Ep.2「彼らの始まり」
ボクは心を動かすための歯車が何個か足りていない。生まれ持っていたが、捨てた。
喜怒哀楽の歯車のうち、怒と哀が欠けている。喜と楽は半分ほど錆びているがなんとか動いている、といった感じだ。徐々に恐怖も感じなくなっていて、危機感も薄れている。けれど、動物として本能が死を回避するよう訴えてくるのだから、厄介だった。
死の間際になっても冷静で、しかし死にたくはない。生きていたいからそれ相応の工夫はする。
ひどい矛盾だとボク自身思う。
思うが、人間だしなんて適当な理由をつけて、今もボクはこうして――
「……馬鹿馬鹿しい」
突然湧いてきた詩的感情を汗と一緒にシャワーで流す。換気扇を回し忘れたせいで、水蒸気で浴室内は曇っていた。
鏡に映るのはおよそ二十歳を過ぎたとは思えぬ男の姿だ。少年と間違われても仕方がない小さな体。色素の薄い髪と目。体毛は全体的に薄く、髭も生えていない。これはクスリのせいだ。おそらく、非合法。成長阻害薬の類だろう。きれいになる糖蜜だよと食事終わりに毎回飲まされていた。
そして、顔と体中についた刺し傷、裂傷、擦過傷、火傷、そして痣。傷がついていないのは、急所と臀部くらいだった。――顔にもちゃんとある。
ボクはその傷に手を伸ばした。口の端を延長するようにつけられた縫合痕。裂かれたのちに、わざと痕が残るよう滅茶苦茶に縫われた。いずれの場合も、麻酔なんて上等なものはなしだ。痛くて仕方がなかったけど、意地で叫ばなかった。
「……相変わらず、すげえもんだな」
猫なのに風呂を好むという謎の性質を持つネウが言った。
〝すごい〟とは、ボクの体の傷のことだ。
「でしょ。ボクも自分を見る度毎回思うよ」
「自分でも思うのかよ……」
「最中は痛いばかりで、自分のことなんて見えていないからね」
傷つけられるのと犯されるのが同時だった。終わった後は気絶するみたいに寝るから、自分を顧みる余裕なんてない。
冗談みたいな広さの湯船に足先を入れ、温度を確かめてから全身浸かる。ネウはお湯の中には入りたくないらしく、浴槽のふちに座り込んでいた。肩まで浸かりながら、ボクはぼんやり自分の過去を回想した。いつ思い出してもロクでもない。でも思い出さないと忘れそうになってしまう。
ボクが、何者であったかを。
両親がいなくなって、路頭に迷った幼い子どもは顔が人より少しだけ優れているから、という理由だけで男娼になった。男女問わず相手をさせられた。最初は泣き喚いていたけれど、段々と抵抗が無意味だとわかると生き残るために媚びるようになった。
その時いろんな台詞を覚えた。抑揚をつけたり恥ずかしがったりするとお客は喜んだものである。
そして『使用人』として買われ、飼われた『主人』に今の体の傷と顔の傷をつけられた。ボクは毎日夜に呼ばれて死ぬ直前まで痛めつけられた。治療をされるから死に至ることはなかったが、体感として何十回と死んでいると思う。
だから痛みには頗る強いのに、快楽にはとことん弱い。そんな体が出来上がった。
「……死にたくなかったん、……だよなあ」
「……ん? なんか言ったか?」
「ううん、なんでもないよ」
生き残る術を考え、その結果が感情の放棄だった。
そうすると楽だった。
汚辱に悲しむことも、理不尽に怒ることもなかったから。
「ふう……」
お湯がじんわりと自分の体をあたためてくれる。心地よかった。
暫くそうしていると、うとうとしてくる。
「おい、遊兎都。寝るんじゃねえ」
「……ちょっとだけ、ちょっとだけだよ……」
「瞼が下がり始めてるぞ、おいっ遊兎都! ゆ――」
「――危ないよ、遊兎都」
「!?」
沈みかけて、その声に跳ね起きた。
寝起きと思しき凛彗さんがそこに立っていた。全裸で。
「……! り、凛彗さん……」
凛彗さんがこてん、と首を横に傾ける。表情筋をあまり活躍させない方だから、どういう感情が少々わかりにくい。少しの間見つめ合う気まずい沈黙が流れて、凛彗さんが口を開いた。
「……遊兎都はいつになったら覚えてくれるのかな……ああ、それともわざと……?」
「え? な、なにがですか……?」
「起きて誰もいないのはさびしいよって……僕は君に何度も言っているはずなのだけれど……」
「……」
あ、そうだった。言われた覚えがある。
視線を逸らすと、彼は「ふうん」と言った。
「……おや、わざとなの……? 僕にいじわるしてほしいということでいい……?」
「い、いえ! すみませんっ、以後気を付けます!!」
「だめ」
