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Ep.35「March hare House」

 ボクと彼が出会ったのは男娼時代。まだボクの体に傷がひとつもなかった頃。

 ボクより遅れてやってきた、同い年の子だ。名前に兎の文字が使われているという共通点で話すようになったけれど、彼のことが苦手だった。憎悪するほどではないけれど、積極的に会いたいと思えるひとではない。


「なんでまた?」


 ボクの話を聞いたハニーBが問う。凛彗(りんぜ)さんは労わるみたいに頭を撫でてくれた。


「……兎戯(とぎ)君、ご両親から虐待を受けていたみたいで。そのせいで愛情に対してかなり執着があるんです」

「へえ」

「ボクがそのことを知らずにうっかり親の話をしてしまって。そうしたらすごく嫉妬されて……」

「されて?」

「その後嫌味を言われたり、嫌がらせされたり……いろいろされました」

「子どもっぽい……いや、子どもか」


 ハニーBが神妙な面持ちで言う。

 そう、子どもだった。どちらも、未成熟な心と体で商売していた。

 ボクの方が余計な感情を捨て始めていたから、少しばかりひねくれた子どもではあったけれど。


「はい。ボクも子どもだったので、そんなことが続くと兎戯君のことがいやになって……。だから〝いじわるするならとぎくんなんてきらい!〟ってはっきり言ったら」

「言ったら?」

「……その場で大泣きされて、縋られて、すごい剣幕で〝おれのこときらわないで!〟って」


 沈黙。

 ハニーBは天を仰いでいた。


「……情緒、ぶっ壊れてんなあ……」

「まともな幼少期を過ごしていないから、そのあたりは理解できなくもないのですけど……。でもさすがにボクも疲れちゃって……」


 兎戯君が受けていた虐待は無視だった。存在がないように扱われ続けていたらしい。

 ゆえに、見てほしい、構ってほしい、好いていてほしい――そういう感情を彼は、うまくコントロールできない。だから全力で発露してしまう。

 感情が爆発するというのは人間誰しも経験のあることだろうけれど、兎戯君の場合は常に、そうだった。付き合うには根気がいる相手だ、できれば関わりたくない。


「んで、その厄介なやつから是非うちに来てほしいと?」

「……はあ、やだなあ……」


 本音だ。本当に行きたくない。


「行かなくてもいいんじゃねえのか」


 ネウが言うけれどでも。行かなくてはいけない。


「……行かないより行った方がマシなんだよ……この場合」


 兎戯君は無視されることが大嫌いだ。だから、この誘いを無視したとき、どうなることかわかったものじゃない。恐ろしすぎる。

 凛彗さんが頭を撫でる手を止めて、そのまま頬に触れた。びくっとしたけれど嫌じゃない。


「……心配することないよ。……君は僕が守るから……」

「……ありがとう、凛兄ちゃん。会って話ができれば……たぶん、大丈夫だよ」


 その時のボクは、ちょっと楽観的だったかもしれない。

 或いは大人になって、少しはマシになっていると期待していたのだと思う。

 ボクの予感は悪いほうしか当たらないというのに。


 ◇


 兎戯君の家は『平和的な区画(グリーン・エリア)』の中でも、ひときわ目立つ巨大な屋敷だった。

 見物人も多くいる。ハニーBが行っていた最近、というのは本当にごくごく最近のことなのだろう。人垣の中を行くのは気が引けたが、ここまで来て引き返す選択はない。


「こりゃすげえな。とんでもねえ金持ちくらいしかこんなの建てられねえぞ」

「……あの」

「うん?」

「ハニーB……、家に帰らないんですか?」


 このひとは事務所を持っていたはずだ。どうしてまだボクらと一緒にいるのだろう。

 するとハニーBが不思議そうな顔をした。


「なに言ってんだ、帰れるわけないだろ。俺ァ裏切り者なんだぜ? 事務所なんか戻ったら蜂の巣にされらァ」

「あ……」


 そうだ、このひとはもう、雅知佳(まさちか)さんにとって敵なのだ。

 しんみりしかけたところで、がし、と肩を掴まれた。顔が近づく。

 ハニーB、意外とかっこいい顔しているんだよな。凛彗さんは美人だけれど、このひとはダンディって感じだ。だから突然、真面目な顔をされるとどきっとする。本人にはもちろん内緒。


「な、なんですか?」

「つーわけで。……今後ともよろしく、……な?」

「……」


 凛彗さんが殺意のこもった視線を向けた。ハニーBは笑っている。

 今後とも? 今後ともって、まさか。……()()も?

 呆然としているボクの耳元に、ハニーBが口を近づける。そして吐息混じりに、


「三人もいいが……、今度はふたりで、な?」


 と囁く。息がかかって、ボクは思わず身を引いた。凛彗さんの視線がより一層鋭くなる。

 本気だった。本気の目だ。怖い。


 ◇


 しかし――。

 今はボクの体が快楽にどうこうされる心配より、精神的にどうこうされる心配の方が大きい。さっさと再会を済ませてしまおう。

 気を取り直して、ボクは人混みを掻き分けて――凛彗さんがいる時点で勝手に人々は退いていったのだけれど――正門の前に立つ。正門の前には、顔の上半分だけの兎の仮面をした男性がふたり並んで立っていた。彼らはボクを見るとすぐさま門を開けた。入れ、という意味だろう。礼儀として一礼し、ボクらは敷地内に足を踏み入れる。

