Ep.23「恋し恋されて」
それから、ホテルに戻って。
ずっと、沈黙だった。
「……」
「……」
凛彗さんは変わらずボクを後ろから抱き締めている。ぬくもりがあたたかくて苦しかった。
彼はハニーBから情報を得るのを嫌がっているから、ボクが訊ねるほか真相を知る術はない。でも、ボクは知るのが恐ろしかった。
知ってしまえば最後、ボクはきっとどうしたって戻れない場所に立たされる。
ボクの手に負える事態ではないことをなんとなく察していた。
知らぬが仏で事が済むなら、そうしたい。しかし、それがとても不誠実で酷な対応であるともわかっている。
嫌われたくない、好かれていたい。
――過去のことも、忘れていたくせに。好きなんて口にしてもいないくせに。
想いを保留にして弄んでいるようなものなのに。
あまりに自分勝手だ。そんな自分が嫌だった。
きっと、知りたいと言えば、凛彗さんは全部余すところなく教えてくれるだろう。
ボクが知るべきことなのか?
ボクにその覚悟はあるのか?
自問自答の末に、回答不能。馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿しいとは思うのだけれど。
ふたりの会話に追いつけない自分が苦しかった。
ふたりの会話に入れない自分が寂しかった。
でもそれは凛彗さんのためじゃない。ボクのためだ。
ボクが嫌な気持ちになったから、ならないようにしたいだけだ。
そんなの、とんでもないわがままじゃないか。
「……遊兎都」
ぎゅう、と凛彗さんが抱き締める力を強めた。
「……はい」
「……遊兎都は知らないでいても、いいよ……」
「……」
「僕は……、遊兎都に僕のすべてを知ってほしいとは思っていないから」
「……」
「少し面倒くさい家に生まれてしまったから……僕がその責任を放棄してここにいるから」
「……」
「だから遊兎都を巻き込んでしまっているだけ、……なんだよ」
「……」
「……でも……、そろそろ解決しなければならないみたいだ……」
「……」
「……放っておいた僕に非がある。だから僕が僕自身で解決するべきことだ」
「……」
「遊兎都、僕は君を置いていかないと言ったけれど……」
「……」
「……この件に関しては、その約束を破らせてほしい」
「……え?」
「……君を巻き込んで苦しい思いをさせるのは嫌だよ。……僕も苦しい。……だからこの件が終わるまで、少しはなれ」
「いやだっ!」
自分が思うよりずっと大きな声が出た。
ボクもびっくりしたし、凛彗さんもすごく驚いていた。
ばくばくと心臓がうるさい。
「い……いやです、そんなの……ボクは認めませんよ……」
声がみっともなく震えていた。
凛彗さんはボクの頬に触れて、子どもをあやすみたいにやさしい声で言う。
「……遊兎都。でもね、これは……」
「だったらボクも連れて行って!!」
ボクは間違いなく、子どもだった。
だから凛彗さんは必死に説得してくれている。
声を荒げることも、感情を露にすることもなく。
冷静に。
なのに、なのにボクは――
「何もっ……! 何も知らないから、置いていくんですか? ひどいですよ、ボクのことひとりにしないって約束したのに。破ってもいいなんて、だめです。守ってくださいっ、ずっとそばにいてってちゃんと守ってください。ボクをひとりにするなんて、そんなのだめですっ!!」
制御が利かなかった。
ここまで壊れていたのかボクは。外で自分を見ている自分が、うんざりしていた。
それがわかるのに、止まれなかった。
彼の腕を掴んで、体を揺すって、いやだいやだと駄々をこねる。
なんて無様なのだろう。なんて愚かなのだろう。
自分をいくら嘲笑しても、ボクの中で爆発した感情は考えなしの言葉を放る。
まるで足元にある小石を手あたり次第に拾い上げて、滅茶苦茶に投げるような幼稚な行動だった。
「連れていってください、ボクのこと守ってくれますよね? だったらいいじゃないですか、ボクがいれば凛彗さんはきっとだいじょうぶです、だから」
「遊兎都」
「だから、……だから……ッ!」
「遊兎都……ごめんね」
どうして、あなたが謝るのか。謝るべきは、ボクなのに。
凛彗さんが誠実に対応しようとしているのを、ボクが台無しにしているのに。
守ってくれるだって? なんてひどい自己中心的な思考なのだろう。
ひとりで生きられないやつが、他人の道を塞ぐものではないだろうに。
立ち止まるな、立ちはだかるな。
わかっているのに、わかってくれない。
心がボクを置いていく。
