樹海の一夜
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◇
空も見えぬほど木々が生い茂る樹海の中に、ぽっかりと木のない空間があった。
小さな邸に小さな畑、数種類の家畜、井戸。
ヴァレリアの邸はベアトリーチェのそれとは随分印象の違うものだった。
玄関から入ると玄関ホールなどはなく、すぐにリビングとキッチン。
白い壁にウィンドウシートの付いた大きな窓、ウィンドウシートの上には大小様々なサイズの異国調のクッションが並べられている。部屋の所々には同じく異国調のランプ。無垢の木の床に毛足の長いラグが敷かれ、そこにも大きなクッションが一つ。普段から使っている事が見て取れるキッチンには、鍋やヘラなどの調理器具が天井から吊るされている。
リビングには三つ扉があり、それぞれバスルーム、
寝室と客室への廊下、書斎に繋がっていた。
「あたしの邸では靴を脱いでもらうわよ」
「え?靴を脱ぐのですか!?」
一般的に他人の前で靴を脱ぐ行為は端ない。最近平民の間ではそういった行為も寛容に受け止められる様になってきているらしいが、貴族ではまずあり得ない。その為、ミリアムはかなり躊躇したが、邸の主に従うより他ない。
「邸の中でも靴を履くなんてあたしは耐えらんないの。窮屈でしょうが」
「ああぁ、なんだかスースーして落ち着きませんわ」
「ミリィお姉さんだいじょうぶ?ソワソワしてるね!」
慣れないミリアムはかなり抵抗を感じていたが、仕方ないと諦めることにした。
ヴァレリアは着ていた黒いローブを脱ぎ、壁のハンガーに掛けると、杖を自身の肩にポンッとあてる。
瑠璃色の魔法陣がゆっくりと降下してくる。光がヴァレリアを包み込むと、彼女の着ていた黒いドレスが膝下丈のシンプルなエプロンドレスに変化した。
白いフリルのワンピースに濃紺のエプロン型のオーバースカートを合わせたそれは、膝下丈と短すぎるが、黙っていると人形の様な美少女のヴァレリアに恐ろしく似合っている。
「な、なんて可愛らしいのかしら…。ヴァレリア様よくお似合いですわ」
「知ってる」
思わず口から溢れた言葉に、何を当然のことをと言う表情でヴァレリアが返す。
「さ、この邸では“働かざる者食うべからず”よ!当然ミリィにもいろいろやってもらうわ!」
「は、はい!お役に立てるかわかりませんが…」
◇
「わかってはいたけど、あんた本当になんにも出来ないのね!いっそ清々しいわ」
ヴァレリアが呆れた様子でミリアムを見る。
夕飯作りを手伝ったミリアムだったが、当然何をするにも初めてであり、結果は散々なものだった。
包丁は指が無くなりそうなので最初から却下。玉葱の皮むきを任されれば、実まで全て剥ぎ、パン作りではあわや粉塵爆発。皿を出そうとすれば滑って落とし、それではと井戸に水くみに行けば、落ちそうになる始末。
働く方が邪魔になるので、座って待機する事が仕事となった。
ちなみにロビンは元の世界で母親の手伝いをしていたそうで、ミリアムの数倍役に立っている。
「穴があったら入りたいとはこの事ですわね…」
「はい、ミリィお姉さんスプーンとフォークを並べてね」
7歳の少年に指示されカトラリーを並べながら、情けなさに悲しくなっていると、ヴァレリアが野菜のたっぷり入ったミルクスープを運んでくる。
鼻腔をくすぐる濃厚な香りに、ミリアムは思わず腹が鳴りそうになる。
焼きたての胡桃入りのパンに、サッと茹でた燻製の腸詰めと蒸した根野菜には卵とビネガーを使ったソースをかけ、白身の魚は小麦粉と臭み消しのハーブをまぶしてカリッと焼いたところに、香り付けのバターを落とす。
間引いた葉野菜の柔らかい新芽は柑橘の果物と和えてシトラスサラダに。
「こ、これをヴァレリア様が作られたのですか?魔法ではなく?素晴らしいです!」
「800年も一人暮らししてんだから、料理くらい出来なかったらむしろおかしいでしょ。さ、食べるわよ」
「美味しそう!リアお姉さんすごいね!」
食前の祈りを捧げ、食事を始める。決して豪華ではないが、温かみのあるその料理に、ミリアムはホッと心が温まる。
