epi.5
敵国のお膝元で内紛があったという報が宮殿へと届けられた。
何も決まらない会議は、それでもようやくそれぞれの領地への物資の救援、というまっさきにやらなくてはいけない決議を取り決めたところだ。
齎されたその報に、大臣たちを下卑た笑みを浮かべた。
思っていた以上に、かの国の土台は脆かったようだ、と。
血塗られた玉座はそれを支えるものすら欠き、高名な将軍たちすら王と距離をとり始めているとのことだ。
戦争に明け暮れた日々は、彼らに安息を齎さない。
いつか誰かが裏切るのでは、という疑心暗鬼に陥った王は、数日前意味もなく高官たちを切り捨てたと報告された。
絶対的恐怖ほど強固に国を支配する手法はない。
だがまた、その手法はある種、最も脆く崩壊するものでもある。
「和平の交渉をはじめる」
亡命してきた高官たちを厚遇し、様々な情報を得た王は、そう宣言した。
すぐさま第三王子が使者としてたてられ、彼ら使節団は軍事国家へと送られていった。
「リエラはまだ見つからぬのか」
他の王女たちや、王家に連なる家から年頃の娘たちを集め、準備を始めてはいる。
だが、彼女たちのどれもが、年頃であるから可憐である、といった程度の容色である。まして、王女たちにしろ、貴族の娘たちにしろ、その中には血をおごり高ぶるだけで本人自身は何もない、といったものも多く含まれている状態だ。血統だけが尊ばれ、それ以外に何も価値を見出してこなかった国家の当然の帰結でもある。
王自身さえその考えを是とする思想を捨てられないのだから、彼女たちを卑下したところで意味はない。
「とりあえず他の手を打っておかなくてはなるまい」
王は、あまりの手持ちの駒の脆弱さにためいきをついた。
ただ由緒正しい、だけで済めばよかったのだ。
だが、あの凶王は隣に立つに、美しいものを指定した。
美しく歴史あるこの国の血を連綿と継いだ女でなくては、彼にふさわしくないのだと。
亡命者からの聞き取りによっても、かの王の劣等感からくる渇望が彼らに痛いほど伝わった。
後宮に入れられた女たちは、そのどれもが他国の家柄がよく、花のように美しい女人ばかりである、と。
彼女たちは一様に時には宝石のように扱われ、また時には八つ当たりの道具と化しているとも伝え聞いた。美しいといったその口で、彼女たちに鞭をうつ。美しい肌に傷がつけば、それをみて喜び、悲しむと。
想像を絶する凶王の振る舞いに、王と王子が苦悩する。
彼らもまた、おのれらの、いや、国の安全のためにそのような場へ彼女たちの誰かを送らなくてはならないのだと自覚しているのだから。
着々と侵略を拡げていった敵国は、唐突にその歩みを止めた。
だが、その陣営は野営を始め、今だあきらめる気配も見せず、侵略相手を睨みつけたままだ。
リエラとミューラはそんなことも知らずに、ただただ歩き続けた。
いくつもの町を通り抜け、徐々に戦禍から離れていったものの、どの町もまるで生気がなかったことが共通している。
もはやそれが当たり前の風景であり、優美でたおやかだった国の面影はない。
いや、リエラにとってみればはじめてみる都以外の田舎町であり、本来の自分に戻ったところで彼女が良い印象を抱いたという保障はないのだけれど。
ミューラが用意していた携帯食はすでに尽き、二人はようやく訪れた兵士たちによる施しによって生き延びていた。
開戦からどれほどの月日がたったのかはわからないが、疲弊した兵士たちが、衰弱した国民たちへ僅かな食料と水を運んできたのはつい最近のことだ。路銀もあまりもたない二人にとって、この幸いがなければここまで生き延びることも難しかっただろう。
目的地まで二人の足で数日、というところで彼女たちの旅は唐突に終わりを告げた。
リエラの目の前に、あの酷薄な笑みを浮かべた彼、従者が現れたことによって。
「お久しぶりです」
無言でリエラは答える。
頭からすっぽりと被った布を前あわせでしっかりと握り締め、僅かに開いた隙間から彼を見上げる。
水をもらいにやってきた広場に、突然現れた軍服姿の男は、俄かに注目を受け、リエラはまるで罪人となったかのように人々の視線を浴びる。
いや、罪人なのだと。
己の果たすことを果たせず、何も考えないで行動した結果が、今彼女の周りに、いや、国中に起こってしまった災厄だと。
リエラは意を決して己を隠すものを捨て去る。
彼女の姿を見て、好奇心に駆り立てられていた人々が息をのむ。
そこには、国の宝、と呼ばれていたころと変わらない美しさをもった女がたたずんでいたのだから。
僅かにこけた頬と、無造作に束ねられた髪が、彼女にある種の色気さえ与えている。
人々は凝視し、軍人と彼女のやりとりを凝視している。
「神殿を逃げ出したことはあやまります」
「ご自分の立場を理解した、と思ってもかまいませんか?」
「はい」
彼は顎を上げ、部下にミューラの捕縛を命じる。
だが、それより前にリエラが声をあげる。
「なりません。彼女は私のわがままを聞いてくれただけです」
両腕を背中の後ろで掴まれ、声も出ないミューラがリエラをみる。
リエラは穏やかに笑う。
その笑みは、まるで聖女のようで、ミューラが記憶にある幼かったころの、純粋だったころのリエラそのものだった。
「私に、まだ何か役目があるのですね?」
「あなたは、第二側妃の娘として、嫁がねばなりません」
「あの子は?」
