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epi.4

 侵略が開始された、と、国境から遠いリエラの住まう神殿にも情報がもたらされた。

以前にもまして、神官以外の人間からの視線は、リエラにとって冷たいものとなっていた。彼らは皆一様に、今の惨状は彼女が齎したものだと思っているのだろうし、また、それを隠そうとはしない。祭主やその他の神官たちは、それを顔に出すことはしないものの、きっと内心そう思っているに違いない、と、リエラは脅えている。

なぜ。

どれほどその言葉を吐き出したのかはわからない。

言われるままに嫁ぎ、気に入らないからと帰ってきたのは確かだ。

だが、そういう振る舞いをゆるしてきたのは周りではなかったのか、と。

落とされた境遇は、彼女にとっては手のひら返しとしか思えない。散々甘い言葉を囁き、不遇においやる、などということに正義があろうはずはない。

神に祈るふりをしながら、リエラは内心で神を罵倒していた。

こんなことが許される世界があっていいはずはない。

だから、あんたなどただの置物だと。

神を具現化した神像を冷ややかな目で睨みつける。

日課として決められている朝の礼拝を済ませ、彼女は屈辱的な掃除をこなすために祈りの場を後にした。

一人で雑巾を手にし、あちこちを雑に拭いてまわる。

ここのところ監視の目が緩んでいる。

いや、あの忌々しい従者がこの神殿にはいないのだ。

戦況は思わしくなく、彼のような若い文官は対策に掛かりきりなのだ。本来ここにきてリエラの監視、などという油を売ったかのようなまねをしていていい身分ではない。

だが、あの視線を感じないというのもどこか物足りない気がする、と、リエラに埒もない考えが浮かぶ。

すぐにそれを打ち消し、乱暴に雑巾をすすぐ。

他のものたちも黙々と仕事をこなす中、彼女の周囲はある一定以上の距離があけられている。

それはリエラの性格に由来するものでもあるし、彼女が行った振る舞いにもよるものである。

緩んだ監視の目は、彼女に隙を与えた。

そして、突然入り込んだ外部のものから齎された。

倹しい衣類に、顔を隠すようにくすんだ色の布を頭から被った女、のような人間がいつのまにかリエラの背後に立っていた。

リエラは驚き、声を上げようとした。

だが、それはその女に左手で制され、彼女はあっという間に身動きが取れない状態となった。


「姫様、私です」


緊張に強張った体は、だが、懐かしいその声音によって解けていった。


「ミューラ、なの?」


かつてリエラに乳を与え、ある程度まで育て上げた乳母の名を呼ぶ。

女は頷き、そしてリエラは豊満な体に抱きしめられた。


「遅くなってもうしわけございません」


暖かい言葉に、リエラの頬には知らずに涙が伝っていく。


「さあ、姫様、ここを出ましょう」

「でも」

「私の母方の郷ならば安全です、さあ、早く」


覚えのある柔らかな右手につかまれ、リエラはもはや思考を失う。

逃亡する。

ここを。

監獄のようだった神殿を。

それはこれ以上ないほど甘い誘惑であり、彼女の体は深く考えることなくミューラの言に付き従った。

何ヶ月たとうが慣れない生活。

何の楽しみもない日々。

リエラが死ぬまで続くであろう蔑みの視線。

だが。

微かに思い出した従者の顔は、リエラに何を訴えようとしていたのか。

その日のうちに、リエラは姿を消した。

うろたえる祭主を除いて、彼女を探そうとするものなど、神殿には誰も存在しなかった。




「逃亡した?」


リエラを最も身分の高い側室の王女と入れ替えるため、その王女を密かに嫁下させた王は、議場で敵国からの要求を公にした。

そんなものでこの国の安泰が図られるのだと、貴族たちは安堵した。

ふさわしい美貌をもった王女、という部分は伏せられ、全ては王、と第一王子、また数少ない側近たちの間で計られていった。

血統だけは良い王女が、敵国の王のものとなればよい。

町一つが侵略され、そこに陣をとり、さらに進軍を続けようか、という敵国の現実を知ってもなお、王の言葉に貴族は安心しきっている。 もう、ここは安全なのだと。

腑抜けた彼らが退場した後、密談の場で王はリエラを監視していたはずの従者からその情報を耳にした。


「おそらくミューラ、乳母が手引きしたものだと」

「心当たりは?」

「すでに手配を」


ミューラに縁のある地をいくつかあげ、王は満足して応える。

あれがいなくては、敵国との交渉の場に立つことすら叶わない。

美しく血脈の高い女。

それはリエラを置いて他にはいないのだから。


「ですが、あれを呼び戻したところで二の舞になるのでは?」


神殿へ籍を置かせ、質素な生活を送り、日々祈りを捧げていたというのに、リエラは結局その心根を変えることはなかった。その事実が王と王子を苦悩させる。

王族としての自覚も、置かれた立場も、全く理解もせずしようともしなかったのだと。

それに比べれば、秘密裏に処理された王女は、名もなき元王族として、全てを悟って家臣のもとへ嫁いでいった。そして、密やかに使者としてたち、殺されてしまった王女も、自分たちの役割を嫌というほど自覚していた。ただ造作が良い、というだけでリエラという駒を欲する自分たちが歯がゆい。

