居場所はそっちじゃないんだってば。体はどこもきれいじゃないの。知らないひとにたくさん犯されて掻き回されて……もう男の子としても不完全だしもちろん女の子でもない……」
「……」
「それに遊兎都君のそこ」
指で示されたのは胸だった。ボクは心臓を掻き毟るみたいにワイシャツを掴んだ。
「前よりもずっとかわいいカタチをしていたよ。ねえ、遊兎都君もいろいろ言いながらおれとおんなじなんだよね? 快楽に従順で誠実なんでしょ? ダンディなおじさんがきみのことを庇っていたけれど、ちゃんと教えなくちゃだめだよ。折り合い? 清算? ばかみたいだね。出来上がったものにどう折り合いをつけるのさ。もう完成しているんだから、受け入れるもなにもないんだよ。そういう風に生きる以外に、道なんかないんだから。壊れちゃってるんだから、全部。直せないくらいに。――遊兎都君、ねえ。きみの体だっておれと同じなんでしょ? キモチイイことをたくさんほしがる、おれと同じカラダでしょ?」
ざくざく、とナイフで体を切り刻まれるようだった。兎戯君の言葉のどこに反論する余地があるのだろう。ボクは否定の言葉が出てこなかった。
卑猥な体だと言われて違うと言えないのは、それが本当だからだ。
ふたりに抱かれた時ボクはどうだった? 一度で満足したか?
違う。
自らねだったのだ。もう一度、もう一回と。
――それは、彼とどう違うっていうんだ?
相手が不特定多数じゃないから? だれかれ構わず抱かれないから?
そうだ、ボクは愛するひとたちとしか。
――本当に?
ボクは最初トウキョウに来た時身を売ろうとした。
凛彗さんに止められてやめた。
――それって、それは?
絵具を滅茶苦茶にぶちまけて、かき混ぜたみたいだった。
気持ちが悪い。見ていられない。でも、凝視してしまう。
極彩色の地獄のなか。
ボクは? ボクって?
ボクは――どういうカラダだったっけ?
「遊兎都君。今更清純ぶったって仕方ないよ。おれたちは教え込まれたんだ……だから、仕方がないんだよ。キモチイイことはキモチイイのだもの」
甘い香りがする。喉の奥に絡みついて言葉が出てこない。
兎戯君がボクを抱き寄せた。同じくらいの身長だから、顎が彼の丸い肩に乗った。
子どもみたいな背丈なのは、娼館で成長しないように調整されたからだ。成長すると価値がなくなるから。
ボクらは搾取され続けた。ボクは可能性を諦めて、兎戯君は可能性を信じた。
それが違い。
でも、それだけの違い。
ボクがしてきたことは兎戯君となんら変わらない。訪れる客に媚びてねだって――痛いのだって気持ちがいいと自分を騙して、嘘の声で喘いだ。
そのうち、段々本当になった。本当にきもちが、よく、なって……?
「遊兎都君」
「……」
「いいんだよ、堕ちちゃおうよ」
「……」
「幸せは欲望の底にあるんだよ……」
「……」
鳥肌が立った。でも嫌じゃなかった。
ボクは自然と兎戯君を抱き締め返していた。そうしなければならないと思った。
兎戯君の薄い唇がボクのそれと重なった。唇をこじ開けられて舌が入ってくる。
クラクラした。何も、考えられない。
考えたくない。もうこのままでいい。
全部忘れてしまえばいい。ボクの過去も今も、未来も。
手放せば、無くさずに済むはずだから。
だから、だから――
「楽しそうじゃねえか、俺たちも仲間に入れてくれよ」
あれ、この声は……。




