9.アビゲイルの日記Ⅴ
嫌な予感に鼓動する心臓の音が耳まで届くようだった。
聞きたくないとうずくまってしまいたい自分を抑えて、わたくしは何とか口を開く。
「ルルリエさんがどうしたのですか……?」
「……言い出しておいてごめん、アビゲイル。ここだと人目があるから、よかったら君の家にお邪魔していいかな。今日兄上がウィルソン家に行く予定はなかったよね?」
デレク様の言葉にはっとして周囲に気を配ると、お茶会の参加者たちに遠巻きに注視されていることに気付いた。わたくしたちの会話の内容までは聞こえないだろうけれど、憶測で変な噂でも立てられたら面倒なことになるだろう。
デレク様の話がどんなものであれ、彼の判断は正しいと思った。
「え……ええ。大丈夫ですわ」
「じゃあ行こうか。どうせ今日はもうお開きになるだろうし」
そう言ってデレク様は席を立つ。わたくしも連れだって、ともに主催の方に挨拶をして会場をあとにした。
待機していたウィルソン家の馬車に乗ろうと使用人を呼ぶと、デレク様がわたくしを呼び止める。
「同じ場所に行くのだから同じ馬車に乗ろうよ。ほら、行こうアビゲイル」
にこっと笑ってデレク様がわたくしにスマートに手を差し伸べる。流石王族なだけあって、彼の行動の端々には気品があった。お礼を言って手を重ね、馬車へ乗り込み、デレク様と向かい合う形で腰をおろした。
わたくしたちが座った事を確認して御者が馬車を走らせる。
ぼんやりと馬が土を蹴る音を聞いていると、ぽつりと無意識の独り言が落ちた。
「……王家の馬車に乗るのは久しぶりですわ」
「──え? そうなんだ。あれ、兄上とアビゲイルが婚約してどれくらい経ったんだっけ?」
わたくしの独り言を聞いて、デレク様が驚いたように顔を上げる。
「そうですね、あの日から、もう二年になりますわ。八歳になりましたもの」
「じゃあ俺たちももう二年の付き合いになるのか」
「ふふ、初めてゴーチエ様がデレク様を連れてきてくださった時、弟が出来たみたいで嬉しく思ったのを覚えていますわ」
「今は俺の方が兄みたいになっているけどね」
「むぐ……言い返す言葉もございませんわ……」
和やかな談笑が続く。デレク様と過ぎ去った日々を思い返す時間はとても楽しく、同時にひどく寂しくなる。
──だって、わたくしとデレク様の過ごした時間の大半は、わたくしがゴーチエ様との関係に悩んでいる時間だったから。
ふと、涙が頬を伝う。
「い、いやだわ……ごめんなさい、っ」
──立派な淑女にならないといけないのに。人前で泣くなんてみっともないと心ではわかっているのに、涙はとめどなくあふれ続ける。両手で顔を覆って声を殺した。
──わたくしは気付いてしまった。ゴーチエ様と婚約して二年も経つのに、彼とどこかへ出かけた事なんて数える程度しかなかった事実に。
最近ではもうゴーチエ様がウィルソン家に訪れる頻度もどんどん少なくなっていて、ゴーチエ様から送られるお手紙も、簡素な社交辞令が書き連ねてあるだけになっている。そんなお手紙でも届けば嬉しくて抱きしめてしまう。彼に憤りを覚える事もできずに、大切に大切にしまい込んで……。
ずっと目を逸らしていた事実が突き刺さった。
最後にゴーチエ様に会ったのは、会話をしたのは──いつだったかしら。
「アビゲイル……」
苦しそうな表情でデレク様はわたくしを見つめる。
「ゴーチエ様は、わたくしのことなぞもうお好きではないのかしら……それとも、もしかして、最初から」
デレク様はわたくしの隣に移り、何も言わずに優しく背中を撫でてくれた。そして嗚咽交じりのわたくしの言葉にそっと耳を傾けて下さる。
ゴーチエ様と同じデレク様の金髪がきらきらと目に痛かった。
「けれどわたくしは、ゴーチエ様が好きなのよ……」
ゴーチエ様のわたくしへの扱いに胸が痛むのに、彼を思えば愛おしさを覚えてしまう。
わたくしは、あの日信じた運命を忘れられずにいる。