Ep.100「DAY1◇Best smile!」
八畳ほどの部屋に、ふたりっきり。
正確に言うと中にボクと愛瑠々さん、外に凛兄ちゃんとネウという配置だ。
愛瑠々さんがボクとふたりで話をしたい、と切望したからである。けれど聞き耳を立てられても構わない内容だから、外で待っていてくれとのこと。
不思議な要望だったけれど、離れろと言われなかったからか、わりかし素直に凛兄ちゃんは言うことを受け入れた。
ふたりだけになると、愛瑠々さんはよく通る声で、
「はじめまして! ウチは遠瀧愛瑠々っす! お察しのとーり、遠瀧蜜波知の妹っす! 実妹!」
と自己紹介した。眩しいくらいの笑顔は、似たもの兄妹である。「梵遊兎都です。えっと……蜜波知さんにお世話になっています」と返したところ、「お世話してんの遊兎都サンでしょー!」と満面の笑みで言われてしまった。実際のところ、五分五分くらいの割合だと思う。
愛瑠々さんはワイシャツに毛糸で編まれた上着という、いたってシンプルな恰好をしていた。上着のサイズが大きいのか、袖から手は出ていない。短いズボンに、柄違いのニーソックスはあわせている。
様々な色や形のヘアピンを髪の毛のあちこちにつけていて――この表現が相応しいかどうかわからないけれど――、まるでおもちゃ箱の擬人化みたいだなと思った。
大人になるにつれてどうしたって引き連れてしまう負の感情とは無縁の、ただ楽しいだけを詰め込んだだけの存在だ。
守りたいというよりも、守らなくちゃいけないと思わせる雰囲気がある。
「いやぁー引きこもりなんで、ふたつ以上の目があるとキンチョーしてしゃべられないんすよねー」
愛瑠々さんが頭を掻きながら、説明した。とても人見知りをするようなタイプには見えないけれど、人が見た目によらないのは痛いほど実感済みだ。だから先入観を捨てて、ボクは彼女の言葉に「そうなんですね」と答えた。
実のところ、緊張しているのはボクのほうだった。
だって愛瑠々さんは、蜜波知さんの妹さん。即ち、彼が覚悟の上で裏切った唯一の家族である。
ボクのことを当然知っているはずだ、何を言われるのだろう。悪感情は向けられていないようだが、それは今だけの話で。人の心はままならない。憎まないようにしたって、憎んでしまう生き物だ。
ボクは、責められて――憎まれて、当然の立場にある。
ボクはじっと沙汰が下るのを待っていた。しかしいつまで経っても何も起こらない。お互い向かい合ったまま、時間が過ぎていった。
「あ……」
「えっと……?」
「す、すんません!」
「え!?」
また勢いよく、頭を下げられた。畳に当たった髪の毛が派手な音を立てる。
その瞬間、後ろの障子戸が開いた。「ユウ君!?」「遊兎都!?」とボクを心配する声がふたつ重なり、凛兄ちゃんがボクの前に立って臨戦態勢に入った。
髪の毛が畳を叩いた音を、暴行されたものと勘違いしているらしい。
「……君……」
まずい、とんでもない殺気を出している。
「違うっ、違うよふたりとも! 凛兄ちゃんっ、何もされていないから!」
急いでふたりをなだめ、殺気を抑えるよう頼んだ。不承不承で凛兄ちゃんは下がってくれたけれど、眼光は鋭い。愛瑠々さんの様子を窺うと、土下座の態勢のまま固まっていた。
「ごめんなさい、愛瑠々さんっ怖かったですよね……? すみません……!」
