Ep.15「酷い記憶」
気絶していた。目を覚ますともう日が暮れていた。
凛彗さんはシャワーを浴びているようだった。ボクが起きないと踏んだのだろう。
正解だった。あちこち痛くて起き上がられなかった。
ベッドが微かに軋んだのでそちらへ目を向けると、黒い体が目に入った。ネウがボクの顔の横に四肢を全部体の下に入れ込んで座った。所謂香箱座りってやつだ。可愛い。
「舌の根の乾かぬ内にってまさにこのことだな、遊兎都」
「……そうだね……」
声も掠れていた。叫んだようには覚えていないけれど、叫んだのだろう。
たぶん。
「お前も相当だが、あいつも相当だな」
「まあね……」
凛彗さんとする時は基本、連戦である。一回で終わったことは、ない。
ボクが男娼自体に培った経験値など無にするくらいの勢いだった。
意地悪だけれどやさしくて、やさしいと思えば乱暴で。
怖いくらいの快感にボクは毎回、涙を流していた。実際、怖かった。
ボクがボクじゃなくなるようで。
梵遊兎都という存在のすべてを白樺凛彗という存在に、塗り替えられてしまいそうで。
「生殖以外の目的……愛を確かめる、なんて言われている行為だというのはオレも知っているが。ああも毎日毎秒毎分毎時するものなのか?」
「どうだろうね……」
愛を確かめ合う行為。
けれど、ボクにはその考えと性交渉というのがちっとも結びつかない。
凛彗さんとする時も、ボクが酩酊状態でまともに何も考えられてやしないから、ひたすらただ気持ちがいいだけだ。これを愛と呼ぶには、あまりにも本能的過ぎていている。
「……凛彗さんはたぶん」
「……なんだ」
「ボクの中に、少しでも他の誰かの存在を許したくないんだ……と思う。ボクはごらんのとおり隙だらけで貞操観念も緩いし、自分の体を大切に思っていないから」
「自覚あるなら直せ」
「へへ、難しい、かも……これは刷り込みなんだ、男娼自体の」
ボクの体はボクのものじゃない。誰に何をされても構わない。文句を言わない。
抵抗すればひどくされる。死ぬかもしれない目に遭う。だから従順であれ。
刷り込まれた認識が、ボクに抵抗することの意味を奪った。
ボクのものでないのなら、他人がどうこうできる権利はない。
「……なあ」
「うん?」
「今更……。本当に、今更過ぎる話かもしれねえが」
「なあに? いいよ……どうせ、今は話すくらいしかできないから……」
「男娼ってのは、……いつからやってたんだ?」
少しだけ聞きにくそうに。
ネウが言った。
「誕生日に両親が死んで……ああ、いや、実際に亡くなったのは母さんだけだったから……まあいいや、ええと。……『使用人』になるまでだから、ざっくり六、七年かな……」
「は? お前の年齢を考えると……」
ボクはまだ性的知識なんてなにもない、小さな子どもだった。
へどの出る話だった。
「……ロクでもねえな……」
ネウの感想は至極真っ当だ、まったくもってその通りである。
「そうだよ、ザイカはそんなのしかいない。最初のころはいやでいやで仕方がなくて泣き喚いてばかりいたけれど、無意味だって気づいたときには涙は武器になったね。場面に応じて泣けるようになったし、相手に媚びを売る台詞がうまくなった。ご主人様、とか旦那様、って言うとみんな喜んだよ。そこそこ長くなると簡単に身を売らず、通わせて貢がせてやっと……っていう手練手管を覚えさせられるんだ……あのおかげで結構稼げたかなあ……」
「……遊兎都」
「……ああ、ごめん。ちょっと余計なことをしゃべりすぎたね……。まあ、だからその……性交渉に関してボクはあんまり抵抗、というか好きなひととじゃないと……っていう、気持ちないんだ……。変な〝お遊び〟に付き合わされなきゃ……全部まともだと思っているし……」
「……まともじゃねえよ、そんなん……」
「ははは、本当だよね」
歯車を捨てたのは十二歳の時だった。そこからは順風満帆――と主観的には言える。でも客観視した時、年端も行かぬ子どもがそんな選択をするのは、同情を禁じ得ないだろう。過去をしゃべらなくとも、体についた傷、顔についた傷で出会ったひとたちはボクの背負うものを想像する。
でも、ボクは過去を不幸だと思ったことはない。だって不幸だと感じてしまったら、ここまで生きてきた道筋すべてを否定しなくちゃいけないから。
だから、ボクは不幸じゃない。
ただ、小さい頃に夢を見ていた幸福から外れてしまっただけ。それだけなのだ。
だから過去のことも、特に何の感情も抱かずに話せる。ボクはこんな風に生きてきたんですよ、と言える。
「……ネウ、同情しないでね」
「え?」
「……同情されるの、……苦手というか」
「……しねえよ。……ただオレの想定を少しばかり超えたってだけだ」
「……そうだね、びっくりはするね……」
この話をした時凛彗さんは、体中の傷そして頬の傷を指でなぞって、
――君の体についた傷すべてが尊いよ、遊兎都
――生きていてくれて、嬉しい
「……」
感情を捨てなければ、きっとボクはここにいない。
生き残れなかっただろう。理不尽に泣き叫び、不条理に憎しみ怒り、心が壊れていたかもしれない。
だから、捨てた。
生きたかったから。死にたくないから、捨てた。
だからこそ、わからない。
あのひとはどうしてボクなんかを好きでいてくれるのだろう。
ボクは、――ボクはどうして。
こんなにも〝好き〟という感情を怖がっているのだろう。




