Ep.13「怪物は笑う」
ボクは解放された。ボクを縛っていた縄は現在、床で正座をする漆々さんに使われている。ベッドに座り、そして凛彗さんに後ろから抱き締められていた。いや、ちょっとさすがにこれは恥ずかしいのだけれど……まあ、いいか。
凛彗さんの言葉と漆々さんの反応が気になったけれど、今はその話よりも先に訊くべきことの方が多かった。後で聞いておこうと一度疑念は胸にしまう。
漆々さん曰く、『神霧教』は〝ひとは神に愛され、霧に還る〟という教えを広めている宗教団体だという。異能――神からの『贈り物』のことだ――を得た神の使い即ち『天使』に従うことで、彼らもまた生きたまま神の一部分になることができ、そして死後水平線を覆っている霧の一部になって世界を見渡す存在になるらしい。
そんな馬鹿な、と言いかけたけれど、信じているひとがいる以上軽率に否定するのは酷である。縋るものが宗教だったというだけで、頭がどうかしているなんて思われたらたまらないだろう。
未払いで逃亡した例の家主は入信して漆々さんの家族が匿っているという。なんでも異能を得る事前準備中――だそうだが、漆々さんは首を振って「あれはだめだ」と言った。
「たかだが家族を殺したくらいで精神を乱しては……あれで耐えられないのであれば神を見ることおろか霧を越えることすらできないだろう。霧は神の吐息だ、覚悟なきものにあれは毒になる」
たかだが家族を、か。
漆々さんを含む彼らの共通する価値観がそうなら、ボクは一生このひとたちと分かり合えないだろう。話し合いで解決ができるとは思っていないけれど。どうせ血が流れる。
この仕事は常に血まみれだから。
だから、どんな事情があろうと関係がない。ボクらはボクらの仕事をするだけである。
あと、普通に話せるなら最初からそうしてほしい。
「……それでも、ボクらの仕事を変わりません。依頼は〝お金を払ってもらうこと〟です。居場所を教えてください」
依頼は完遂する、を信条にしている。
宗教にハマって返せません、は通用しない。なんとしてでも返してもらう。
「あいつに金を払うことはできないぞ。」
「なぜ」
「認識できないからだ」
「認識できない?」
「人間を……人間とはもう認知できない。すべてが死体に見えている」
「……」
罪悪感から来る幻覚だろう。
死んだ人間が蘇って自分に復讐しに来る。ありがちな妄想で陥りやすい自己暗示だった。
だとしても。
「では代わりにあなたが支払ってください。あなたがいわゆる……その、上司なんですよね?」
「上司? 違うな、僕は兄だ。彼は新しい弟だ」
「そうですか。どっちでもいいです、兄だろうがなんだろうが」
「いいや、おざなりにしてはいけないぞ。僕が兄で彼が弟だ」
漆々さんはやけに厳しく訂正した。大事なことなのかもしれない。
あれだけ家族という言葉を重んじていたから。
ボクは言い方を変えた。
「――あなたの弟さんの不祥事なわけですから、兄のあなたが責任を取ってください」
ボクの言葉を漆々さんは苦い顔で聞いていた。
どうやら言い回しが成功したらしい。
「……っち、仕方がないな。家訓に『家族は連帯責任』というのがある」
彼は数分考えた後、折れてくれた。話し合いでの解決は望み薄かと思ったが案外そうでもないかもしれない。異能があるというだけで中身は普通のひと、なのかな。
ボクは峰理さんから預かった請求書を見せた。漆々さんは「金を用意するから、拘束を解いてくれ」と頼んできた。足の拘束だけを解いた。
「お金のある場所まで案内してください」
「……わかった」
漆々さんは立ち上がった。ボクも腰を上げて彼の前に立つ。
扉を開けると、誰が描いたのか見当もつかぬ絵画がずらりと並んだ廊下が現れた。
「どっちですか」
「……右だ。……すまん、少し足が痺れていて」
そりゃあずっと正座していたから。
――この時、ボクは忘れていた。彼の持ちうる能力について、うっかり、すっかり忘れていた。
ボクは彼の言う通りバカなのだろう。救われないくらいの。いや、救う価値もないくらいの、か。
ごしゃ、と音がした。つい最近、そんな音を聞いた気がした。
そう、確か。振り返って事実を確認する。
漆々さんだったモノがそこにあった。彼にはもう頭部がなかった。頭蓋骨が潰れて脳漿があふれて、頭が壊れていた。生えている刃は収納する暇もなかったのか、そのままだった。そばに切断された縄があった。
「……遊兎都はやっぱり……女王様だね……」
「え?」
つまるところ、背後から襲われそうになっていた――のだろう。
彼は肉体が自在に刃を生やせる。ならば手首の縄を切ることなど造作もない。隙を見せたボクを彼は殺そうとした。そして、凛彗さんに殺された。
推理小説にはならない。見てわかることを推理しても時間の無駄だ。
いやそれよりも女王様……?
