sideとある侍女
「女のお前に何が出来るっ」
彼女が鮮明に覚えてるのは、呪詛のように吐き捨てられたその言葉だった。
それは、彼女が「お嬢様の盾と剣になりたい!」と言ったのが始まりだ。
「馬鹿者ッ」
「……ッ」
カッと血の気を頭に登らせた父親は、まだ十歳にもならない娘の頬を拳で殴りつけた。
栄養の摂れていない軽い体は、木の葉のように軽々と吹き飛び、壁に激突した。
「…ぅっ…く…っ」
息が止まった。
とっさに体を丸めて衝撃を和らげたが、全身を粉砕されたかのような痛みに、呻くことしかできなかった。
無様に床に這う娘の髪の毛を片手で掴み上げた父親は、容赦ない言葉を浴びせた。
「いいか、お前は決してお嬢様の前に姿を見せるなっ! 女ごときの身で、あの尊きお方の御前に侍ることができると、二度と思うなっ。お前は空気のように野垂れ死ねばいいっ」
それは、紛れもない憎悪だった。
彼女が女であるが故に、この世に生を受けた瞬間から、父親から憎まれる存在となったのだ。
「お前が……っ、お前が男子であったならばっ! 奴のところから選出しなかったものを!」
「貴方、それ以上は……っ」
反対の手でさらなる拳を落とそうとした瞬間、阻む存在が割って入ってきた。
騒ぎを聞きつけたのか、息を切らして駆け寄ってきた母親は、涙を流しながら、申し訳ありませんと、謝罪した。
「この子の罪は、わたくしの罪。どうか、わたくしにも相応の罰をお与えください」
必死の様子に興が削がれたのか、父親は娘の髪を乱暴に離すと、そのまま屋敷をあとにした。
「ごめんね、ごめんなさいね……」
使用人から冷水に浸した布を預かった母親は、赤黒く腫れ上がった娘の顔にそっと押し当てた。
「わたくしが男子に産んでいれば、このような目に遭わさなかったというのに……」
「は、は…うえ……」
「しっ、黙って。今日は熱が出るわ。薬を用意しないと」
けれど娘は言葉を止めなかった。
口に溜まった血をぺっと床に吐き出した娘は、痛みに顔をしかめながらも、双眸に闘志をみなぎらせていた。
「わたしは……っ、あきらめないっ」
「……あの人の血を引いているわね」
涙を止めた母親は、苦く笑ったけれど、咎めようとはしなかった。
「だれよりも、強くお成りなさい。お嬢様がお産まれになったのは僥倖。機会を待ちなさい。さすれば、貴女の望みはいつかは叶うでしょう。女も必要なのだと、思い知らせてやりなさい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そう、母の言葉はまさに本当になった。
「お嬢様……」
仮面にかかる柔らかな髪の毛をそっと払い除けたミーファは、心を落ち着かせて眠りについた主人をじっと目に焼き付けた。
彼女が、ミーファの生きる希望。
いや、生きる意味なのだ。
彼女がいなければミーファは今でも屋敷に閉じ込められていただろう。
「お嬢様のお心を惑わすものをすべて排除出来たらいいのに……」
どのような理由があれ、お嬢様を悲しませるならば、あの王子など死ねばいい。
この手で排除するには少し骨は折れるかもしれないが、やれないことはない。
けれど、そんなことをすれば、ミーファの大切な大切な主人が悲しむのはわかっているから手は出せないのだ。
ふっと、新しい気配を感じたミーファは、静かに主人の部屋を後にすると、隣室へ向かった。
「おっと、いつもながら手荒いな」
扉を開けたと同時に、隠し持っていた短剣を数本投げつけたが、彼は優雅に掴むと、傍の机の上に置いた。
「何用ですか、兄上」
ミーファの兄にして、次期ファンファール家の当主である。
「先の件だけど、ご当主様からは問題なし、と判断された」
それは、お嬢様の新しく御学友となられた者たちの身辺調査結果だった。
ばさりと詳細を記した羊皮紙を置いた彼は、やれやれと肩をすくめた。
「いつみてもこの部屋はすごいな。お嬢様に見られないようにな。引かれるぞ」
壁いっぱいにマリーフェザーの幼少期の頃よりの肖像画が飾られていた。
これもすべてお嬢様愛故なのだが、兄はわからないらしい。
「兄上は、主君に対する愛が足りません」
「いや……俺が同じことやってたら、気持ち悪いでしょ……」
