1話-A 伊奈川私鉉の日常
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この世には色々な苦痛が存在する。
それらは肉体に直接及ぼされる苦痛から精神の内面に染み渡っていくような苦痛、様々だ。
そしてその苦痛に耐える行為や対処は人によって、全く異なったりする。歯を食いしばり痛みを最小限に緩和させようとする奴がいれば、思いっきり叫ぶ奴もいる。
勉強や課題をやっている最中は、終わった後に娯楽の渦に飛び込む事を考えている人間も多いはずだ。
「今日の分の金、早く」
僕の場合は、苦痛を苦痛で上書きするというのが最近の自分の中での流行りになりつつあった。色々な事を試した末、今はこれに落ち着いている。
具体的に説明すると、苦痛に耐えている時『これよりも酷い事なんて世の中沢山ある』と思考の上書きをして、今ある苦痛から少しでも目を逸らそうとするといった方法だ。
一見するとこれはただの変人かマゾか、或いは狂気との境目の様な行為かもしれない様に見えるだろう。
が、存外悪い方法ではない。
この世には餓死やら戦争やら奴隷等の命の燈が消える事に直面する様な人間すらいるのだ。それなのに、自分が命令を背いた報いを受ける程度の事に一々悶絶していたら、生死を彷徨う境地にいる人間に対して些か無礼では無いだろうか。
「は?無い?あそう」
現実から目を逸らしていれば、然程今自分がぶち当たっている境遇が徐々に泡沫の如くぼやけていくのだ。
きっと都合の良い事だろうし、言い換えれば"現実逃避"の四字熟語に縮小出来てしまうだろう。
それでも、先程言った苦痛を苦痛で上塗りする現実逃避は、世の中に数多く存在している苦しみに抗っている人間を侮蔑する事もなく、今ある苦痛から目を離せる数少ない方法なのだ。
「歯、食いしばっとけよ」
他の方法じゃ、僕の身体は今頃線路の上で列車の車輪に擦り潰されて肉塊に成り果てている事だろう。
朽伽町、能瀬高校
今日もまた、僕はここで殴られる日々を送っている。
桜舞う春の暖かな日差しが道を照らす日、僕はこの街では1番の学力である能瀬高校に入学した。
中学時代の不憫で窮屈な思いをしてきた経験から、学を可能な限り積んでまとな人間のいる場所でのびのびとスクールライフを送ってみたい、という願望があった。
私立という事もあり金銭面だけは援護してくれる自分の親の手助けもあってか、無事に合格。
僕は今までの授業の最中に絶叫する様な奴等と、漸く離れられたのだ。
だが、平穏に見える学校生活は入学後1か月で牙を剥くこととなった。
「なぁ、金貸してくんね?」
親友と思い込んでいたうちの1人からある日僕はそう言われた。金の貸与も高校生となればするだろう、といった断片的な学生生活への過信が自分の首を締め上げているとその時の僕は気付く事が出来なかった。
1週間以内に返すという約束の下、僕とその親友、古井木 隼勢に金を貸した。
しかし、古井木は約束の日を過ぎても金を返す気配は更々無かった。
親友と思っていた僕は中々古井木に声を掛ける事が出来なかったのだ。
返金の要望を友人に対して言うという行為は、まるで自分が借金取りの様な醜い人間になったかの様な錯覚を植え付け、伝える事を滞らせる枷の役割を担うことになっていた。
それでも2週間が過ぎた辺りで僕はその罪悪感の渦から抜け出して、古井木に声を掛ける事が出来たのだ。
そして返金の要望に対して応えは「殴打」であった。
何が起きたか理解が出来なかったが、別れ際に言った古井木の言葉に僕は大人しく従う他無かった。
僕は恐怖心のタネを植え付けられたのだ。
その日から僕と古井木の間に亀裂の様な物が生まれていった。正確には向こう側が僕との関係性を変えたというのが正しいだろうが。すっかり僕は彼に金を渡すだけの奴隷のように成り下がった。
今では週に2〜3回ほど金を要求される。それも貸すのは古井木だけではなく、彼の腰巾着の様にくっ付いている奴らも度朔さに紛れて金をせびってくるようにもなった。
月に2回、3回と言われていた頃が恋しいとここ最近は思っている。
木漏れ日の如く穏やかな学生生活は、父親が市議会議員というだけで僕はカースト上位の奴へ金を渡す日々へと変わってしまった。
自分の周囲に群がる人間が本当に自分の事を求めていると思い込んでいた純粋な自分に戻りたいものだ。
「こりゃ酷い」
掠れた荒い雲が流れていく青い空を溝うちの痛みに耐えながら眺めていると、長い髪が視界に突如現れた。
「今日は一段と荒れてたよね古井木君。中間近いからかな?」
その髪の主は下腹部の痛みに悶絶している僕に手を差し出す。
「……あの金でアイツが参考書買うと思えないんだけど」
「女子ウケのアピールにはなるんじゃない?私はどうでもいいけど」
差し伸べられた手を取って身体を起こし、服にこびり付いた泥を払い落とす。
不意にズキリと腕に電流が流れたかの如く痺れる様な痛みが走り、腕を下ろす。腕を捲ってみると、苦痛を波紋の様に伝える箇所が酷く変色していた。それを見たせいで余計に痛みが悪化したかの様な感覚に陥った。
「大丈夫?今日はホントに酷かったみたいだけど。腹とかも蹴られてたみたいだし」
「……観てたなら助けてくれよ」
「嫌だよ、私痛いの苦手だし。君の専門分野をこっちに押し付けてもらっても困る」
そう言いながら、変色している箇所にガーゼを押し付けて包帯を手際よく巻いていく。
「暴力から耐える事が専門分野とか…進路に困るよ……痛っ」
苦痛から逃れる術があるといっても痛覚まで遮断できる便利の様なものではない。あくまでも自己暗示の様なものなので痛いものは痛い。
「骨は流石にいってないと思うけど、一応保健室で氷貰ってきたら?」
「いやいいよ…いつもごめん、丘寺」
「下の名前で呼んでもいいんだよ?」
「…そこまでの仲じゃない」
丘寺梢は高校で出会った数少ない友人の1人だ。
剽軽な事をさらっと言い退ける、その性格から滲み出るギャグかどうか分からない言葉のノリが2、年になった今でも僕は分からないことがある。
自分もこれくらい変な奴になれば古井木から集られなくなるだろうか。
「さぁさぁ起きて起きて。次の授業始まるまでに済まさないと色々面倒だからさ」
梢は応急処置を終えると、早足で校舎へと戻っていった。彼女に巻いてもらった箇所を摩ると、やはり電流が流れている様な鋭い痛みが腕から伝わった。
それでも何もしないよりかは幾分もマシだ。
「早く、行かないと」
財布の中とヒビの入った腕時計を見て溜め息が出る。月末までの金銭事情は今はなるべく考えないことにした。
こうして僕の昼下がりの休み時間は漸く始まりを迎える。