密談は終わり、各々は闇夜に紛れていった。




 ミューラとリエラの旅路は楽なものではなかった。

戦時下における女の二人旅など、本来正気の沙汰ではない。

だが、幸いなことに疎開する人々の波に紛れ込み、己以外をかまう余裕などないありさまにおいて、親子ほど年の差のある粗末な格好をした二人は、それらの一員だ、とみなされた。

だが、彼女の美貌を露にしてしまえば、余計な争いごとに巻き込まれることは必死だ。

それほど稀有な容姿をもったリエラに目深に布を被らせた。砂埃が舞う中、リエラの様相はごく自然で、彼女たちはのろのろとした足取りで目的地へと進んでいった。

ミューラは、家格の低い貴族出身の女だ。

リエラが生まれた頃、たまたま実子を死産し、乳が出る状態だったため都合よく乳母として召し上げられたのだ。彼女は精神的混乱の中、実子への罪悪感をリエラへの愛情へと転化し、彼女を慈しんだ。

結局それらの甘いときは、高位の貴族である侍女頭に奪われ、リエラは今のリエラとなるべく育て上げられた。いつしか、リエラもミューラの存在を日常の中、忘れてはいた。

だが、耳が、体が、彼女を覚えていた。

柔らかな体は、幾分ふくよかとなり、リエラに暖かな何かを与えてくれる。

従者の目から逃れた罪悪感すら忘れ、口に出来るものが何もない一日も、癇癪を起さずに過ごすことができた。


「ミューラ、あれは何?」


整備されていない舗道の脇には、座り込んだまま動かない人たちがところどころ塊となって蠢いていた。それらは土ぼこりを被り、本来なら豊かな穀物が実るはずであった枯れた田畑と一体化し、リエラの目には人である、との認識が薄くなっている。


「けがか病気か、もう動けなくなったのでしょう」


この道はミューラの母方の故郷へと続く道である。そこの貧しい商家出身であったミューラの母は、弟妹を食べさせるために都に出、後に添うこととなったミューラの父の家で侍女として働いていた。それがどういうわけか後添いとなり、また、王家の宝、とまで言われたリエラの乳母にまでなったのだから随分出世したともいえる。だが、リエラの失脚に伴う没落は、幸いなことにミューラの一族に降りかかることはなかった。

それは王家側が、直接リエラと接触が出来るほどに身分は低くはなく、だからといってそれを誇示して家格を上げ、大きな顔ができない程度の家のものを選別していたからだ。過分な報奨が与えられ、ミューラは一切を口外できない立場に追いやられていた。結果として、ミューラだけがリエラの側にいることができるのだから皮肉なものだ。


「手当ては、しないでいいの?」

「無駄でしょう」


ようやく人だと認識したリエラに、ミューラはゆっくりと首を左右に振る。


「食べ物も薬も、何もかもが足りないのです」

「父は、いえ、王は何もしてくれないのですか?」


玉座に座り、威厳のある格好をしていた父。

それはリエラにとって憧れであり、当然の姿である。

歴史ある国の頂点に立つにふさわしい男。

それが父である。

だが、現実は今リエラの目の前に広がっている。

点在する死体とけが人。飢えは彼らから体力を奪い、さらに死体を増やしていく。その死体から何かを盗み取っていくものを咎めるものすらもういない。

道行く人々は、自分自身の身を前へ進めることで精一杯なのだから。

リエラは、祭主に伴って行った避難所での光景を思い出した。常に漂った死臭は、彼女の鼻の感覚を数日間狂わせ、食事を無理やり飲み込まなくてはいけない状態となった。

今ではそれが彼女の日常だ。

王宮に住まわっていたころなら、こんな惨状を目にすることも耳に入れることもなかっただろう。

宝玉のように育てられ、それ以外のものになることを許されなかった少女。リエラは、そういった全ての感覚から遠ざけられていたのだから。

だが、粗末な神殿の暮らしで、彼女は知ってしまった。

その日の食料すら口にできない人がいるということを。

原因となった敵国を恨み、また遠因となったリエラを侮蔑した国民は、もはやそれを考える余裕すらない有様だ。

そんな人々を、父王は見捨てている。

美しかった指先を見つめ、リエラは黙って顔を隠す。

ミューラとともに、彼女は大人しく縁ある地への歩みを進めた。

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