Ep.1「兎の罠にかかって」
銃口を向けられるのは、人生で二度目だった。
趣あるバーには、客はひとりもいない。いるのは、銃火器で武装したゴロツキと椅子に括りつけられ身動きのできないボクだけ。
彼らは名のある組織の面々だというが、ボクは詳細を知らなかった。教えられていないからである。しかし、知る必要もなかった。
これから死んでしまうであろうひとの名を知ったところで、どうしようもないから。
「――お前が、梵遊兎都か」
相手がボクのことを知っているのは、いつものこと。寧ろ知っているからこそ、誰何しているのだろう。
生かされているのは、利用価値があると認識されているから。これから何を問われるのかと考えつつ、「そうですよ」と答えた。
「『便利屋』……噂には聞いていたが、ここまでとはな。俺たちのことはどこで?」
「依頼人からです」
「アジトの場所は? ブツの流通経路は?」
「さあ? 知りません」
「……あ? 知らねえだと?」
「知らされていないから、知らないんです」
ここがどこなのか、ボクは知らない。通りを歩いていたら攫われて、連れてこられた場所だから。
アジトかもしれないけれど、覚えておく必要はないだろう。
ブツ、というと十中八九武器かクスリのことだろう。ここでは一般的な取引商材である。しかしながら、どっちでもよかった。物流経路も特に興味にはない。
依頼内容は『とある組織を壊滅させてほしい』と、それだけ。だから、額に突き付けた銃口をより深くめりこめませたとて、ボクが話せる事実はない。「そんなわけねえだろうが」と凄まれても、だ。
「ボクらの依頼はあなた方の壊滅、それだけです」
「だから何も知らねえ、と?」
「はい」
「はは……っ。随分とまあ、殊勝なこったよ」
男は薄ら笑いを浮かべる。がち、と金属が鳴った。引き金にかかった人差し指にわずかに力が入ったのだ。普通はその微かな音に命の危機を覚えて声が震えて、慌てふためくものだけれど――心の一部が欠落したボクには、冷や汗すら流れていない。
率先して死にたいと思っているわけではないが、けれど。今ここで焦燥に駆られて余計なことを言っても、ろくなことにはならない。
冷静なボクを見てさらに苛立ったらしい眼前の男が舌打ちをして、傍らの部下らしき若い青年に「おい、アレ持ってこい」と指示する。
数秒としないうちに、青年が白い錠剤の入ったパウチを持ってきた。額から銃口の重さが消え、代わりに顔を片手で鷲掴みにされる。頬を両側から潰されて、口がタコのようになっているから、滑稽だろう。
「心配すんなよ。なあに、ちょっと脳味噌がいい感じに煮えたって洗いざらいなぁんでも話したくなるぜ?」
「……」
目を半月型に歪ませて、男が言う。自白剤だ。暴力に屈しない相手に対する対処法では最も一般的である。
――果たして、そのクスリがボクの体に効くのだろうか。
完全違法の依存性の高い危険な代物に対し、およそ抱く感想ではない。自覚はあるが、どうしようもなかった。ボク自身が、違法薬物の成果みたいなものだから。
見せつけるように錠剤をゆっくり、ボクの滑稽極まる口元へ近づけてくる。恐れのあまりに何か、重要な事実を洩らすのを期待しているのだろう。
本当に話せるようなことはないのにな――。
効果のほどはわからないけれど、脳味噌がいい感じに煮えるというのはちょっと試してみたい気もある。
心の壊れたボクが何をどう考えてしゃべるのか、さながら自分で実験するような気分だった。
錠剤が前歯に当たって、ああいよいよ飲まされる――となった瞬間だった。
ばきっ
明らかな異音にそこにいる全員が振り返った。
バーの入り口には誰かが立っていた。いや、誰かなんてボクには見なくてもわかる。
彼だ。
「誰だテメエ!!」
真っ先に彼に向かって走り出した男の首が、なくなった。やわらかい果実を力いっぱい握り潰したみたいに弾けたのだ。本来首があったところには、真っ黒な靴の裏があった。
要するに、蹴りひとつで男の頭が砕けたのである。常軌を逸した現実に、全員が息を飲むのを肌で感じた。
人間の頭蓋骨が、人間の蹴りで、破砕される。
全身全霊の力を込めて鈍器で殴ったとて、人間の頭が跡形もなく、なくなることはない。何度も何度も殴れば可能かもしれないが――それでも、弾けるようには壊れない。だからこそ、たった一発の足蹴りで頭がなくなるなんてありえることじゃない。
でも、ありうるのだ。彼ならば。
「な、何している! 早く――早くそいつを殺せ!」