「とても美味しいです」
「そお?なら良かった。ちょっとロビンこぼしてるわよ。あー口のまわりも!」
「えへへ、すっごくおいしいよ!ママのごはんくらいおいしい!」
なんだかんだと面倒見の良いヴァレリアと無邪気なロビン。家族と囲むのとは違う食卓を新鮮に感じながら三人の夕餉は過ぎていった。
◇
ロビンが眠りについた後、ヴァレリアとミリアムは就寝前のお茶を共にしている。
毛足の長いラグの上に直に座り、心身のリラックスと質の良い睡眠を促す効果のあるハーブティーを飲む。
床に座り込んでお茶を飲むというのは初体験だったミリアムだが、この邸において貴族の常識はないものと割り切ることにすると、不思議とリラックスしている自分に少々驚いている。
「今日はなんか色々巻き込んじゃって悪かったわね。最終的には樹海の奥深くで一泊なんて思いもしなかったんじゃない?」
そう言うとヴァレリアは微笑む。
「いえ、貴重な経験をたくさんさせて頂きました。今までいかに自分が他人の手を借りて生活していたのかが痛いほどわかりましたわ」
「実際たんこぶを作ったしね」
「ええ、これも人生経験ですわね」
井戸に水くみに行ったときに滑って盛大におでこをぶつけたミリアムは産まれて初めて“たんこぶ”を作ると言う経験をした。
これからはメイドが用意してくれる水差しにさえ感謝することだろう。
「あの、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
「なに?」
ミリアムは昼間に聞いた“時空転移の魔法”について、疑問に思ったことを聞いてみることにした。
そのような魔法があり、方法が確立しているのであればロビンを元の世界に帰すことも可能なのではないのか、そしてまた、ヴァレリアも元の世界に帰れるのでは…と。
「時空転移の魔法の事なのですが、それを使えばロビンもヴァレリア様も元の世界へお帰りになられるのではないかと思ったのですが、難しいのでしょうか?」
ミリアムの問いに、ヴァレリアはお茶を一口飲み、一息ついて答える。
「異世界に自分が転移することは可能よ。理論上はね」
「では、ヴァレリア様も帰ろうと思えば帰れるという事でしょうか?」
「それは無理。っていうか限りなく不可能」
ミリアムの推測をヴァレリアはあっさりと否定する。
「なぜです?あ…、お身体の刻が止まっているから…?」
「それもあるけど、まあそれは大した問題じゃないわね」
ヴァレリアは再びティーカップに口をつける。
「ねぇ、ミリィ?異世界に転移したり、転移させたりするには時空を捻じ曲げて違う次元と違う次元を繋ぎ合わせるわけ」
「…はい」
「じゃあ、違う次元とは果たして一つなの?こっちの世界とあっちの世界だけって何故言えるの?そっちの世界やどこかの世界だってあるかもしれないじゃない!それに繋ぎ合わせた次元が元の時間軸と必ず同じになると思う?1000年前の過去かも知れないし、10000年後の未来かも知れない!刻が止まったあたしと違って、世界は常に進んでんの。一瞬一瞬で現在は常に過去になる。…同じ次元の同じ瞬間に再び時空が繋がる可能性なんてほとんどないのと一緒なのよ…」
ミリアムはハッとして俯いてしまう。魔女となった今のヴァレリアならば帰ろうと思えば帰れるのではと安易に考えてしまった自分を恥じる。
ヴァレリアはその様子を見て、フッと自嘲した。
「だからあたしは本人の意思を無視した強制的な異世界転移には反対。絶対に許せない。犯人の奴らは樹海の魔獣の生餌にしてやる」
瑠璃色の瞳を氷の様に凍てつかせ、何やら物騒な事を言っているヴァレリアを横目に、ミリアムはふと思った。そして、これだけは確認しなければ!と話の腰を折る事は承知の上でヴァレリアに問いかけた。
「あの、本人の意思を無視した強制的な同世界への転移はアリなのでしょうか?」
「ミリィとエミルに関してはむしろアリね!面白いから!」
またもや飛び出した勝手な言い分(食い気味)にミリアムは遠くを眺めた。
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