2話-A 友人
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「はい、じゃあ明日の連絡事項は以上。皆んな気をつけて帰るように」
担任の佐村が事務的に話すホームルームの締めの言葉を言い終わる前に、何人かが教室を飛び出す。そしてほぼ同じタイミングで1日の終わりを告げるチャイムが校舎に鳴り響いた。
先に出ていった奴等は恐らく部活組だろう。一体どこにそんな労力が残っているのか。
僕なんて授業6限で死にかけているというのに。
疲れ切った体を引き摺るように動かして、僕はある場所へと向かう。
朽伽駅から一度下車して暫く歩き続けたあと、如何にもな豪邸の家の前につき、インターホンを鳴らして出てくるのを待った。
「おぉ来たか」
暫くすると、扉が開き1人の少年が出迎えた。
「1週間ぶりか、そんな時間経ってないけどなんかすげぇ久しぶりな気ガスるんだよな」
「歳とると時間の経過が早く感じるとか聞いたことがあるからそれじゃない?」
「俺、そんなにジジイになってないと思うんだがな…」
「杖いる?」
「うっせ。今日もやるぞ」
部屋に入り久津見優也に言われるがまま、僕は渡されたコントローラーを取る。
「負けんよ私鉉」
「上等」
ケーブルテレビの画面左右に表示されたキャラクターが「go!」という文字と共に動く。
ただ淡々と相手を攻撃する右側、僕のキャラと対照に、左の優也が操作するキャラはひたすらに攻撃を受け続けるばかりだった。
「この…コイツ…」
横でコントローラーを腕で振りながら優也が四苦八苦しているのを横目に、僕は攻撃を続ける。
暫くして、「KO」という文字と共に情けない声を出して優也のキャラは動かなくなった。
「やっぱ強えよ…勝てねぇ…」
「最初から技撃ちすぎるとクールダウン中、防御でしか凌げなくなるよ」
「んな事分かってるけどさぁ…毎回ボコボコにされるんだよな」
恨めしそうに優也は僕の方は見る。目を逸らす様に画面のHPのゲージを見ると、僕の方はまだ9割ほど残っていた。要するに圧勝という事である。
「帰ってたのか優也。お、私弦君か」
後ろから野太い声が聞こえた。
振り向くと白衣姿の中年男性、優也の父親がいた。
「お邪魔してます…」
「あーすまんね、私は邪魔だったかな?」
「オヤジ…友達といる時くらい他所行ってくれよ…」
「酷い言われようだな…でも悪かったな、私弦君もゆっくりしていきなさい」
「あ、ありがとうございます…」
そう言うと、笑顔で優也の父親はそのままどこかへと出掛けていった。
「優也のお父さん、良い人だね」
「まぁ…そうだな。ああ見えても結構しっかりしてるからな……どうした?そんな顔して」
「…え?あ、いや…次から手加減する?」
「俺のプライドが傷つくから嫌だ。絶対勝つ」
「情け無用ね、了解」
「よっしゃ、リベンジだ。完封してやるよ」
そう言って互いにコントローラーを取り、再戦が始まる。
久津見優也は梢と同じように僕の数少ない友人の1人だ。外見はウルフカットのような長めの髪に眼鏡をかけた根暗な雰囲気だが、中身は全くと言っていいほど容姿と乖離している。
荒々しい言葉遣いに加えて、喧嘩っ早い行動は1年の頃から話題にはなっていた。暴力の宛先は先輩だろうがお構いなし、まさに絵に描いたような唯我独尊を掲げる人間というのが似合う。
それでも優也が不良や邪智暴虐の枠組みからは外れているのは彼が成績トップの"優等生"という聡明さ故の頑固たる証があるからだ。
暴力行為に関しても、優也は「理不尽なことが嫌い」というだけで誰それ構わず殴り掛かる狂犬のような人間という訳でもない。
2年になった今でも安易に教師陣が手を出せないのは、この優也の優秀な能力を潰さないという教師としての忖度か、或いは彼によって抑えられているパンドラの箱を煮詰めた様な問題生徒の対処が面倒だからか。
いずれにせよ今や彼はこの学校の規律的な存在になりつつあった。
下手をすれば風紀委員会より風紀を取り締めているかもしれない。
