4話-B 初仕事と初説教
エントランスに向かうと、既に1人の女性が受け付けの待合場で椅子に腰掛けていた。見たところ、50は超えているだろうか。
不安気な表情は事の深刻さを伝えている。
「お待たせいたしました、奥さん。話の方お伺いします」
「あぁ…刑事さんよかった!あの丁度盗まれたんです、あの私名東区のとこのスーパーの前で」
話しかけるなり、女性は不安を払拭させるかの様に情報を吐き出し始める。相当焦っている様で
「それは…心中お察しします。事情の方聞きましょう」
「盗まれたんです!盗難事件で…ほんとあれには大事なモノが入ってるんですよ!」
「そうですよね…分かりますよ、大切ですよね」
「分かってるなら私のカバン返してよ!大事なのよ!」
「あ…あの向こう側行きましょうか、ここで言うのもあれですし…ね?」
俺の提言などお構いなしに女性は話を続ける。
「昨日の夜ね、こう…普通に歩いてたら後ろからガッ!って。伝わるかしら…ね、あのこんな感じに後ろから…」
「分かりました…分かりましたから、ここだとちょっと周りの人の迷惑になってしまいますから」
自分の中では穏やかに宥めたつもりだった。
女性の憂わしげな表情が、徐々に怒りに切り替わっていくのが目に見えて分かった。
「迷惑!?私盗まれたんですよ!?カバン持ち歩いてて後ろから!」
「…あー、えと…そうですね。それは大変で…」
「分からないでしょ! 貴方盗まれてなくて他人事なんだから!」
「いえ…あ、そういうのでは」
事件の担当自体久しぶりなせいもあってか、言葉も呂律も上手く回らない。木場の言っていたことは強ち的外れではなかったようだ。
「どうせ適当に頷いてれば大丈夫だと思ってんでしょ?ねぇ?!」
んな事思ってねぇよ…
言いたい、口を開けばもうその言葉が出てしまうほどに言いたい。だが、それができないのだ。出来なくなってしまった。
この女性の鞄が見つかろうが、見つからなかろうが知った事ではない。事件を解く為の貪欲さがもう自分には無いのだ。
「奥様、お辛い中態々お越し下さりありがとうございます。お話の方、お伺い致します。」
忍耐の限界に近づいていたとき、隣から慈愛に満ちた声が耳に入り込んできた。
加瀬森が漸く口を開いて、火花が散らんとする会話の中に割り込んだ。
「貴方も刑事さん…?」
「はい、刑事の加瀬森と申します。失礼ですがお名前の方を聞いてもよろしいでしょうか?」
「谷原っていうの…よかったわ、ねぇ聞いて…私あのスーパーの前で盗まれたんです、あのー…翠町のとこの」
「スーパーですか。近くにマックとうどん屋がある所でしょうか?」
「そう!そうよ、そこのパチンコ屋の抜け道がある所で…」
「となると、遠曾根の雪民川の場所ですね…ありがとうございます」
そう言いながら、怒鳴り散らしていた女性は自然と待ち合いの場所の方へと歩いていった。突っ立っているのも忙しないので、自分も2人の後に続く。
「時刻の方はいつだったかは分かりますか?」
「今日の朝方だったかしら…こっちに繋いで電話折り返しで待てって言われたけど…不安だったから来たの…」
「なるほど、ありがとうございます」
先程までの怒りは嘘のように引いていき、女性はポツポツと受け答えをし始めていった。
胸を撫で下ろすとともに、胸の底から不快感が湧き上がってくる。
被害者は基本的に身勝手自分勝手だ。融通は効かない上に、態度は不遜な人間が多い。
だが、それ自体は別に悪いことではない。何故なら彼らは悪いことを何もしていないからだ。
彼らは怒りを持っている。
不条理さを受けた怒り。財産への損害したことへの怒り。家族を失ったことへの怒り。
それらは事件が解決し、容疑者がそれ相応の罰を受ける事によって解消されていく。
「鞄には何が入っていましたか?」
「…えと…携帯とか。手鏡とか入ってたわ…」
では事件が受けるまで、その"怒り"を誰が引き受けるのか。
それは刑事だ。
時には胸ぐらを掴まれ、怒鳴られ、殴られたりする。それでも被害者の為に俺たちは些細な情報を拾い集めて事件の全体像を作り上げてゆくのだ。
ただ俺は辛抱がとても苦手だった。答えのチャンスを拾いに行くのに地を固めてゆくことの焦ったさに耐えているのがこの上なく苦痛だった。
だからこそ、被害者の怒りを受け止める事が苦手なのだ。恨みつらみの言葉を聞いたところで何の解決にもならないというのに。
「最近誰かにつけられていたなどの経験はありますか?」
「…いえ…そんな事は無いわよ…」
一課の頃は解決さえすれば功績として認められたものだが、その才覚が錆切った今の俺には価値など微塵もない。被害者をどれほど安心させてあげられるか、というのも求められる。
まぁ、加瀬森の様にそれが天職という人間もいるのだろうが。
「喫煙などはなさいますか?」
「いえ…主人も私も周りで吸ってる人は誰もいないわ」
「ありがとうございます。家族での立ち位置や職場で貴方がどういう人間の部下なのかを教えてください」
ちょっと待て。
コイツは何を聞いてるんだ?