ボクに自白剤を飲ませようとしていた男が、先ほどの余裕綽々の表情から一変し、青い顔で声を震わせながら周囲の部下に命じた。ボクがついぞ彼にしなかった表情だ、と部下たちの頭が次々となくなっていく様子を眺めながら思った。
彼はさして派手な動きはしていない。やっているといえば、腕を振るう、足を薙ぐ――それくらい。
たったそれだけで、人間の頭がトマトのように潰れていった。
そうして数分後。とうとうバーにいる生きた人間はボクと彼と、そして腰を抜かして全身を小刻みに震わせている可哀想な悪人だけになった。
「あ……あ……」
「……遊兎都に何を……。しようと、……したの?」
しとしとと降る雨のような耳に心地良い口調とは裏腹に、その声音は底冷えしていた。男はまともにしゃべれず、「あ」という単語を息の合間に吐き出しているだけだった。
彼の紫苑色の目が、白い錠剤を捉える。委細承知したらしい、彼は「……遊兎都に危ないものを飲ませようとするのは……許せないな……」と言って、一歩足を進めた。
ブーツが床を踏む音が、やけに大きく聞こえる。
「ひ!」
「……」
「く、来るな……来るなよ……!」
「……」
「来るな、来るなって……!」
「……」
「くるなああああああ!!!!」
恐怖で神経が切れたらしい。男は手元にあった拳銃を、彼に向けて発砲した。
立て続けて六回の発砲音、ついで甲高い金属音が六つ。すべてを理解した男の口から「……はッ?」と空気が漏れた。
「な……んで?」
なんで。
当然の問いだろう。あろうことか人間の体が金属の銃弾を弾いたのだから。
種も仕掛けもない。単に彼の筋肉が異常なほど密集していて非常に分厚くて硬く、それが防弾チョッキ代わりになっているというだけ。
異常事態に成す術を失った男は、力なく一言「……化け物」と口にしたのち首無しになった。強烈な蹴りで真横に飛ばされた首は、砲弾のようにバーカウンターに突っ込んだ。
あたり一面、血の海だ。周辺には首なし死体だけだった。
その様子をぼんやり見つめていると、「ユウ君」と先ほどよりもずっと甘い声で名を呼ばれた。
「凛彗さん」
「迎えが、遅くなってしまって……ごめんね。……途中で、いろんなひとに声を掛けられて……」
「大丈夫ですよ」
赤と黒の混じった髪の毛、紫苑色の瞳。目の下にある十字の傷は、不眠だった頃の名残らしい。隈が濃いけれど、それで台無しにされるような相貌ではない。整いすぎた顔立ちは、恐ろしいとすら感じてしまう。筋骨隆々な裸身に裾の長いパーカーを羽織り、片膝だけが割れたデザインのズボンをあわせ、武骨なブーツで仕上げている。
いつ見ても隙のない美貌だ。この人間離れした美麗さは歩くだけで他人を虜にしてしまうから、普通に歩くだけでもかなり時間がかかる。だから助けが遅くなっても、致し方ないことである。
「ユウ君?」
「あ……すみません、なんでもないです」
ボクの紐を千切ってくれている凛彗さんを、意図せず見つめていたらしい。目が合って、不思議そうに訊ねられたので、「ありがとうございます」とお礼を言ってお茶を濁した。彼は薄く笑って「……君のためだから」と答えた。
結構きつく縛られていたが、紐の痕跡はない。包帯を巻いていたおかげだ。もともとは傷の保護のためにしていたものだが、意外な場面で役に立ってくれた。
ボクは視線をバーに設置された観葉植物に向けた。そして、「ネウ」と呼びかける。彼とボクと哀れな悪人だけと言ったけれど、実はもうひとり――いや、一匹。
観葉植物の影から、黄金の目の、小さな黒猫が現れた。体長こそ小さいけれど、子猫ではない。たったっと小走りにボクへ駆け寄ってきて、スニーカーに前脚をのせた。抱っこしろ、という要求である。
かわいいな、なんて思いながらボクは彼を抱き上げた。パーカーのフードが彼の定位置だ。元居た場所に収まると、「ふう」と猫らしからぬ溜息をついた。
「いい加減、自分を囮にするのやめろよ遊兎都」
ネウが呆れたように言った。
彼はしゃべる黒猫である。最初こそ驚いたが、今はもう慣れっこだった。落ち着いた口調は、凛彗さんの物言いとは違う心地よさがある。
「こんな大勢を相手に、ボクじゃうまく立ち回れないもの」
「は? この程度なら簡単に首を掻き切れるだろ」
「無理だよ、相手は武装しているんだから。銃火器とボクは相性が悪い」
「遠距離と近距離か……」
「そういうこと」
「――ユウ君」
ボクらの会話は、凛彗さんの声で中断した。
心なしか、不機嫌のように聞こえた。
「……帰ろうか。……ここは、……血腥いから」
「そうですね」と返事をして、入口へ向かう。
窮地に至り人間が破壊される瞬間を見たボクの心臓はすべてが終わったその場所と同じく、静かだった。