そんな優也が僕と接点があるのは、ある意味では古井木の功績と言えるだろう。
まだ僕と古井木が「友人」だった頃、今や僕の徴収場となった校舎裏で面白いものが見えると古井木から言われ、着いて行った先に初めて優也と出会った。
初対面で見た優也の姿は血に塗れていて、周りには4〜5人の生徒が同じく血塗れで地面に蹲り、2人が優也の胸ぐら掴んで壁に押し付けていた。
「アイツ、ウチのサッカー部の先輩の喫煙チクってボコボコにされてるんだと。ダッセェよなぁこの後に及んで教師頼りとか」
隣で見ていた古井木が鼻を鳴らしながら言った。自分から見ればその先輩らしき人物が、数人がかりでもあの有様の方が見苦しかったが、口を紡ぐことにした。
暫くして肩を借りながら数人の大柄の生徒が、制服を赤く染め拙い歩き方でその場を去っていった。
「終わったみたいだな。行こうぜ伊奈川」
「…あぁ、うん。先に行ってていいよ」
先程まで数十人ほど集まっていたギャラリー達は勝敗が決定的になったと共に波が引く様にいなくなった。
その場には気づけば僕とぼろぼろになって倒れている優也だけが残った。今にして思えばどうしてそんな事をしたのか分からない。
きっと僕は正しさを貫こうとした優也に魅せられたのかもしれない。
一歩一歩近づいて目の前で歩みを止め、僕は手を差し伸べた。
「…大丈夫?」
そう言った自分の声は震えていた。目の前に血溜まりがあったら怖いに決まっている。
「……なぁ」
「何…?」
掠れた声で返事をする優也に僕は完全に怯えていた。
「…ゲームしねぇか?」
「え」
最早冷静に考える選択肢など脳頭から消え失せていたので、どういうわけかこの時の僕はゲームが何かの隠語かと思い込んだ。
「僕殴っても何も出てこない…よ」
「…ん?いや、だからゲームだよ、やった事ないのか?」
意味不明な返事にキョトンとした顔で優也は首を捻りながら言った。
「ゲームって…ゲーム機でやるやつ?」
「逆にそれ以外のゲームがあるなら教えてくれよ。気になるわ」
今でもこの時の事を度々優也に揶揄われるほど、滑稽な出逢いの話だ。初対面の会話としてはあまりにもぎこちな会話だったが、ある意味こういった後から笑い話のように話せる方がいいのかもしれない。
それ以降僕と優也は友人関係になり、今では古井木の穴を埋める良き親友となった。時には勉強やスポーツなど様々な事を教えてくれたりと、本当に頼りになる存在だと会う度に痛感する。
「おーい、おいって」
「あ…」
目の前で手をひらひら振りながら優也は僕を見ていた。
「生きてるか?」
「ごめん…ボーっとしてた…」
「ボーっとしててあのコンボ繋げてくるのはもう反則みたいなもんだろ…」
画面は僕の完封勝ちで止まっていた。
「そういえばお前時間大丈夫か?何か予定があるとか言ってたけど」
「あっ時間…」
優也に言われて腕時計を見ると、ヒビ割れた時計の2本の針は1と12を指していた。外の景色は夜が街を包もうとしている最中だ。
「時計、壊れてんのか?」
横で覗き込んでいた優也が言った。
「あーうん、昼間ちょっとぶつけちゃって…携帯あるから大丈夫」
「…そうか」
鈍い痛みに耐えながら、隠す様に腕を引っ込める。
「今何時かな…」
スマホを取り出して、画面にふれる。が、反応は無い。こちらはヒビが入っている様には見えなかった。
暫くすると、赤くなったバッテリーバーが現れて再び画面は真っ暗になった。
「……今、6時半だな」
単純に充電が無いようだ。
外の日が殆ど落ちて、空が暁の如く赤い色から藍色の暗闇に切り替わろうとしていた。
「今ぐらいが1番ベストな季節だな。暑くも寒くもない」
「だね、まぁ僕は春も好きだけど」
「春はダメだなぁ…花粉が辛いんだよ」
「あーたしかに。花粉は無理だった」
ほんのり冬の香りを含んだ秋風が僕らの間に吹き流れてゆく。優也は外まで僕を見送ってくれた。
「次こそは絶対勝つから覚えとけよ?」
「それ前も聞いたよ。でも優也も段々上手くなってきてるから次辺り負けるかも…」
「お、マジ!?上手いやつにそうやって言われるの嬉しいわ!」