兄のソシリアは、マリーフェザーの兄にお仕えしている。
ヴォールト公爵家の暗部を担うのが、ファンファール家一族である。表向きは公爵家に使える騎士として名高いが、それは分家の話である。本家は、公爵家を影ながら守り、敵対する者は容赦なく切り捨てるのが役目だ。
「父上は、やっています」
当主である父は、それはそれは主君一族に対する愛が深い。
息子や娘よりも若君とマリーフェザー様を愛しているし、屋敷には家族の肖像画は一枚もないのに、ヴォールト一族の肖像画は所狭しと飾らせている。
もはや、これは血がなせる技だろう。
「なにより、お嬢様は可愛いですわ。見ても、触れても、癒やされますし、ときめきます。それのなにがいけないのです? 大体、父上もお年のせいか甘くなられましたわね。あんな女など、消し去ってしまえばよいものを」
ギリッと奥歯を噛みしめると、兄がすっと目を細めた。
「接触は?」
「ありましたわ」
『うわっ、でたー! なんでこんなところにいるの!?』
男は眦を落とすと評判の小娘のかましい声を思い出したミーファは、眉をひそめた。
それは、いつものようにマリーフェザー様をお迎えに行く途中のことであった。
見目麗しい男を侍らせていた小娘は、ミーファを見るとすっ飛んできたのだ。
『ねぇ、わたしの剣と盾になってよ。あなたの夢でしょ? わたしがあなたに名前を与えてあげる。だって、女だからって、惨めな人生を歩むことはないでしょ。わたしがあなたを解放してあげる!』
はっきり言って、意味不明だった。
自信満々に言い切った小娘は、どこかワクワクしたように目を輝かせてこちらを窺っていた。
話すのも煩わしかったミーファは、そのまま立ち去ろうとしたが、小娘にまとわりついていた男たちが険を宿した。
『使用人のくせに生意気な!』
『待て、どこかで見たことがあるかと思ったら、ヴォールト家のか』
『はっ、主人に似て、愛想がないな!』
『ぷっ、それは言ったら駄目だろ。仮にも、王太子殿下の婚約者殿だぞ』
『婚約が白紙に戻されるのも時間の問題だともっぱらの噂だぞ』
くすくすと嘲り笑う彼らに、ミーファは殺気を飛ばした。
殺してやるっ。
とたん、蒼白になった彼らは、声を失ったかのようにハクハクと口を動かした。大量の冷や汗が頬を伝っても、ミーファは圧をかけるのは止めなかった。
むしろ、なぜ止める?
この虫けら共は、大切なお嬢様を愚弄したのだ。死んで当然であるが、ここで殺すのはまずいということくらいの理性は残っていた。
『きゃっ、汚い!』
彼らは泡を吹いて失禁していた。
小娘は彼らから距離をとってそれとなくミーファの手に掴まろうとしたが、ミーファはさっと避けた。
倒れている彼らに気づいて人が寄ってくる。
チッと舌打ちしたミーファは、もっと苦しめたかったと思いながらも、その場を後にした。
それからというもの、小娘はマリーフェザー様がいないときにミーファに会うと、決まって自分を主人とするよう誘ってきたが、ミーファは一切無視した。
『なんでわたしのモノにならないのよっ』
そう叫んで地団駄を踏んでいたが、マリーフェザー様命のミーファにはどうでもいい話だ。
だって、ミーファにはすでに名があるのだから。
マリーフェザー様がつけてくださった大切な名が……。
『なまえがない、の……? じゃあ、フィーがつけてあげるのよ』
それはまだマリーフェザー様が五歳の頃。
ミーファはどうしてもマリーフェザーの影になりたくて、そっと見ていたときがあった。
愛されているからこそキラキラしていて、真綿に包まれたような愛らしい彼女は、女だからと見放されていたミーファにとって憧れでもあり、決して手に入らない存在でもあった。
そんなとき、マリーフェザー様につけられていた護衛が、何者かの気配を察して離れてしまったときがあった。マリーフェザー様につけられていた影もいなくなったことに、ミーファは舌打ちした。影は、どんなことがあっても離れてはならない。
けれど、分家である従兄弟は、まだ影の仕事に慣れていなかったのだ。表として行動した結果、彼女の周りにはか弱い侍女が残った。