彼女の小さな肩が小刻みに震えていた。完全に怯えている。
「ああ、本当にすみません……怖がらせるつもりは……」
「あ……う……」
「……愛瑠々さん……?」
「――うあああああああああ!!」
今度は大絶叫。鼓膜が破れるかと思った。
愛瑠々さんは頭を抱えた状態で部屋の隅へ全力疾走し、角に身を埋め込むみたいにしてしゃがみこんだ。
凛兄ちゃんに怯えている、というよりもっと別の何かに怯えているようだった。
――ひとり以上の目があるとキンチョーしてしゃべられないんすよねー
愛瑠々さんの言葉を思い出し、ボクは振り返ってふたりに言った。
「ごめん、凛兄ちゃんもネウも部屋を出て行ってくれる?」
「え……」
「だが、遊兎都」
何かを言おうとするふたりを「お願いだから!」と遮って「――ボクは平気だから」と駄目押しした。
心配してくれているのはわかる。でも、この状態じゃ何も話せない。お願いだから、ふたりにしてほしい。
目で訴えるとわかってくれたようで、ふたりは部屋を辞した。
静かになった部屋で、ボクは愛瑠々さんに話しかけた。
「……愛瑠々さん。ボクだけになりました、驚かせて……怖がらせてすみません。お話、できそうですか?」
なるたけやさしく、怖がらせないよう、細心の注意を払いながら声をかける。
返答はなかった。ボクは彼女の心が整うまで、待つことにした。
そうしていると、愛瑠々さんの頭を押さえていた手が外れた。ゆっくりとこちらを向く。
琥珀色にはまだ怯えの色が滲んでいたが、先ほどよりも薄かった。
「……すんません。……メーワク、かけたっす」
愛瑠々さんは落ち込んだ様子で、立ち上がった。のろのろと緩慢な動きで元の場所に戻り、そして座り直した。ボクもあわせて彼女の正面に座り直す。
「……ウチ、なんていうか……人の目、ってのが苦手で。……特にたくさん、……人によっては大したことない数かも、ですけど……。ふたつ以上あると怖くって……」
「いえ、こちらも配慮に欠けていて申し訳ありませんでした。ふたりはしばらく入ってこないと思うので、安心してください」
「……すう、……はあ。……あい、大丈夫っす」
愛瑠々さんは深呼吸したのち、背筋を伸ばした。ボクも同じようにする。
心臓がみっともなく早鐘を打った。頬の筋肉が強張るのを感じた。
あのひとと同じ、琥珀色の目。透き通るその内側にある気持ち。
「――アニキのこと、幸せにしてくれてありがとうございます」
思いもよらぬ、言葉だった。
そんなことを言われるなんて露ほども予想していなかったから、ボクは目を見張ったまま硬直する。
脳味噌が言われた言葉を理解して、なんとか生成した返答は「……え?」だった。
愛瑠々さんは、目を細め控えめに笑った。
「アニキ、ずっとウチのためにばっか無理してて。いっつも自分のことは後回しで。でも、そんなアニキが初めて、アニキ自身の幸せのために動いてくれたんす。変な話っすけど、アニキが裏切ったって聞いた時、ウチすんごい嬉しかったんす。〝ああ、やっとアニキがアニキのために生きているな〟って。……だから、遊兎都サンにはお礼を言いたくって」
裏切られて、嬉しかった。
違和感のありすぎる言葉に、また脳味噌が処理を放棄する。
蜜波知さんが蜜波知さんのために生きている。だから、ボクにお礼を言いたい。
そんな、こと。そんな都合のいい話があっていいのか?
