まるで彼女の考えが読めません
翌朝のホームルーム前。教室内の生徒はまばらだったが、雑然とした会話が飛び交っている。
そして、当然そんな会話の輪に入っているわけもなく、僕はいつものように自席で一人、ぼけーっと窓の外を眺めたていたのだが――
「おはようございます。奥村くん」
「………………え?」
声のする方を振り返ると、そこには鷺沢さんが立っていた。
その肩には通学鞄が掛けられており、ちょうど今登校してきたところなのだろう。
……え?
……ひょっとしなくても僕、彼女に朝の挨拶をされたのか?
「……あの、奥村君……?」
「…………あ、ああ……うん。 お、おはよう、鷺沢さん」
予想外の事態にしばらく固まってしまい、少し困惑気味の彼女から再び呼びかけられるまで、まともに挨拶を返すことができなかった。
だって、無理もないだろう。
まさか昨日の今日で、鷺沢さんの方からこんな親しげに接してこられるなんて、夢にも思っていなかったのだから。
僕がぎこちなく挨拶を返すと、鷺沢さんは笑顔を浮かべながら自分の席へと戻っていった。
そしてそれと同時に、この瞬間までクラス内の視線が一斉にこちらを向いていたことに気付く。
男子に対して冷たいことでも有名な彼女が、あろうことかぼっちかつクラス内の底辺的存在である僕に、わざわざ名前を呼んで挨拶をしたのだから、彼らが驚愕するのも当然だろう。
……というか一番驚いているのは僕自身である。
昨日の一件で、僕は彼女に対してひどく失礼な発言をした。
だから、そのことを根に持たれ、今日以降ゴミを見るような視線を向けられることは覚悟していたし、彼女は優等生なので可能性は限りなく低いが、最悪いやがらせを受けることまで一応想定はしていた。
しかし実際に鷺沢さんから返ってきたのは、その想定とは真逆の反応である。
(……まるで意味が分からない。ただの気まぐれか? ……いや、それにしても理解不能……。ああ、もう本気で彼女の考えが読めん……!! ……誰か助けてくれ)
一連のあまりにも不可解な展開に、僕は早くも朝から一人頭を抱えることになってしまった。
そのため、チャイムが鳴ってホームルームが始まっても担任の話が少しも頭に入って来ず、それどころか一限目の授業の間も朝の一件がぐるぐると頭の中を巡り続け、結局ほとんど集中できなかったのであった。
そしてその後も、僕を困らせる出来事は続いた。
授業中、明らかに誰かからの視線を感じるのだ。……それも、主に僕の斜め後ろの方から。
おそるおそる振り返ってみると、僕とばっちり目があったのち、慌てて視線を逸らす人物が一人。
…………そう、鷺沢さんである。
……うん。これはもう、僕が何らかの理由で彼女からマークされてしまっているのは確実だろう。
とはいえ、昨日の去り際の僕の言動からして、彼女が僕に好意を持って接してきている可能性はゼロに等しい。
だってそうだろう。「馬鹿じゃないの?」だの「あんたのことなんて興味ないしなんとも思ってない」だの、一方的に無礼な言葉の数々を浴びせてきた相手に対し好印象を抱くなど、到底ありえないからだ。
もしそんな人がいるとすれば、相当なマゾヒストか、それに準ずる特殊な趣味なり境遇なりをお持ちの方だろう。
……まあ漫画や小説の中には、傲慢な性格の主人公が、肝っ玉なヒロインにひっぱたかれたことで愛に目覚める、みたいなストーリーもあるにはある。
が、今僕たちが生きているのはロマンにあふれた漫画の世界ではない――冷徹で非情な、現実の世界である。
決してそのことを忘れてはならない。
……ではその視線が、気になる異性に向ける類のものでないと仮定すれば……?
彼女は、『これからどんな仕返しをしてやろうか?』と企んでいて、ターゲットである僕に復讐を果たす機会を虎視眈々と狙っているのではないか?
