Ep.32「血は水よりも濃い?」
服を取り返し、着替えて、真っ白な長い廊下を歩く。
ハニーBによると、もう外は暗いらしい。彼はかっちりしたスーツから、あのいつものよれよれの格好に戻って、サングラスをしていた。
ボクの知る『情報屋ハニーB』の姿だった。
「もったいない」思わずこぼれおちた言葉を、ハニーBは拾って、「……ん? なんだ、惚れちまったか?」と嬉しそうに答えた。「そうかもしれないですね」とボクが更に返すと、彼は何か言いたげな顔のまま、結局何も言わなかった。
あれ、おちゃめな冗談のつもりだったのに。何も言われないとなんだか、ボクが本当に人たらしみたいじゃないか。
ハニーBは誤魔化すように「……とりあえず行くぞ」と言って駆け出した。ネウが「お前ってやつは……」と呆れていた。
雅知佳さんと凛彗さんがいる応接間は王宮の二階部分に相当する場所にあるらしい。王宮の廊下は迷路みたいに入り組んでいた。上に行ったと思えば下に行くし、目が回る。途中からハニーBの背中を見ることだけに集中した。
歩いている最中、ネウがフードの中で「はぁ……やっと、落ち着いて眠れる」と、呑気なことを言っていた。
「基本的にキミ寝ているじゃないか」
「熟睡できねえんだよ。オレはお前のフードの中でしか寝ないからな」
「え、そうしたらボクがしているとき眠れていないってこと?」
「……」
肯定も否定もせず黙ったから、たぶんこれは肯定だ。
それは困った。次から終わったらすぐ呼んであげないと。
ボクが胸中でそんな決断していると、「ここだ」と言って、前方のハニーBが立ち止まった。
びっくりするくらい簡素なデザインの扉である。吟慈さんの部屋の仰々しさのかけらもない。威厳は派手であればあるほどいい、とそういうことだろうか。
壁との境目が金色になっていて、ドアノブも金色である。注視していないと見落としそうなくらい、壁と一体化した扉だった。
ハニーBがドアノブを握り、そしてノックもせずに扉を開けた。開くと同時に雅知佳さんの嬉しそうな声が聞こえた。
――嫌な予感がする。
「ありがとう、賢明な判断だよ凛彗」
「!」
ボクは思わず、ハニーBを押し退けて部屋に入った。凛彗さんと雅知佳さんが同時にボクを見た。
「……おや?」
雅知佳さんの目はボクからハニーBに移った。
「おかしいなあ……、君は遊兎都の足止めをしているはずじゃなかったのか?」
芝居がかった物言いで、雅知佳さんが彼に問う。彼はおどけて「そうだったかあ?」と言った。返答に雅知佳さんの目が鋭くなる。
「……私を裏切るのかね?」
剣呑な空気になるが、構っていられない。
ボクは、凛彗さんに目を動かした。
「遊兎都……」
少しだけ唖然としている、ようだった。
「凛兄ちゃん、まさかエデンに行くの?」
人前では凛彗さんと呼んで、敬語で――とほんのりと決めていたことを思いっきり破って、ボクは問いかけた。
そんなつもりはないのに、語気が強くなる。
ネウが「遊兎都、落ち着け」と耳打ちしてくれているのに、ボクは止まれなかった。
また、だ。また感情が先行している。理性のブレーキをかけられない。
凛兄ちゃんは口を閉じた。どうして、何も答えないのだろう。
いつもなんともないような、些細な行動がすごく気になった。
「……」
沈黙。肯定の意味。
そんな、なんで。どうして。
「雅知佳さんに協力して、……どうするの?」
「……」
凛兄ちゃんは答えない。
「ボクのことを想って協力するっていうの、凛兄ちゃん」
「……そうだよ」
「ボクを危険な目に遭わせたくないから、雅知佳さんの意思に従うんだね」
「……うん」
そうか、やっぱりこのひとはやさしい。
やさしい。やさしいから、でも。
「だめ」
何も考えていないボクの口から、その言葉が滑り落ちた。
冷静さを欠いている自覚はある。でも、どうしてもそう言わなくてはいけないと思った。
蓋をした黒い塊が浮上する。浮上して、ボクの口をこじ開ける。
「凛兄ちゃんが言ったんじゃないか。ボクに人生を左右されるのが幸せだ、って。だったらボクの意見を最優先にして、ボクの意見も聞かないのに勝手に決めないで!」