「遊兎都サン?」
「……あ。……えぇーと……。す、すみません。まさか、お礼を言われるとは思っていなくって……」
「あ……ふへへ、そうっすよねえ」
愛瑠々さんは自分の頭を掻いた。
「でも、これ、ウチのマジっす」と真剣な眼差しで続けた。
「ウチらのこと、アニキから聞いてます? どこに住んでてどんな生活していたかって」
「……え? いえ。……あんまり」
「そうっすか。じゃあ話すっす!」
◆
――ウチら、水没の街〝リュミズ〟ってとこで生まれて育ったっす。雨の降りやすい地域で、名の通りほぼ半分、街は水に沈んでいるんです。あ、知っているっすか。
そうそう、水上暮らしってのがフツーで。不便、とは思わなかったっす。ちっちゃい頃がずっとそうだったから。
両親はいましたが、ロクなもんじゃなかった。
お父さんはアル中で、お母さんはヤク中……ね、最悪すぎて笑っちゃいますよね。
ふたりともウチらを産む前はまだまともみたいだったんすけど……、いつからか何かに依存するようになっちゃいました。物心ついた頃にはもうふたりとも、壊れていました。
アニキの目が悪いってのは……あ、知らないんすね。
いや全然見えないってわけじゃないっぽいんですけど……。でもあんまり長い間太陽とか見られないみたいで。だから小さいころから、サングラスしていたんす。
ウチは、言ったように人の目が異常に怖くって。なんていうか、過敏、なのかな。とにかく、人の目だの声だのがすごく大きく聞こえるから、アニキ以外のひととあんまり話すの好きじゃなかったんす。
ウチらの遊び場は廃材置き場でした。廃材からまだ使えそうな機械とか部品とか持ってきて、つなげて変なものを作るんすよ。子どもなんで、まともなもの、あんま作れなくって。
でも楽しかった。とにかくふたりで何か作るってのがとんでもなく楽しくって、毎日毎日廃材置き場に通っていました。
そんとき、たまたますんごいきれいな万華鏡を見つけたんす。万華鏡って、……ああ、わかるっすか。
え? ふんふん、へえ……アニキとそんな話してくれたんっすね、ありがとうございます!
そんなわけで、万華鏡はウチらの特別な宝物になったんす。
でも、ある日、家にとんでもなくガラの悪いやつらが来たんす。
――万華鏡を返せ、って。
どうやら万華鏡、珍しい石の組み合わせで作られている結構な値打ちもんらしくって。それを返せって。ウチは怖くってめっちゃ叫んで、それから記憶があんまりないんすけど……。覚えているのはアニキがそいつらに「返す代わりに連れていけ」って言ったことくらい、かな。
アニキは万華鏡を返す代わりに、自分が働いてその価値分返すって言ったみたいで。
それからしばらくして、アニキ戻ってきたんすけど……。
明らかに目の色が、違っていたんす。
なんていうのかな……。一歩間違えば、ひとでも殺しそうなっていうのかな。
だから、ウチ、言ったんです。アニキに。
――誰も殺さないでね、って
そう言ったらアニキ、「馬鹿言え」って笑って。笑っていたけど、怖かった。
これからどんどん……アニキは戻ってこられない場所に向かっていくんじゃないのか、って。
だから約束してって。絶対に誰も殺さないで、って。
お父さんみたいな人殺しには、ならないで、って。
それから、しばらく。アニキが帰ってこないこと何回かあって。
ウチも馬鹿じゃないから、調べたんです。
そしたら、いろんな組織に加担していろんなことしてたんす。結婚、とか……目を疑ったっす。マジか、って……。
ウチには、そういうこと、何も言わなかった。全部、隠していたんす。
いろいろ聞いたんすけれどね……。答えはいっつもおんなじだった。笑って「お前は何も心配しなくていいからな」って。
なんすか、それ。ウチには心配もさせてくれないのか、って……。
悔しかった。嫌だった。
アニキが……、ウチが大事にしたいって思っているひとが、自分のことを全然大事にしていないの、見ていてつらかった。
だから、逃げようと思ったんす。
苦しくて、辛いから。
『久遠寺財閥』から『遠瀧電工』に声がかかったとき、これはチャンスだって思ったんす。
雅知佳サンのことはある程度調べてあったし、ウチだったらたぶん引っこ抜いてもらえるって。
で、アニキに直談判したんす。ウチに行かせてって。アニキ、そんとき笑ってて。
「お前もそんなこと言うようになったんだな」って。
離れられる、って思ったんす。ウチのために無理するアニキ、見なくて済むって。
なのに。
あのバカアニキ。
裏でとんでもない取引しやがって。
……。………。
……………。
……アニキって、わからず屋なんです。あとすっごく、ワガママ。
自分がこうしたいって思ったら、ひとの意見なんか聞きゃあしないんす。
『遠瀧電工』だって、好き勝手やっているアニキのことを、勝手に崇拝する奴らが集まってできた会社なんす。アニキにひとをまとめる才能なんて、ないんすよ。
まあ、口はうまいみたいっすけどね!
