今日も君に席を譲るため、僕は
「ふわぁ」
欠伸を噛み殺しながら、ホームに入ってくる電車に目線を向ける。
前から三両目の、一番後ろのドアの開閉位置。
その先頭に並んでいる僕は、ドアが開くなり、今日も定位置である入ってすぐ左手前の席に腰を下ろした。
最初のミッションを無事終えたことに、胸を撫で下ろす。
この席を確保するために、本来の時間より一時間も早く起きて、この駅が始発になる電車を待ち構えているのだから。
――だが本番はこれからだ。
僕は気を引き締め、スマホを弄るフリをしながら、電車が動き出す瞬間のふわっとした心地よい揺れを堪能する。
程なくして、電車は次の駅で停車した。
プシューと音を立てながら、勢いよくドアが開く。
その瞬間、虚ろな目をした老若男女が車内に雪崩れ込んでくる。
――キタ。
その彼女は、今日も僕の前に立ち、左手でつり革を掴んだ。
右手には文庫本が広げられており、片手だけで器用にページを捲っている。
――今日も綺麗だ。
僕は依然としてスマホを弄るフリをしながら、時折チラチラと彼女の顔を窺う。
猫を連想させるクリっとした目元。
左目側にある泣きぼくろ。
鼻筋はスッと通っており、唇はリップなど未来永劫不要と思えるくらい、プルンと潤っている。
サラサラの流れるような長い黒髪には、朝日が反射して煌めいており、思わず見蕩れてしまう。
県内でも有数のお嬢様学校、肘川女学院――通称肘女の制服には、皺一つ付いていない。
名前も知らない彼女のあまりのスペックの高さに、住む世界の違いをまざまざと実感せざるを得ない。
……だが、まあ、いい。
僕は自分に課せられたミッションを、淡々とこなすだけだ。
と、そんなことをグルグル考えていると、電車が次の駅に着いたようで、徐々にスピードが緩まったかと思うと、最後にガクンと一つ揺れてから停車した。
発車する時の揺れは嫌いではないが、停車する時の揺れはどうにも好きになれない。
まあ、これから行おうとしている最終ミッションを前に、内心激しく緊張しているせいもあるかもしれない。
プシューと音を立てながら、勢いよくドアが開く。
――よし、いくぞ!
僕は平静を装いつつ、スッと席を立ち、彼女にぶつからないように気を付けながら車外に出た。
ホームに降りるとそそくさと電車から離れ、大分距離を取ってから振り返る。
僕の座っていた席を窓越しに眺めると、今日も彼女は無事、僕の席に座ってくれたようだ。
――イエス! ミッションコンプリート!
僕は小さくガッツポーズをした。
走り去る電車を見送ると、その足で次の電車を待つため最後尾に並ぶ。
そう、僕の通う肘川北高校――通称肘北の最寄り駅は、ここからまだ三駅も先なのだ。
こんな一見不可解な行動を僕が取るようになったキッカケは、今から一ヶ月ほど前――。
「ふわぁ」
欠伸を噛み殺しながら、ホームに入ってくる電車に目線を向ける。
この日僕はたまたま学校に用事があり、いつもより一時間も早く起きていた。
だが、この時間ならこの駅には始発が停まる。
つまり高確率で座れるということだ。
座れたら降りる駅に着くまでは寝るとしよう。
「ふぅ」
何とか入ってすぐ左手前の席という絶好の位置をゲットした僕は、小さく安堵の息を吐いた。
さてと、寝るとするかな。
僕は瞼を閉じ、首の重みを窓に預ける。
――が、寝過ごしたらどうしようという緊張感からか、眠いのに眠れない。
もういいや、どうせ眠れないなら、スマホでも弄って暇を潰そう。
目を開けると、ちょうど次の駅に着いたところらしく、虚ろな目をした老若男女が車内に雪崩れ込んでくるところだった。
「――!」
その中の一人の女の子に、僕の目は釘付けになった。
――何て綺麗な子なんだ。
まるで絵画から抜け出してきたのではないかと思えるくらいの、現実感のなさ。
それくらいその彼女は、僕には光り輝いて見えた。
しかもその彼女は、あろうことか僕の目の前に立ったのである――!
そして左手でつり革を掴んだ。
右手には文庫本が広げられており、片手だけで器用にページを捲っている。
――運命だ。
僕はこの時生まれて初めて、確かな運命を感じた。
たまたま一時間早く起きた電車で、こうして出逢うとは――。
これが運命でなかったというなら、何だというのだろう。
――席を譲らなければ。
瞬間的に、僕は使命を感じた。
制服からして、彼女は肘女の生徒に違いない。
肘女の最寄り駅には、ここからまだ大分あるのだ。
ここで颯爽と彼女に席を譲れば、好感度アップ間違いなし!
ギャルゲーだったら、最初の分岐点となる箇所だ。
さあ、譲れ!
譲るんだ、僕――!
――が、結論から言うと、僕は次の駅に着くまで、結局席を譲る勇気は出せなかった。
いやだってそうだろう!?