「すでによき様に」
密かに籍を廃され、なかったことになった本当の娘は、側近の家へと嫁下していった。書類の上ではリエラはすでに第二側妃の娘であり、正式な王女の一人だ。
「わかりました。隣国、ですね」
「はい」
リエラは頷き、結んであった髪を解く。
埃によごれた髪は、それでも美しく光輝き、やりとりを聞き取れない人々は、何かありがたいものでも見るような目で、彼らを見守る。
「ミューラ、ありがとう」
「姫さま!」
ミューラは捕らえられたまま、リエラを得ようともがく。
リエラは彼女にそっと近づき、豊満な胸に顔をうずめた。
「ありがとう。あなたは私の本当の母でした」
ミューラの涙が乾いた地面へ次々と落ちていく。
リエラはそれをひと撫でし、促す従者とともに永遠にミューラの隣から姿を消した。
和平交渉を終え、王は玉座の感触を確かめるかのように己の場所へ座した。
下には相変わらず役立たずな重臣たちが顔を揃えている。
使者としての大役を果たした第三王子は、隣国の様子を伝え、そして正式に隣国との停戦が決定した。
第二側妃の娘が、正式に隣国へ嫁ぐことも決められ、彼らは満足して屋敷へと引き戻っていった。
「もう下がって」
宮殿へと再び足を踏み入れ、以前と同じ、いや、それ以上の待遇を受けているリエラは、それでも一向に気が晴れることはなかった。
彼女は再び嫁ぐのだ。
一度目は無知のまま。
二度目は、知りすぎるほどの知識を得て。
どちらがましかはわからない。
だが、知れば知るほど恐怖が増していく。
隣国の王は情熱的で粗暴、冷酷であり情に厚い。相反する彼に対する言葉は、リエラを混乱させる。
それでも、彼女は嫁がなくてはならない。
国のために、国民のために。
彼女が王族の一員として生まれてきた理由は、ただそれにつきるのだから。
ようやくそのことを知り、そのように振舞おうとはしている。それでも時折鬱屈した気持ちが折り重なり、何もかもを放り投げて逃げ出したくなる気持ちに駆られる。
そんな折、計ったように現れるのはあの従者の男だ。
すでに高官としての任務に戻った彼は、リエラより忙しいはずだ。
だが、気がふさがったときに限って、彼はリエラの前へ表れ、気の紛れるものを与えて去っていく。
言葉をたくさん交わすわけではない。
だが、珍ずらかな菓子や美しい装丁を施された本などは、彼女を楽しませ、気が晴れる一因となる。
幾度目かの逢瀬の後、あまり開かない口を開く。
「謝罪、しなければなりません」
「何を?」
美しい装飾の筆記具を手にし、彼女は珍しいものでも見るかのように彼を見上げた。
筆記具は例によって彼がリエラへ与えたものであり、彼女はその感触を楽しむかのように居室の椅子へとゆったりと座し、適当な紙で書き味を試している。
「あの国へあなた様を嫁がせるのは私の本意ではありません」
彼からこぼれおちた言葉が、あまりにも意外で、リエラの動きがとまる。
侍女たちは彼の言葉が聞こえないようなふりをして、部屋の隅に待機したままだ。
「なぜ?それが王族の役目なのではなくて?」
最初に、彼に王族というものがわかっていない、と言われたことを思い出し、少し意地悪顔をして彼へと問いかける。
だが、それに対する反応までもが意外なもので、彼は彼女の前ではじめてその表情を崩した。
「そう、なのですが」
寂しく笑った彼は、そのまま口を噤む。
「隣の王の人となりは一通り聞いています」
数多くの王家の姫君をその後宮へと押し込め、狂気と執着で彼女たちを掌握している、ということは誰に聞くでもなくリエラの耳にはすでに届いている。
一度は侵略をしかけた国をよく思うわけもなく、また亡命したものたちの言いざまが数倍にも膨れ上がって広がっている。
確かに、彼のやり口は褒められたものではない。
恐怖によって支配された国政は、それでもようやく落ち着きを取り戻したようではあるが、かの王が激昂しやすいことは確かだ。
彼に意見をし、処刑された人間は、戦後減ってきたとはいえ、なくなったという話は聞いていない。
リエラは、そのような国へ嫁ぐのだ。
最小限の供と、最大限の供物とともに。
それをなんともない、と言って捨てるほどリエラは豪胆ではない。
日々おののき、毎夜悪夢にうなされる。
「申し訳、ありません」
「それしか手がなかったことは知っています。あなたは十分なことをしてくれました」
水仕事でひび割れていた指先は、再び綺麗に整えられ、栄養のいきわたった髪はかつての輝きを取り戻した。
王宮の宝石、と呼ばれなれた彼女は、それにふさわしい美貌も取り戻した。
いや、落ち着きと、何かを悟った彼女は、以前にも増し、その美しさに凄みまで加わっている。
従者に贈られた筆記具を大事そうに撫で、彼女は微笑む。
「名前は?」
リエラの質問に、従者はようやく彼女と視線を交わす。
「ユティヴァス、と申します」
「そう、覚えておくわ」
それを最後に、彼らが会話を交わすことはなかった。
リエラは豪華な支度とともに、隣国へと嫁いでいった。
彼女が隣国で幸せに暮らしていたかどうかを知るものはいない。
ただ、彼女が一男一女を得た、という公式な記録があるだけだ。
やがて男児は父王を幽閉し、その玉座へとつくこととなる。
傍らにいるはずのリエラに関するその後の記録はなく、ただ聖女のようであった、という言い伝えが残るだけであった。