「ちょっ…あなたそれ…必要な情報なの?」
「はい、必要です。事件の早期解決に繋がりますので」
「待て…お前何言ってんだ…」
「何って…谷原さんの事情の聴取ですけど」
慌てて加瀬森を制止するが、本人はきょとんとした様子でこちらを見つめるだけだった。
どうやら自分が何を言ってるのかの自覚すら無いらしい。
「答えれないのですか?」
「答えられないわよ!そんなこと…」
「何か疾しい事でもあるんでしょうか?」
「おいっ…加瀬森っ」
「何よ…あんた達!」
「私達は刑事です。そして私達は今、貴方の事件を解く為にこうして情報を集めています」
俺の制止に聞く耳も持たずに加瀬森は続ける。
「協力をしてください谷原さん」
バンッと大きな音がフロアに鳴り響く。
谷原は両手を机に叩きつけて立ち上がった。
「上の人に代わって!!もう!!」
女性は再び金切り声をあげると、周囲の人間の視線が一斉に集まる。皆がこちらを見つめていた。
「大変失礼致しました。奥様…どうぞこちらへ」
「ホントに嫌!こんなのだから公務員は…」
どこからともなく現れた職員と共に、その女性は罵詈雑言を撒き散らしながら去っていった。
「職権濫用」
木場が開口一番に言う。初めて三課のデスクに来たが案外良い場所だ。コーヒーメーカーまである。これから暫く通うことにしよう。
自分のデスクが手に入ったらの話だが。
「警察という立場を利用して市民を脅す…何を考えているんだお前らは?」
「木場警部、失礼ながら職権濫用などではありません。私達は事件を解決する為に尽力を…」
「口を閉じろ!今私が話しているんだ!」
木場は喉を震えさえせなが、怒鳴りつけた。
「お前たち2人に私から聞きたいことは2つだ。被害者を思いやる心はあるか、そして事件を解く気があるのか」
「お言葉ながら木場警部、それら2つを同時に達成するのは難しいかと」
「いいから黙れ!!」
先程より倍ほど声を荒げて加瀬森へ木場は叫ぶ。
この日、2回目の怒鳴り声のおかげで僅かに残った眠気が完全に消え去った。ありがとう、木場。
「お前たちにはなんら期待していなかった。だから俺は聴取だけ態々お前らに任せて後は三課の誰かに引き継がせるつもりだったが…それすら出来ないとはどういうつもりだ!」
反論の為にここに来るまでの廊下でいくつか台詞を用意していたのだが、先程の怒号で何処かへ飛んでいってしまったようだ。何も思いつかない。
「ブランク…でしょうか?」
「ふざけた事を抜かしてると、明日以降資料室からお前の名簿が消えるぞ志原」
怒りが滲み出たような声で木場は一蹴した。
仮に言ったところでガソリンを火事にぶち撒けることになるだけだろうが。
「木場警部、私から少し提案があります」
怒鳴りつけられてなお、加瀬森は話を続ける。大した性根だ。
「言ってみろ。退職届ならこの場で認めるぞ」
「その後の引き継ぎ業務を私達に任せて下さい」
コイツは何を言ってるんだ?という顔で木場は加瀬森を二度見した。同感だぞ、木場。俺もコイツの言動が微塵も理解できない。
「言っている事が分からんのだが」
「ですから、"三課の誰かに引き継がせるつもりだった業務"を私達に譲ってほしいんです」
「ちょっと待て加瀬森、なんで俺が入ってるんだ?」
「ダメでしたか?」
「いや…ダメとかじゃなくてな…」
ダメだコイツ。話が通じないどころか話が肩透かしだ。比喩的ではなく、文字通りお話しにならない。
「応対すらまともに出来なかったお前らに仕事を回せ、と?」
「まともに出来なかったどうかは結果論です」
「被害者と対話する能力すら持ち合わせていない時点で、警察という職業そのものに向いていないという事に気付け!」
「我々の真価は聴取ではなく調査にあります」
厳しく譴責をする木場。だが、加瀬森は一向に引かない。
「能力の低さを自分から露呈させた自覚がないのか…?」
「仮に応対が上手くいかなくても事件さえ解ければ全てが元通りになるでしょう?」
「お前らが雑な対応をした被害者はどうなる」
「被害者が事件の解決を望んでいるんです。なので私は被害者から取れる情報は少しでも多く情報を取ります」
「その過程で被害者が傷ついてもか?」
「はい」
木場の高圧的な態度に臆さず加瀬森は言い放った。フロアがその言い草に騒ついた。
理論武装…というか"理想論武装"というのが正しいだろうか。加瀬森はただ上手くいったときの事しか念頭に無いのだろう。コイツは全てが全て、想定した通りに事が進むと本気で考えているのだ。
「……はっ」
吐き捨てる様に木場は言い、椅子にもたれかかった。
「…出てけ。処遇については後で通達する」
「分かりました、木場警部」
「くれぐれもこの最中に事務作業以外の業務を行わないように。そして…これからがあればだが、言動には気をつけろ。この"資料員共"が」
どこか見切りをつけたような顔をする木場とは対称的に、加瀬森はまるで入学式を終えた学生のようだった。