凛彗さんが浴槽に入ってきて、ついでに膝の上に乗せられる。
皮膚と皮膚がぴったりとくっつく感覚。間近に迫るのは、整いすぎた嘘のような美貌。
心なしか、機嫌が良い。悪戯をするきっかけを見つけた子どもみたいだった。
「……お仕置きだよ」
「……ひっ!」
すみません、もうしませんから。
言い訳は塞がれて、息を丸ごと食われてしまった。
◇
起きたのは昼過ぎだった。
腰のあたりが痛む体を叱咤して、寝室を出る。
ボクと凛彗さんの家は不動屋さんが正気を失って用意してくれた、ホテルの一室だ。
凛彗さんの美貌には催眠効果みたいなのがあると思う。そうでなければ「ホテルとかは無理かな……」などという無茶を安易に叶えてくれるはずもないのだ。もちろん、タダではない。家賃もとい宿泊費はきちんと払っている。かなり安くしてもらっているけれど。
「まあボクも大方落ちている側の人間なのだろうけれどね……」
独り言を済ませて、朝の日課に取り掛かる。歯磨き、洗顔、そして着替え――の前にボクにはすることがある。包帯を巻くことだ。全身についた傷を保護するのに欠かせない準備である。胴体は難しいので、手足と首だけだ。隙間なく巻いたら着替えに。服を手にしたタイミングで、ネウが顔を出した。ネウは基本ボクらがそういう雰囲気になると出て行く。当然だけれど。
「おい。体は、……大丈夫なのか」
やや聞きにくそうにするネウに対し「のぼせかけたけどおおむね」と笑顔で返した。返答に「……そうか」とやけに神妙にするものだから「どうかした?」と問いを重ねた。
「……いや」
「? 変なの」
ネウの奇妙な相槌を受けながら、ボクは用意しておいた衣服に手を伸ばす。ワイシャツ、パーカー、と順番に身に着けていく。
ネウがソファでくつろぎながら、話しかけてきた。
「今更の話になるんだが」
「うん、なに?」
「なぜ、白じゃないんだ?」
「白……。……ああ、これ?」
ボクの包帯はふつうのそれと違って黒色をしている。通常流通していないから買えるときにまとめて買って、ストックしている。最近では特別に融通してくれる親切なひとがいるから、ストック切れを心配することはなくなった。
「遠目に見ると、さ。ほら、なんか衣服みたいに見えるだろ?」
「……? ああ、まあな。それが?」
「服の外観を崩さなくて済むかな……って」
「服に遠慮して、……ってことか?」
「そう。この服なんかは凛彗さんが仕立ててくれたものだからね。着心地いいから衣擦れとか気にしなくていいのだけれど、傷だらけだと格好悪いからさ。デザインも凝っているし」
「は? 凛彗の……仕立て、だと?」
「そうだよ、お気に召すままの仕様さ」
「……へえ……」
「モチーフは兎とハートの女王様らしいよ」
「……ハートの女王様?」
「知らない? 遠い国のおとぎ話だよ。ボクが好きな話のひとつでもあるね」
「……そんくらいはオレも知っているが。なんだってそんな……女王様キャラか、お前?」
「さあね。凛彗さんの考えることはよくわからないから」
パーカーは着心地だけではなく、撥水性も抜群、血液どころか銃弾すら弾く仕様らしい。意味がわからない。
基本的に白、差し色は赤で統一。ワンポイントはハートとチェック柄、時々兎。ワイシャツもネクタイも黒一色で、スニーカーは真っ赤。服に興味がなかったから、コーディネートしてくれるのはありがたかった。
ちなみに、凛彗さんと対になっている。彼のモチーフは『闇堕ちしたチェシェ猫』だという。曰く、対になるようデザインをお願いしたら馴染みの仕立て屋さんにそう言われたそうだ。あのひとがチェシャ猫みたく笑う瞬間なんて見たことないけれど、他人の評価をどうこう言うものではない。知らないひとだし。
着替えを終えたら、髪のセットをする。
髪型なんてどうでもよかったが、ネウがボクのフードを日常の棲み処にしてからは事情が変わった。
彼はボクの右肩に乗って顔を寄せてくる。その際髪の毛が顔に引っかかって、鬱陶しいと苦情を言ってきたのだ。勝手に棲み処にしているうえに文句まで言ってくるとは、だいぶ図々しいと思うが猫なので。猫は可愛いからどんな我儘も許してしまうものである。
髪の毛をヘアピンで押さえて、かからないよう工夫するとネウは満足した様子で「ふん、上出来だ」と褒めてくれた。
「まさか、凛彗のやつが真似するとは思わなかったけどな」
「おそろいにしたいんだって。……あとちょっと怒っているから、あんまりそのへんつっつかないほうがいいよ」
「は?」