 何坪あるのかわからない広い庭には、茂みと背の高い木々が植えられていた。彩りは一切なく、ただ目にやさしい緑色が広がっている。特に変わったところはなかった。

 玄関の扉は、施錠されていなかった。不用心なのか、用心する必要がないのか。

 重い扉は凛彗さんが開けて、ハニーBが中を覗き、誰もいないことを教えてくれた。


「家政婦とか……そういうの、雇ってねえのか?」

「さあ……」


 玄関ホールも巨大だった。眩しい光を放つシャンデリアが天井からぶら下がっている。虚構のパーティー会場を思い出した。でも料理もなければ参加客もいない。

 だだっ広いホールに三人と一匹がいるだけだ。そして、内装を見てボクは、彼があの頃から全く変わっていないのだと直感した。

 飾られている絵画のほとんどが、男女が絡み合っているものだった。生々しい情欲が、筆によって官能的に描かれている。芸術的価値はあるのだろうが、彼が飾っているのだと思うとまた別の思惑を感じざるを得なかった。

「……拍車がかかっているな」と独り言ちると、フードの中でそれを拾ったネウが「……なんの、だ」と問うてきた。


「……兎戯君はその……なんていうか、……一種の依存症、というのか」

「依存症?」


 反応したのはハニーBだった。

 おじさんは飾られている女神像の腰あたりをしげしげと見ている。ボクが「……欲しいんですか?」と訊ねると、「いや石でこんなエロくできるもんなんだな」は悪びれる様子もなく答えた。

 おじさん、欲望に忠実すぎる。


「おい、遊兎都(ゆうと)。依存症ってなんのことだ」


 ネウがボクの言葉の続きを促した。


「性行為中毒っていうのかな……」

「……」


 ハニーBが微妙な顔をした。ネウが「なァん」と複雑な心情を吐露するような鳴き声をあげる。

 凛彗さんは無言だ。このひとの場合は、ただただ関心がないだけだろう。

 客からの投げ捨てるような愛の言葉に縋った彼は、それが嘘だとわかった翌日。


 絶望して首を掻き切った。


 幸い一命をとりとめたが、その後から、彼は火を見るよりも明らかに人が変わった。

 性行為に依存するようになったのだ。さながら愛によって傷つけられた心を埋めるように。

 回数をこなすうち、彼は人気を博すようになった。けれどその〝仕事〟ぶりがあまりに異常だったので店側は頭を抱えた。必要以上に、搾り取る勢いで求めるから、客側が恐怖して指名しなくなった。店はとうとう彼を厄介払いした。

 兎戯君をとある豪商のもとに強制的に嫁がせたのである。豪商は何人も愛妾を抱え込んでいて、道具のように扱って飽きたら捨てることで有名な男だった。それでも彼は喜んで嫁いでいった。自分を必要としてくれるひとだと、そう言って。


「……本当に会うだけで済むのか、そいつ」


 ハニーBの心配はもっともである。ボクはううん、と唸ってから「……正直襲われる気がしてなりません……」と返した。


「……ユウ君」


 凛彗さんがげんなりするボクの肩に手を乗せた。その目を見てぞっとした。


「大丈夫だよ……僕がそんなことさせないから……」


 殺す気満々だった。殺されても困る。殺してもこの世に留まりそうだから。

 寧ろ殺してくれた――構ってくれたひとだ、って凛彗さんにとりついたりしたらどうしよう。

 峰理(みねり)さん、お祓いとかやってくれるかな……。


「……遊兎都、ひとまずその兎戯とやらを探すのが先決だろう」


 ボクのどうしようもない思考を中断させたのは、神妙な声音のネウの提案だった。ネウは脱線した話を戻してくれるからありがたい。

 彼の言う通りだ。ここで待っていても迎えはきっと来ないから、こちらから会いに行くしかない。

 家まで来たという既成事実は作ったし帰ろうかな、とも思ったけれどでも、顔を見ないことには依頼の達成にはならないだろう。

 ――支払いをきちんと、お金で、してもらえるかわからないけれど。

 嫌な予感を引きずったまま、ボクは屋敷を捜索した。

 捜索は難航、しなかった。

 声がしたのだ。明らかに、している声が。


「……ンっ」


 鼻にかかった甘ったるい嬌声。

 聞き覚えのあるそれは、声変わりを経てもなお、少年時代の名残がある。

 男娼時代に飲まされていた〝成長しない〟薬のおかげだろう。


「遊兎都くーん?」


 ハニーBが、視線で訴えてくるのがわかった。

 言われてもな。


「……だよねえですよねえ絶対そうだよねえ……」

「……おい、開けるのか?」

「開けないよ、ボクにそんな趣味ない。終わるまでここで待つさ」


 ネウに訊かれて、ボクは扉の横に座った。

 あちこち視線を向ける先に、卑猥な意図の感じるオブジェがある。


「はあ……やになるなあ……」


 ボクの溜め息を拾ったふたりが同時に頭を撫でてきた。そして、手が重なったらしい。

 反発する磁石みたいな勢いで離れて、頭上で火花が散った。

 本当に仲が良いのか悪いのかわからない。でも、最初ほど険悪じゃなさそうだ。

 ボクはそう解釈して、「これでおさめてください」と手持無沙汰になって宙に浮いている手を取った。

 片方ずつ手を繋ぐ。


「! ゆ、遊兎都……っ?」

「お、おう……おぉう……おう……」


 よし、静かになった。

 ボクは扉の向こうの声が弾けるまで、ふたりと手を繋いだまま待った。

 空気はどことなく穏やかになっていた。

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