「……すみません、ありがとうございます」
凛彗さんの謎発言はひとまず置いておいて。
ボクは礼と謝罪を一度に済ませる。凛彗さんは「……いいよ」と言った。そして、近づいてくる。ブーツが床を踏む音がいやに響いた。
「……なにが、最低なの?」
「え?」
最低? 最低なんて言ったか?
あ、いや言ったな。あれは、あれは。
あれ、は……。
「……なんで、知って、……いるんですか?」
あれは独り言だった。凛彗さんがやってくる前にボクが呟いた言葉だ。
どうして凛彗さんが知っているのだろう。
「……遊兎都のことは、なんでも知っているよ」
凛彗さんの指はひたすら首輪を愛でている。その行動ではっと気づく。
「……! まさか!」
――ずっと聞いていたけれど
よく考えてみればあの発言もおかしい。ずっと聞いていた? なにを? どこで?
きっとこの首輪に盗聴器が仕掛けられているに違いない。だから寝る時以外外すなというのである。いや、でもずっと一緒にいるのに? わざわざ盗聴器を仕掛ける意味ってなんだ……?
凛彗さんは身を屈めた。混乱するボクの視界いっぱいに凛彗さんの美しい顔がある。
「……僕はね、君を兎であり女王様だと思っている」
「……それは、えっと……迷惑を振りまく存在という意味ですか……?」
「違う。まったく、違うよ」
語気の強い口調に、息を呑む。
しとしとと降る雨の中に、突然雹が紛れたみたいな衝撃だった。
「君は僕を不思議の国に誘う兎であり、……そして僕を使う女王様なんだ。君なしで僕の物語は始まらないんだよ……」
「な、なにを……言っているんですか……?」
不思議の国に誘う兎? 凛彗さんを使う女王様?
凛彗さんはボクを見て笑った。
うっとりと、恍惚に。頬を赤く染めて。それは血の色だ。
赤い、赤い、血の色だ。ハートの女王様の色だ。首を刎ねよと喚きたてる傍若無人の色だ。
「君に人生を左右されるのがこの上なく幸せだ……、ってことだよ……」
「え? ボクに人生を……? いや、それはさすがに……ボクなんか捕まりやすいですし助けに行くのだって危険が伴いますし……」
そもそも危機管理がなっていないがゆえの自業自得だ。
助ける側に利点はかけらもない。そんなことに付き合わせているのは申し訳な――。
「罪悪感って強いよね……」
「……は?」
「罪悪感が募ると、申し訳なさから何か返さなきゃって気持ちになる……」
「……え?」
「……遊兎都はやさしいからね。……罪悪感があるまま、僕と別れたりはしないでしょう……?」
「……それ……って……」
「……ふふふ。遊兎都からもらうものなら……なんだって嬉しいからね……」
「……!!」
畢竟、愛でなくてもいい。
罪悪感から来るお返しでもいい。
「遊兎都?」
「……ッ」
――ボクはボクが逃げる気がないと思っていた。
違う。
そもそもボクには選べないのだ。
逃げるという選択肢を。
凛彗さんは、ボクを逃すつもりなんてない。
逃げられないように様々に足枷をつけている。
それは罪悪感であり、快楽であり、恐怖であり、そして――圧倒的な力であり。
凛彗さんは笑っている。心底嬉しそうにボクを見て微笑んでいる。
恐ろしいほどに美しい相貌だ。目が潰れそうだった。
「遊兎都」
「……はい」
「怖がってもいいよ。憎んでもいいよ。利用するだけしてボロ雑巾みたいにしてもいいよ。……ただ捨てることだけは……、しないでね」
凛彗さんは、ぐっと屈んで耳元で、
「……死んでしまうから」
と言った。
ぞわっと、冷たいものが背中を駆けあがった。
「ッ!!」
またこのひとはボクの地雷をいとも容易く踏み抜く。
このひとが死ぬ想像をすると、ボクはたまらなく恐ろしいのだ。
怯えるボクを見て凛彗さんは笑っていた。
「……ふふふ、かわいいね。……遊兎都は、ほんとうにかわいいよ……」
首輪から滑るように首に触れられる。つう、と指でなぞられるとびくりと体が跳ねた。
――なぜ、『神霧教』を知っているのか
――霧の向こうに行ったことがあるのか
――そもそも、あなたの父親は死んでいるはず
――あなたは、何者なのか
訊きたいことが山ほどあるのに、どれも言葉にならなかった。
言葉として飛び出すはずだった吐息は食われ、思考を構成する歯車がすべて停止した。
遠くの方で、「おい、クソッ、バカ……! テメエ……オイ!!」というネウの必死な声が聞こえた。
ごめん、ちょっと……無理、かも……。