そう考えると、朝のあの行動にも合点がいく。
鷺沢さん自ら僕に声をかけることで、『え!?なぜ鷺沢さんがあんなクソ根暗ぼっちに挨拶を?』という周囲からの注目を集め、今までいい具合に空気となっていた僕を、クラス内に居づらくさせようとしたのではないか。
ということは、あの笑顔や好意的な感じの振る舞いも、すべては計算し尽くされた演技ということになる。
……な、なんと恐ろしい子。
果ては放課後、友人の女子たちを引き連れた彼女に呼び出され、昨日の仕返しと言わんばかりに、有無を言わさず罵声による集団リンチを受ける…………なんていう展開になったりして……。
……ハハハ。まさかな。
生徒だけでなく、教師からの信頼も厚い彼女が、そんな非道な仕打ちを企てるワケがない。……うん、きっとそうだ。
その後は鷺沢さんから声をかけられることはなかったが、残念ながら僕の背後から向けられている謎の視線が途切れることはなかった。
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そんなこんなで、ようやく迎えた放課後。とうとう事件は起こった――
イレギュラーだらけの一日が終わり、やっと帰れるという開放感に浸りながら下駄箱の扉を開けると、靴の上に薄いピンクの封筒が置かれていた。
これまでの流れからして非常にまずい予感に背筋を凍りつかせつつ、中を確認する。
そこには、見覚えのある丸みを帯びた女の子らしい字で、こう綴られていた。
『奥村真一くん あなたにどうしても伝えたいことがあります。放課後、昨日のあの場所にお越しください。突然の呼び出しでごめんなさい。 鷺沢麗奈 』
……………………。
……これ、行かなきゃダメかな?
『用事があるから』ってことで帰っちゃていいかな?
…………はい。 そうですよね。……ぼっちで帰宅部の僕が用事だなんて、ちゃんちゃらおかしいですね……。 逃げて帰ったってバレバレですよね。 …………ハア。
ため息をついたのち、仕方なく下駄箱から踵を返し、重い足取りで昨日のあの場所――屋上の扉前のあのスペースに向かう。
その道中、もはや僕は意図的に一切の思考を放棄し、完全な無の境地に至っていた。
これから起こることをあれこれ予想したり、悩んだりしたところで何も意味がない。
いくら案じたところで、未来は変えられないのだから。
それならいっそ、全てを諦めて何も考えない方がマシだ。
そして、階段をのぼり、例のスペースに到着すると、そこにはどこか緊張しているような面持ちの鷺沢さんが立っていた。
少し意外だった。
てっきり僕を呼びつけ、友人たちと一緒になって一斉に罵倒してくるのだろうと思っていたから。
とはいえ、彼女一人だからといって、安心できるという保証はない。
昨日の一件で、僕が彼女から恨みを買っているのは確実なのだから。
「……あ。来てくれてありがとう。奥村くん。……その、時間とか……大丈夫ですか?」
「あ、うん。大丈夫だよ。……それで、話っていうのは?」
前置きは不要だ。
僕としては、一秒でも早くこの状況から解放されたいのだ。
「……は、はい。……えっと、本当に突然なことで申し訳ないのですけれど……どうしてもあなたに伝えたくて……」
「……うん」
「その……、びっくりすると思うんですけど……、どうかお気を悪くしないでください」
「…………わかった」
鷺沢さんは何やらそわそわと落ち着かない様子だが、もはやそんなことはどうでもいい。
無心だ。 これからどんな恐ろしい言葉が待っていようと、僕は虚無の精神を以て受け流すのだ。
彼女は、すうーっと深呼吸をすると、それから覚悟を決めたような真剣な表情で僕の目を捉え、ゆっくりと口を開く。
そして次の瞬間、彼女の口から放たれた言葉は――――
「――どうか私と、交際を前提にお友達になってください!!」