……でも、遊兎都サンに出会って、アニキは変わりました。
ごめん、ってアニキ。裏切るときに死にそうな顔して、言ったけど。
ウチは、謝られる筋合いなんかないって思ってたっすよ。
寧ろ、よかったって。
アニキがアニキのために生きる理由が見つかって、よかったって。
でも、怖いって言うんすよ、あのバカアニキ!
裏切者だって知られたら、何言われるかわかんねえって。ふざけんじゃねえってハナシっすよ!
今の今まで散々ワガママいって自己中してきたのに。今頃……今更なんなんすか! 腹立ったんで言いましたよ。
だから貫き通せ、って言ったんす。好きなら、なおさら。
背中を押して、よかったってマジ思っているっす。
だから、本当に。
遊兎都サン、ありがとうございます。
アニキと出会って、アニキの幸せになってくれて。
◆
――ああ、まただ。
こみ上げてくる感情に抗えず、瞳から雫が落ちる。
たったひとつでもこぼれれば、あとはもう流れていくだけ。
ボクは本当に泣き虫だ。腕で乱暴に拭うと、愛瑠々さんがやさしく「目、赤くなっちゃうっすよ」と止めてくれた。両手をそのまま握り込まれた。
「アニキといろいろ話しました。ウチが思っていること全部。……遊兎都サン」
「……はい」
「自分のこと、大事にしなくっちゃだめですよ」
「……っ」
「どんなに汚れていようが、傷ついていようが、関係ないっす。自分を大事にしないのはだめっす。……だって、遊兎都サンのこと、大事にしたいって思っているひとがつらいから。……ウチもつらいっす、アニキの大切なひとが、傷つこうとしていたら」
「……」
「あと、心配かけたくないからって、無理に笑うのもだめっす! あれ、見てる側めっちゃ辛いっす。苦しくって、悔しい。だから、心配ぐらいさせてやってください」
ね、と愛瑠々さんは笑った。
蜜波知さんによく似た笑顔が、きらきら輝いている。
ボクも、大事なひとが傷つく姿は見たくない。
でも、それはボクだって同じ――なのか。
ボクが彼らを大事に想うように、彼らもまたボクを大事に想っている。
当たり前のことだが、つい忘れてしまう。お互いを想うから、両想いだっていうのにな。
握られた手から伝わる、ぬくもり。
生きているから、感じられるあたたかさ。
このあたたかさを感じていると、愛瑠々さんに幸せであってほしいと思うのと同時に、蜜波知さんを幸せにしてあげようと思った。
この笑顔が曇らないように、ボクができることを精一杯やろう。
胸中で覚悟を決めたところで、「あ、そーだ! 遊兎都サン」と呼びかけられた。
愛瑠々さんはボクの手を握ったまま、大きく腕を振った。「ちょっと、お耳を拝借しても……?」と言って小声になった。なんだろう、と不思議に思いつつボクも彼女の口元に耳を寄せる。
「あのですねーアニキが……」
愛瑠々さんからの話を聞いて、そうだったんですねとボクは笑った。
彼女は悪戯が成功した子どものような顔で、
「どーしようもないアニキですが、今後とも末永くよろしくっす!」
と言った。
目映いほどの笑顔だった。
「最高の笑顔!」