どうしてそんな、ひどいわがままを言えるのだろう。
ボクのことを想ってなら、彼の判断は間違っていないはずだ。
なのに、ボクはどうして彼の意見を突っぱねているのだろうか。
理性は言うけれど、感情は無視していた。
冷静であろうとすればするほど、それを妨げる何かがあった。
「……遊兎都」
ほらみろ、凛兄ちゃんが困っている。
大人になれ、梵遊兎都。
「おやあ?」
雅知佳さんだ。口調に嘲りがふんだんに含まれている。
「ずいぶんとわがままになったねえ遊兎都。ザイカを出て人格が変わったのか? それとも、それが君の本性? 君のことを想っての苦渋の判断だよ。それをそんな風に……まるで女王様のようだ」
彼女の言い分はその通りだった。主従関係じゃなくて恋人関係なのに。
ボクのことを想ってくれているから、彼は雅知佳さんに賛同しているというのに。
――彼のことを想うなら、ボクは彼の意見を受け止めるべきだ。
理性が囁く。でも、口からこぼれるのは、
「いやだ」
というわがままだった。
あーあ、と頭の中で冷静なボクが、今のボクを見て溜息をついた。
「……遊兎都?」
「誰かに苦しめられている凛兄ちゃんを見るのはいやです。彼はボクの恋人なんですよ、彼を苦しめる存在に従いたくなんてない」
彼はボクの恋人で。ボクが大切にしたいひとで。
そのひとが、彼を苦しめている元凶の手となり足となる様をボクは見たくない。
――違う。
ボクはそんなきれいなことを考えていない。
本当は、全然違うんだ。
邪魔してほしくないだけ。ボクと彼の間に誰かが入り込んでほしくないだけ。
「ボクらの世界の邪魔をしないでください」
やっと、繋がれたのに。
好きと言って、言われて。大切にして、されて。
ありきたりだけれど大切な幸せだ。
なのに、またこのひとの手のひらの上で、盲目の賛美に当てられてどこに行っても見られているような窮屈な世界に閉じ込められるのなんて、絶対に嫌だ。
――ひととおり、わがままを口にして黙った。
途端に襲い来るのは自己嫌悪だった。
最悪、だ。
最低すぎる。ボクってこんなやつだったのか。
こんなことだったら、感情なんて捨てたままの方が良かったかもしれない。
「お前、相当なヤキモチ焼きだな……」とネウが言うけれど、これは――こんなのは、ヤキモチとは違う。
独占欲や束縛癖。そういう類の依存性のある感情だ。
ああ――、翠君が言っていた〝病んでいる〟のって実はボクの方なのかも。
妙な沈黙。気まずい時間だった。
ボクがハニーBを盗み見ると、彼も意外そうにボクを見ていた。
いやいや、違うんですよ? 普段は割と物わかりのいい子です。
今はちょっと、混乱しているだけで。
混乱しているというか、動揺しているというか。
恋しているというか。
「……ッ」
誰かが笑った気がした。
誰だろう? ハニーBじゃない、雅知佳さんでもない。
それじゃあ……。
「……く、……っ、ふふふ……は、はは……はははっ」
凛兄ちゃんが笑っていた。
いつも静かに口角を上げて笑みを表現する印象のあるあのひとが、肩を震わせて声を上げて笑っている。
「凛兄ちゃん……?」
「……ははは、……はあ……っ……ふふ……」
「な、なんだ凛彗……、どうした?」
「……雅知佳さん。……僕は、間違えるところだった」
彼は雅知佳さんに振り返った。
笑うところを初めて見るせいか、彼女は緊張しているようだった。
「……なんだと?」
「……僕は遊兎都のものなんだ。ずっとずぅっと、あの子だけのもの……。だから、君に従う余地なんてそもそもなかったんだよ……ああ、間違えるところだった」
凛兄ちゃんは胸に手を当ててそう言った。それからボクの方を見る。
目で撫でられている感覚がした。愛おしいものを狂おしそうに見る瞳。
ぞくっとする視線だった。
「……っ君の力が公表されれば君だけじゃないっ、翠玉や雨汰乃に――」
噛みつくように、雅知佳さんが叫ぶ。
――そうか、凛兄ちゃんに関連する情報が漏れるとそのほかにも影響があるのか。
全く考慮していなかった。どうしよう。