「キミの指摘でボクが自分を変えたのが気に食わないみたい」
「ふうん……本当にあいつ、お前のことを好いているよな」
ネウはしみじみと言った。支度を終え、ソファで一息つく。
〝好いている〟か。
「好かれている……と思う。うん、好かれている。出会い頭にお嫁さんになってほしいと言われているくらいだからだいぶ好かれているね」
「嫁? ……おい、なんのことだ」
何故だか詰問するような口調でネウが訊ねてくる。
そんなに怒るようなことかな、と思いつつボクは彼との出会いを話した。
「小さい頃の話だよ、よくあること……なのかな」
親同士の仲が良くて、そのつながりでボクと凛彗さんは出会った。
出会ったときの印象は今とそんなに変わらない。きれいなひとだなあ、とそれだけだ。
でも凛彗さんは違ったらしい。会うたびに何度もボクを見ては「かわいいね」とほめそやした。
なぜだろうかと幼心に疑問だったけれど、気にしなかった。褒められるのは嫌ではなかったから。
ある時、凛彗さんはボクの父親に何か言った。それから、ボクのもとにやってきて、
「ねえユウ君」
「なあに、りんにいちゃん」
「ぼくがきみのお父さんよりつよくなったら」
「うん」
「ぼくのおよめさんになってくれる?」
ボクはそれに「わかった」と返事をした。
――と聞いている。
「聞いている?」
「……実はこの話、凛彗さんと再会して彼に話をされるまですっかり忘れていたんだよね。そうだったんだよって言われて〝そうなんですか?〟〝すみません、覚えていないです〟って言った」
「……嘘だろお前……」
「……。……我ながら酷いなって思うよ……」
「残酷すぎるだろ、もうちょっと言葉を選べよ」
「ごめんなさい……」
凛彗さんは怒らなかった。驚いてはいたが、怒るどころか「また〝初めまして〟から始められるなんて嬉しいな……」と頬を赤らめて笑ったのだ。とても美しい笑顔だった。
彼がそれほどまでにボクに執着する理由はよくわからなかったけれど、好かれるのが嫌かどうかと言えば別に嫌ではない。ありがたいと思うので、凛彗さんがボクを求めるのならボクもできる限り答えようと思っている。
「……しかし。言葉を選べと言った手前ではあるが」
「なあに」
「……あいつ、正気か? そう言われてもなお、あの溺愛って……」
「……そうだね」
正気、か。全員が異常であれば、それはもう全員正気ってことだろう。暴論もいいところだけど、多数決は大概そんなものである。だから、ボクが正気かどうかはわからない。
もしかしたらもう既に狂っていて、狂ったまま生きているのかもしれない。
凛彗さんがボクをあれだけ甘やかすのは、狂っているせい――なのかも。
「恋は盲目というからね」
「盲目というか……もはや、執念だろう」
「さあ? ボクには愛とか恋とかわからないから。これも読んだ本に書いてあっただけだし」
「へえ……お前、そういうのも読むのか」
「ジャンル問わず、読書は好きだよ。それが書いてあったのは、恋人を殺す話だったかな。最終的に語り手は恋人ではなくて、赤の他人でストーカーだったっていうオチ」
「……」
「ネウ?」
「……なんでもねえ」
話しながら、ボクは別のことを考えていた。
――お昼どうしようかな。
なんとなく視線をベッドの方へずらすと、寝起きの凛彗さんと目が合った。
「あ……。おはようございます、凛彗さん」
「……おはよう、遊兎都」
凛彗さんはボクからネウに視線を滑らせ、ぐっと目を細めた。なんだろうかと一瞬考え、睨んでいるだと理解する。彼はベッドを降りて、こちらへ近づいてきた。
「……遊兎都は度々忘れてしまうようだけれど……」
「へ?」
「……僕は出会ってからずっと君のことが好きだよ……ううん、もう愛しているって言っていいかもしれないね……」
「……あ、え、その」
「ああ……でも、うん。毎日毎秒毎分……恋もしている。……初恋」
「は、初恋?」
初恋ってはじめて恋をするから初恋なのでは? 毎日毎秒毎分だったら初恋ではなく常時恋ということでは。
凛彗さんが何を言いたいのかさっぱりわからず、ボクはただ茫然と佇んでいた。彼はゆっくりと近づいてくると頬を撫でて笑った。寝起きも素晴らしいご尊顔である。
「……僕はずっと君に恋をし続けているんだよ、遊兎都」
どういう状態なのだろうか、それは。
凛彗さんは背が高いから見上げると首が少し痛い。
いいや、それよりも――
「……凛彗さん、服を着てください……」
全裸の美人を相手に通常運転できるほど、ボクは壊れちゃいなかった。