そう言って弾ける様な笑顔を見せた。
優也は笑っている事が多いので、他人からも好かれやすい。前に教室を覗きに行った時、机周りには人が集まっているのを何度か見かけたことがあったり、梢も「優也は女子にかなりモテる」と言っていた。
これだけ人当たりがいいなら当然だろう。
「あのさ、優也」
「どうした?」
それほどの人望があるなら、頼るべきだろうか。
自分が今どれほどの苦痛に耐えているかを包み隠さずに伝えるべきだろうか。
「次、楽しみしてる」
「おう!」
そう言って優也はグータッチをし、別れを告げた。
きっと僕が受けている仕打ちを知れば、優也は古井木の所へ飛んでいき滅多打ちにするだろう。そうなれば、サッカー部に入ってる古井木は先輩達に頼み込む。もししなかったとしても、アイツは僕が告げ口をしたとすぐに気付くだろう。
もしかすれば優也なら複数人で報復に来た奴等を返り討ちにできるかもしれない。たったひと言、今後ろで手を振っている優也に「古井木に殴られた」と言えば全て解決するのかもしれない。
それでも自分の為に他人が暴力を振るう事が自分には途轍もなく、途方もなく悍ましい事に思えるのだ。
駅に着く頃には僅かに残っていた赤焼けの空模様は消え失せて、暗闇が抱擁していた。
朽伽駅で帰りの列車に待つ間に、ベンチに座りながら今から会いに行く苦痛に耐える為に今日あったことを追憶する。とは言っても優也とゲームをしたこと以外残したい記憶はない。殴られた思い出など振り返った所でトラウマにしか昇華しないからだ。
それでも数少ない幸福な記憶は、僕の引き裂かれた心に接着し生きる糧になってくれている。
古井木と仲が良かった頃の記憶は、くだらない中学時代の思い出を薄れさせてくれたり、梢とするバカみたいな話や、優也とするゲームの記憶は、罵倒から心を守ってくれた。
もしここにアイツがいたら、今僕はどれほどの幸せに身を委ねられただろうか。
「はぁ…」
胸の奥に溜まった毒を抜くように、溜め息を吐き出してぼんやりと辺りを見渡す。ホームには僕以外に杖をつきながら老婆が怪訝な顔でゆっくりと歩いていた他、中年の男性と女子生徒らしき見た目の少女が2人組で列車を待っていた。親子だろうか。
『…もなく、2番線に列車が参ります』
仲がいいのは羨ましい限りだ。
そう思いながら僕は今日1番の苦痛を噛み締める為に、家へ向かう。
「ただいま」
家に戻るとすでにリビングの明かりは付いており、父が無表情でパソコンと向き合っていた。
「遅かったな、私弦」
そそくさと自室に向かうのを阻止するように父は僕を呼び止めた。
伊奈川宗介、僕の父親だ。
50歳で市の議員を務めている。
「今日はちょっと、寄り道をしてたから…」
「それで?」
父は間髪入れずに言葉を突き刺してくる。短い言葉だが重厚感漂う口調は、議員としての風格を感じさせるのには十二分な判断材料だろう。
「だから、その…遅くなった」
「で?」
心拍の鼓動が急激に早くなっていくのが分かる。
「俺は前に言ったよな?6時までには帰ってこいと」
何も反論はしなかった。した所で過程が変わるだけで結果は何も変わらないとわかっていた。
「お前みたいな出来損ないの事だ、30分程遅刻するだろうと思ったが、今何時だ?」
こちらを振り向く事もなく、淡々と話す。
「…時計が、その、割れちゃっ…て。友達と喧嘩したから」
「友達?」
父は一度聞き返したが、何かを思い出したかの様に「あぁ」と呟いた。
「お前に友達がいたんだな」
「…」
返す言葉が無かった。
「俺の脚だけは引っ張るなよ」
父は新聞を机の上に置いて立ち上がって、吐き捨てるように言うとリビングから出ていった。
扉が閉まると共に、身体に纏わりついていた気持ち悪い冷や汗がドッと流れるのが分かった。
石化した様に動かなかった脚は力が抜けたように崩れ、その場で僕はしゃがむ。
この日1番の苦痛を乗り越えたことへの安堵か、
それともこの現状がこの先あと何年も続く可能性がある事への絶望か。
ただ、今の自分にあるのは割れた腕時計とひび割れた心だけだった。