安全な庭園での突然起こったことにうろたえる侍女たちのスキを突くように一陣の風が起こった。
ミーファはとっさに動いていた。
幼いマリーフェザー様の前に出ると、隠していた短剣を侵入者に投げつけた。けれど、すぐに短剣は弾かれた。
襲いかかる刃からマリーフェザー様を身を挺して守ろうと覆いかぶさった次の瞬間、
『姫君、ご無事ですか?』
父が来た。
異変に気づいたのだろう。息を切らせず、すっと現れた父親は、ミーファには見せないような優しい声と顔でマリーフェザー様に声をかけた。
侵入者は父によって消されたらしい。
すでに別の者が、マリーフェザー様に気取られぬよう遺体を回収していた。
『あのね、この子がまもってくれたから、だいじょうぶなのです』
キラキラと輝くような目でマリーフェザー様が言った。
『ありがとう……ええと、あなたのおなまえは?』
『……』
せっかくマリーフェザー様が話しかけてくださっているというのに、ミーファには返答することができなかった。
悲しげに瞳を揺らすミーファに何を思ったのか、父が言った。
『姫君、残念ながらこの娘には名がないのです。もしよろしければ、姫君がつけてくださいませんか?』
『なまえがない、の……? じゃあ、フィーがつけてあげるのよ』
それはとてつもない幸運だった。
女だからという理由で存在を否定されたミーファは、生まれたときより名がなかったのだ。
けれど、名が与えられるということは、人として認められる、ということだ。
そして、『ミルファ』という名が与えられた。
その瞬間から、マリーフェザー様はただの憧れの存在ではなく、この世で唯一無二の主君となった。
たとえ本人にその意図がないとしても、ミーファはマリーフェザーの盾と剣になる未来が決定したのだ。
『これも運命。姫君に見出されたのならば、それに従うまで』
父はそう言うと、影としての訓練をミーファに行った。
認められた。
そう、父に認められたのだ。
それは、歓喜だった。
母も涙を流して喜んでくれた。
そして――
あの悲劇が起こった。
影としてまだ認められず傍にいることが叶わなかったミーファは、どれほど己を恨んだだろう。
もっと早く影として一人前になっていたのならば、あんな目には遭わせなかったというのに。
けれど、そのお陰でこうして日の当たる傍でお仕えすることとなったのも事実。
影と表の二つで支えるのがミーファの使命。
侍女として傍に居られることの幸せは、決して影では味わえなかっただろう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「わかった、報告はするが、勝手に動くなよ?」
ミーファから話を聞き終わった兄は、そう念を押した。
「……」
「ミルファ」
「……はい」
マリーフェザー様からいただいた名前で呼ばれれば、返事をしないわけにはいかない。
マリーフェザー様はきっと覚えていないけれど、すべてはあの出来事がミーファの運命を変えたのだ。
「……ところで、父上がアレを所望だ」
こほんっと咳払いをした兄は、なにやらソワソワした様子で部屋を見回した。
気持ち悪い、という言葉は飲み込んで、ミーファは大切に閉まって置いた箱の中から数枚の紙を取り出した。
受け取った兄は、中を確認すると、相好を崩した。
「腕を上げたな」
「……」
「そう膨れるな。お前は毎日でもご尊顔を拝見できるが、俺達はそうもいかない。こうして陰ながら触れ合う幸せを許してくれてもいいだろう」
そこに描かれているのは、マリーフェザー様の姿だ。
すべてミーファの手製である。
マリーフェザー様のすべてを残しておきたくて、自分で描いていたのをうっかり兄に見つかり、それが父に知れてしまった。
そこから公爵家にも伝わってしまい……以来、定期的にミーファのお宝が彼らの手に渡っていくのである。
影からしか見守れない苦しさはわかっているが、やはり、取られるのは悔しい。
兄が去ったあと、ミーファはため息を飲み込んだ。
よしっと気合をいれ、今日も今日とて、マリーフェザー様の『今』のお美しさを後世に残すべくペンを手に取るのだった。
マリーフェザーのためならば、国を滅ぼすこともためらわないのがミーファです。




