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「フィー」

 昼の休憩が終わるまで、まだ半分以上の時間がある。

 視線から逃れるように図書館で過ごそうとそちらに足を向けていたマリーフェザーは、懐かしい声に、ふと足を止めた。

 ゆっくりと振り返れば、そこに幼馴染の姿があった。

 目元の黒子と、胸元が開かれたシャツが、色気を醸し出す。どこか軽薄さの漂う彼が、実は真面目なことはマリーフェザーがだれよりも知っていた。

「アーヴァント様……お久しぶりですわね」

 五年前の事件をきっかけに、オリフィスとともに離れていってしまった人。

 髪色が似ているから親近感を持ち、オリフィスと一緒に仲良く過ごしていたけれど、そう思っていたのは自分だけだったと気づいたあのとき。

 彼は、オリフィスのそばにマリーフェザーがいたから付き合っていたに過ぎないのだ。

「久しぶりーって、そうじゃなくて! フィーは、もっと、相手を求めないと。あれでは、誤解されるよ」

 周囲に視線を走らせ、人気がないことを確認したアーヴァントは、困ったように笑った。

(懐かしい……。いつも、彼は、こういう顔をしていたわ)

 彼は、絶対にマリーフェザーを叱らない。

 ただ困ったように笑うだけだ。

 それを優しさと受け取っていたが、違うのだとわかったのは、ティアのおかげだ。

 だれにでも一線を引いたように接する彼が、唯一、感情をあらわにするのはティアだけ。

 ティアが過ちを犯せば叱りつけ、おかしければ表情豊かに笑い、ティアがほかの人と喋っていれば、辛そうに眉を寄せる。

 女性にはだれにも優しいと思われがちだが、実は、興味が無いだけなのだ。そんな彼が唯一執着しているのがティアだけだった。

「求めて、どうなるのですの?」

「どうなる……って……」

「私の気持ちは変わりませんわ。けれど、オーリー様の意思を尊重いたします。どのような運命が待ち受けていようと、覚悟はできていますわ」

 新しい妖精姫の訪れを心の何処かで待ち望んでいたのかもしれない。

 自分ではもう彼の横に立てなくなってしまったと悟ったあのときから、ずっと考えていたことだ。

(この顔では、オーリー様の妖精姫には永遠に戻れませんもの……)

 ツキンッと、胸に痛みが走る。

 本当は、傍にいたかった。

 オリフィスの唯一でいたかったのに……。

「フィーはもっと貪欲になりな」

 気が沈むマリーフェザーに気づいてか、アーヴァントが眉を寄せた。

 忠告、なのだろうか。

 あまりに遅すぎる後押しに、マリーフェザーは、口の端をゆるりと持ち上げた。

「オーリー様が私の元へ戻れば、ティアさんの隣は空いていますものね」

「あっ、あれは……そういうんじゃなくてさ」

「いいのですわ。アーヴァント様もオーリー様に遠慮せずに自分の気持をもっと伝えるべきです。ティアさんを射止めるのは、そう容易くありませんわよ」

「あのね、フィー。誤解しているかもしれないけど、俺の守るべきものは昔も今も変わらないよ」

 困ったように笑ったアーヴァントは、続けて言った。

「その相手のためだったらなんでもできるんだよ」

 マリーフェザーは理解できないとばかりに小首を傾げた。

「オーリー様に縛られていては、好いた女性を手に入れることはできませんわよ」

「俺の小さな天使がいつの間にか言うようになったね! でも、いいの。俺は尽くすよりも尽くされるほうが好きだからねって…そういう話をしたいんじゃなくて……ああ、もぅ、うまくいかないな。確かに傷つけたのはわかっているけど、俺はフィーの兄様を降りたつもりはないんだからね」

 そう言って、胸元にかかる朱色の綾をぴんと弾いた。緩く巻かれた青みがかった銀髪の中に、色あせた綾は不釣り合いに見えた。

「まだ、身につけてくださっていたのですね……」

「当たり前でしょ。初めての贈り物だからね」

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑る彼の顔が、幼い頃の笑顔と重なった。


『アーヴィにいたま!』

 一歳上のアーヴァントは、みんなの兄的存在だった。

 だれよりも賢くて、

 だれよりも優しくて、

 だれよりも強かった人。

『フィーが、アーヴィにいたまのためにつくったのです』

 宰相の息子として、また、将来王太子を支える一人として、厳しく父親から躾けられていたアーヴァントは、いつの頃からか、感情はすべて笑顔の下に隠すようになっていた。

 感情をすべて理性の下に押し殺してしまう彼がいつも心配だった。

『僕が死んでも、便利な駒がいなくなったくらいにしか思われないだろうな』

 盛大に催された誕生日会で、媚びへつらう大人たちの相手に疲れただろう彼がぽつりと零した言葉は、今でも忘れていない。

『そんなことないです! フィーは……ううん、オーリーさまだって……ほかのみんなだって、かなしいのですわ。だって、にいたまは、ひとりしかいないのよ。フィーは、とってもかなしい。だから、しんじゃやなのです』

 そう言って号泣するマリーフェザーに、慌てて慰めるアーヴァント。

 マリーフェザーを泣かしたと叱るオリフィス……困惑する大人たち。

 せっかくの誕生会を台無しにしてしまったから、後日、一生懸命作った綾を贈ったのだ。

 生地こそ上等だが、とても上手とはいえないそれをアーヴァントは喜んで受け取ってくれた。それからだっただろうか。彼が髪を伸ばすようになったのは。


「フィー。今は俺も側にいることはできないけど、お前を泣かせるつもりはないんだからね。殿下も考えあってのことだから……早まって、変な虫に引っかからないこと。いいね?」

「……友人と語らうことに干渉されるのでしょうか? オーリー様は好きになさっていても許されるのに、私は駄目なのですか?」

「フィー……」

 癇癪を起こす子供を諭すように呟かれた。

「私には、この学園の在り方も、アーヴァント様たちの考えも理解できませんわ」

「相変わらず、貴族らしくない子だね」

「ええ……そうかもしれませんわね」

 公爵家に生を受けながら、選民意識など持ち合わせていなかった。

 ただ貴族に生まれただけで、市井の子供と変わりはないと思っている。

 きっとこの考え方は、異質だろう。

 大人たちの中には、苦言を呈する者も多くいた。

「でも、だからこそ見えるものもありましてよ」

「! うん……そうだね、だからこそ俺は……」

 救われた、という言葉はマリーフェザーの耳には届かなかった。

 どこか眩しげにマリーフェザーを見やったアーヴァントは、ぎゅっと拳を握りしめたのだった。


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