知らない感情があふれて、あったかくて苦しかった。
彼の指が、目の下を滑る。拭う仕草だった。
ああ――、泣いているのか。
「……ごめんね。……泣かせたかった、わけじゃ。……ないのだけれど」
ボクも泣くつもりなんて、なかったですよ。
言葉にならず、涙になってぼろぼろとこぼれていく。
錆びて朽ちて欠けているばかりだったと思っていた歯車が、おぞましく醜い音を立てて回り出した。
ぎい、ぎい、と喧しくボクを駆り立てる。
「……遊兎都」
「……連れて、……いって……」
「……遊兎都、どうして。……嫌なの?」
「……」
紫苑色の目は、不安そうだった。
迷子みたいに、頼りない。
そんな顔をしないでほしい。
「遊兎都」
――知っていた。
本当は、ずっとわかっていた。
ボクの気持ちも、あなたの想いも。
なのに、ずっとしまいこんで知らないふりをしていた。
だって、怖かったから。
この世は不条理の玉手箱だ。
けれど、ごくまれに非常に低い確率で、幸福な出会いをする。すると、出会ったひとは勘違いを起こす。
ああ、世の中捨てたものじゃないな、なんて。
でも所詮は勘違いだ。
幸福は歩いてこないし、落ちてもいない。どこをどう見渡して、探しても、見つからない。
最初からあるものではない。
そう言い聞かせてきた。なによりも、自分に。
自分が望まないようにするために。
見ないふりして、誤魔化して、欺いて。
でも。
――もう、怖がっていられない。
向き合わないときっと、何も伝えられないままこのひとは消えてしまうから。
このひとが死ぬことが、あんなに怖かった。
ほんの少し雰囲気が変わっただけでドキドキした。
抱き締められて幸せだった。
答えはもう、とっくに出ている。考える時間なんて本当はいらなかった。
出会ったあのときからずっと続いていた。
目が覚めるような真っ赤な髪に、やさしい眼差しでボクを呼んでくれたひと。
ボクが両親以外にはじめて〝大切にしたい〟と感じたひと。
――ゆうくん
――遊兎都
あなたが名前を呼んでくれるたびに、ボクの心は高鳴った。
手を引いて連れて行ってくれる世界が、あんなにも鮮やかできれいだった。
その理由。
「遊兎都……?」
凛彗さん――凛兄ちゃんがボクに手を伸ばした。
頬に触れたぬくもりに、また涙が伝う。
「……凛兄ちゃん」
「……!」
凛兄ちゃんの紫苑色の瞳が、大きく見開かれる。
「……こわ、かった……んだ……」
「……うん」
「だって、……ボクは、……もう、……きれい、じゃ……ない、から……」
凛兄ちゃんがボクを抱き締める。
あったかい。あったかくて、安心する。
縋るように手を伸ばした。
たくさんのひとに抱かれた。媚びを売って擦り寄ってお金を稼いだ。
そして『旦那様』に会って、ボクの体は傷だらけになった。愛された証拠だね、なんてヤツは笑っていた。
ますます愛されるってなんなのか、わからなくなった。
愛情をもらっても、汚いボクには返せないって思った。
だから捨てた。心と一緒に大切な思い出も。
だって、それくらい大切だったから。きれいで、眩しくて、大事だったから。
「ユウ君」と凛兄ちゃんがボクを呼んだ。涙で滲んだ視界でも、彼の顔ははっきりとわかった。
「君が自分のことをどう思っているのか、僕にはわからない。でも、これだけは覚えておいてほしいんだ」
「……うん」
「僕にとって君は唯一無二の存在だってことを。君はずっと僕のお月様なんだよ、遊兎都。――君が僕の世界を照らし出しているんだ」
しとしとと降る雨のように、言葉が、やさしさがボクの心を包み込む。
顔を上げて、そこにあったのはあの日と同じ――出会った頃と変わらない笑顔だった。
ボクの気持ちも同じだ。
その頃からずっと変わらない。
ボクがただ、蓋をして見ないようにしていただけ。
幸せはガラスの万華鏡。
簡単に壊れてしまうもの。
容易に変わってしまうもの。
でも、光に当てるときれいなんだ。眩しくって、苦しくなるほど、美しい。
全部違う模様は、何回も何回もボクの心をあったかくしてくれる。
また、あの光を見つめてもいいのなら。
また、ぬくもりを受け入れていいのなら。
――ボクは。
「……凛兄ちゃん」
「うん。……なあに、ユウ君」
「あの、ね……」
「うん」
「……好き、……だよ」
「……」
「ずっと、ずっと……。好き、なん、だ……」
大好きなひとがボクを見つめている。
ボクだけを見て、うれしそうに笑っている。
きれいで、眩しくて、かっこよくて、くらくらする。
凛兄ちゃん。あなたはボクの、初恋だった。