頭を抱えそうになったボクの耳に、彼の声が届く。
「……どうでもいいよ、そんなの」
本当にどうでもよさそうな声だった。
「それに……。皇彌君、呉綯さんや唄爾さんが一緒なのだから大丈夫でしょ……彼らが強いこと、君ならよく知っていると思うけれど……?」
「……っ」
翠君には皇彌さん、雨汰乃さんには呉綯さんと唄爾さん。
『三大規格外』と呼ばれた彼らの力は凛兄ちゃんとは、また違う意味で桁外れである。
一筋縄ではいかない相手ばかりだ。
雅知佳さんは反論に窮したのか、「後悔することになるぞ……」と脅した。先ほどの余裕が嘘のように、弱々しい声だった。
そんな彼女を、凛兄ちゃんは嘲笑った。
「ははっ、しないよ。遊兎都の選んだ判断はすべて正しい……むしろ間違っていることのほうがありえない。間違っているというなら、間違っていることのひとつひとつを全部僕が壊すだけだ……」
彼の言葉を聞いて、雅知佳さんは心底気の毒そうな表情をした。
おぞましいものを見るような、可哀想なものを哀れむような、なんとも言い難い顔色だった。
「やはり……。狂わされているんだな、君も……」
狂わされている。
先ほどハニーBの口からも聞いた。
〝他人の人生を狂わせる〟なんて。
ボクにそんな器用な真似できるわけがない。
「……光栄だよ」
凛彗さんが、ゆっくりと静かに答える。
「遊兎都に狂わされる人生なんて最高以外の何物でもない……ね、おじさん?」
「……」
彼の視線の先には、ハニーBがいた。
――だから、狂わされてるんだろ
「……そうだな」
ハニーBの答えに、雅知佳さんは眉間に皺を寄せた。
「……やはり、男など皆同じか……。意思など残しておいたところでなんの意味もなかった」
雅知佳さんの目に宿るのは、失望。凛彗さん個人に対して、ではない。
男という生物そのものに対する、失望だった。
男嫌い、とは少し違う気がするけれど――詳細を言及できるほどの間柄ではない。
ボクと彼女は敵同士なのだ。深い溝を隔ててボクらは互いを見つめている。
「残念だよ、凛彗。君が遊兎都君に心酔して、そこまで馬鹿になっているとは思わなかった」
嘲りを含んだ声に対して、凛彗さんもまた嘲笑して返した。
「なんとでも言えばいいよ。……君のように、愛さえ利用するような薄情者に何を言われたところで、痛くも痒くもないからね……」
雅知佳さんはそれ以上、何も言わなかった。顔を伏せて、足元を見る。ボクもつられてそっちを見て、気づいた。
彼女の上等そうな革靴の、向こう側が透けていた。「え?」
「……禮世か」と凛彗さん。禮世さんの、『幻影の異能』だったか。
「ああ。……あれはまだ、マシだった。私と組むことを承諾して、協力してくれたよ。おかげさまで『楽園』の完成にまた一歩近づいたよ」
雅知佳さんは膝から下がもうなくなっていた。
どんどん欠けていく。輪郭がほどけて、色が抜けていく。
「……」
「血の繋がった家族より赤の他人を選ぶんだね……まったく、どちらが薄情なんだか」
「……」
血の繋がった家族。
家族に繋がれた兄弟。
気持ちで繋がったボク。
どの繋がりが一番、凛彗さんの中で強いのだろう。
ボクはボクを優先してほしいと思う反面、どれも見捨てないほしいと思った。
でも、これもわがままだ。下唇を噛んで、こぼれないように我慢する。
好きになると、両想いになるとこうなるものなのかな。
雅知佳さんの言葉に、凛彗さんはお手上げだ、みたいに肩をすくめて見せた。
「生憎、僕には腕が二本しかないからね……」
「……片腕だけでも弟にはやらないのか?」
問いに、凛彗さんがボクを見た。
紫苑色の目がボクを捉えている。
「僕は両腕で、ユウ君を抱き締めたいんだよ……」
その熱のこもった言葉にどきん、と心臓が跳ねた。
「……そうか。……ああ、そうか」
答えに、雅知佳さんは吐き捨てる。
「君たちは本当に。ああ、本当に苛々する……苛々するよ、本当にね……」
なんだろう。
その言葉はまるで自分に向けて言っているような……。
ほどなくして――、雅知佳さんの姿が空気に溶けていった。
消えたその後、花の香りが微かに残った。