特に足が不自由な感じでもない若い女の子に席を譲ったら、下心があるのバレバレだ。
チャラいモテ男だったら、それでも意に介さず席を譲るのだろうが、生憎僕はチャラくもモテ男でもない。
颯爽と女の子に席を譲るなんて行為、荷が重すぎる――。
……致し方ない、こうなったら次善策だ。
本来降りる駅ではなかったが、僕はさもここが目的地かの如く装い、そそくさと電車から降りた。
さりげなく振り返ると、無事彼女は僕の席に座ってくれたようだ。
よし、これで何とか彼女を少しでも休ませてあげることはできた。
彼女の立場からは、僕が意図的に席を譲ったようには見えないだろうから、好感度はアップしていないどころか、僕の存在を認識すらしていないだろうが、まあ、それはいい。
彼女が学校までの長い道のりを、少しでも楽に過ごすことができる。
それ以上の報酬が、他にあろうか。
――この日から僕は、毎朝一時間早く起きるようになったのである。
――おや?
今日も今日とて、眩いばかりのオーラを発しながら僕の目の前に立ち、左手でつり革を掴む彼女。
だが、この日の彼女は明らかに様子が変だった。
何というか、異様にソワソワしているように見える。
顔もほんのりと赤いし、何より右手に持っている文庫本が上下逆さまだ。
いったいどうしてしまったというんだい!?
ひょ、ひょっとして、体調が悪いとか……!?
――だとしたら、今回ばかりは次の駅まで待ってはいられない。
一刻も早く、席を譲らなければ――!
「あ、あの!」
「……え!?」
勇気を振り絞って声を掛けると、彼女は大きく目を見開き、面食らった様子を見せた。
まあ、急に僕みたいな冴えない男から話し掛けられたら、誰だってこんなリアクションになるだろう。
「よ、よかったらこの席、座ってください!」
「……え? え?? え????」
彼女の頭の上に、指数関数的にハテナマークが増えていく。
うん、気持ちはよくわかるのだけれども、今は黙ってこの席に座ってゆっくり休んでほしい。
「どうせ僕、次の駅で降りるんで!」
「あ……はい」
何とか強引に押し切り、戸惑いつつも彼女は僕の席に座ってくれた。
よし、これでできるだけのことはやった。
もしも本当に熱があるなら無理せず学校は休んでほしいところだが、彼女のおでこに手を当てて熱を測るわけにもいかない。
僕はチャラいモテ男じゃないからな。
いや、流石のチャラいモテ男でも、それは超えちゃいけない一線だろう。
彼女は大層気まずそうに、僕にチラチラと上目遣いを向けてくるが(か、可愛い……!)、僕はいつも通りスマホを弄るフリをして、気付いていないていを装う。
そうこうしている内に、電車は次の駅に到着した。
プシューと音を立てながら、勢いよくドアが開く。
よし、あとはここで降りれば、今日もミッションコンプリート――!
僕が一歩を踏み出そうとした、その時だった――。
「あ、あの……!」
「……え?」
不意に彼女に袖を掴まれた。
んんんんんんんん???
「こ、これ、よかったらあとで、読んでください……!」
「――!?」
彼女は文庫本に挟んであった、可愛い柄の小さな封筒を差し出してきた。
彼女の顔は茹でダコみたいに真っ赤になっている。
「あ、はぁ」
何が起きているのかイマイチ理解できず、マヌケな返事をしながら封筒を受け取る僕。
そのまま人の流れに沿って、車外へと出た。
外に出る瞬間、彼女がはにかみながら僕に小さく手を振っていたように見えたのは、気のせいだろうか?
斯くして電車は今日も定刻通り、僕をこの駅に残し出発した。
僕は今さっき起きたことにどうしても現実味が感じられず、小さくなっていく電車をただボーっと眺めていた。
――が、ふと手元を見ると、そこには先ほど彼女から渡された封筒が。
よく見ると、丸々と太った三毛猫のイラストが印刷されている。
――幻覚じゃなかったのか。
僕の心臓がはち切れそうなほど、ドクドクと早鐘を打ち始める。
震える手で封筒を開けると、中にはこれまた同じ三毛猫のイラストが端っこに印刷されている便箋が一枚。
そこには綺麗な字で、こう書かれていた――。
『突然こんなお手紙を渡してしまってごめんなさい。
どうしてもあなたに、お礼を伝えたくて。
あなたのその制服、肘北の制服ですよね?
肘北の最寄り駅はまだ先なのに、いつも手前の駅で降りられてるから、おかしいなってずっと思ってたんです。
私の勘違いだったら凄く恥ずかしいんですけど、私に席を譲ってくれるために、わざと手前の駅で降りてくれてるんですよね?
あなたのその優しさ、とっても嬉しいです。
本当にいつもありがとうございます。
ただ、一つお願いがあるんです。
明日からは、どうか降りないで一緒に通学しませんか?
私、あなたといっぱいお話がしたいんです。
また明日、同じ電車で会えることを楽しみにしています。』