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「アリエッティのことを少しでもお思いになるなら、二人きりで過ごす時間も必要ではありませんか?」
「君は、頭が固いね」
「な……っ」
夕餉まで部屋で過ごすのももったいなく感じ、学園の裏にある森林をゆっくりと歩いていたマリーフェザーは、穏やかではない声に、すっと足を止めた。
「お嬢様」
「……」
守るように一歩前に出ようとした侍女を片手で制したマリーフェザーは、ゆるりと首を振った。
「あの子が毎日泣き伏しているのをあなたは知らないから、そんなに冷たい言葉を吐けるんですわ」
「何を思い違いしているのかは知らないが、たかだか親が決めた婚約。俺はだれかと違って、その婚約を無効にするつもりはないが、俺の交友関係を詮索し、咎められるのは迷惑だと伝えておいてくれ」
「なぜ、わたくしが? あなたがご自分でおっしゃればよろしいでしょ」
「これでも忙しい身でね。アリエッティ嬢のご友人であられる君にわざわざ時間を割いたんだ。感謝してほしいね」
「それは、わたくしが侯爵家の娘だからでしょ」
「そして、我が友人の婚約者でもあられる。小さな宮廷とはよく言ったものだ。階級にしばられたこの学園では、自由もままならず、息が詰まる」
「だから……だから、あんな男爵令嬢に……っ」
「おっと、癇癪はそこまでに。殿下の妖精姫を悪し様に言うのなら、俺も容赦はしない」
一触即発な雰囲気に、さすがによくないと感じたマリーフェザーは、声を上げた。
「まぁ、なんてきれいな花でしょう。あちらにも咲いているわ」
人に見られたらまずいと感じたのか、舌打ちをした少年は、足早に去っていった。
「大丈夫ですの?」
「あ、あなたは……っ」
ひょっこりと木の陰から半身を覗かせたマリーフェザーは、はしたなくもへたり込む令嬢に近寄った。
栗色の柔らかそうな髪に、榛色の丸い目は、どこか小動物を連想させた。とても、男相手に啖呵を切っていたとは思えない。
「ご友人のためとはいえ、人気のない場で、供も付けず、異性と二人きりというのは、あまり感心できませんわね」
「……っ。わかっています。けれど、日に日に憔悴する彼女をもう見ていられなくてっ」
丸い目がみるみる潤み、大粒の涙が頬を伝った。
「お優しいのですわね」
「ちがっ」
あまりに哀れな様子に、マリーフェザーはハンカチをそっと目尻に押し当てた。
すると、ますます涙が溢れ出て、止まらなくなった。
仕方なく、心を落ち着かせるように背を撫でた。びくりと大きく震える体に気づかないフリをして。
「わた…わたくし、醜いのですっ」
「……」
苦味を絞り出すような声は、懺悔するかのようでもあった。
マリーフェザーは、咎める侍女の視線を無視して、彼女の横に腰を落とし、聞く体勢をとった。
「本当は、アリエッティのことなんでどうでもいいのかもしれません。ただ、彼女が、未来のわたくしのように見えて……わたくしも彼女のようになってしまったら…そう考えるととても恐ろしくて……。わたくしも、彼を批判できません。自分勝手な想いを押し付けてしまいました。でも、カーティス様がわたくしから離れていくのはどうしても嫌なのですっ!」
ハンカチに顔を埋める彼女のふわふわの髪をそっと撫でた。
「その殿方のことを愛しておられるのですね」
「はい…とても。政略結婚には愛がないと皆様おっしゃいますが、わたくしとカーティス様には愛があります。お互い想い合って…支え合おうと誓ったのです。でも、あの女が現れてから、わたくしは毎日不安で…っ。心変わりをされたらどうしよう…愛想を尽かされたらどうしようって、そればかり……」
「貴女はとても魅力的ですわ。もっと自信を持ったらよろしいのです。それに、愛する方がいるのなら、だれしも不安になるものですわ」
「!」
そこでようやく無作法を思い出したのか、メソメソと泣いて嘆いていた令嬢の顔から血の気が引いていく。
「も、申し訳ございませんっ。わ、わたくし、ご挨拶もせずに! も、申し遅れましたが、わたくし、ベェルート侯爵の末娘、メルザでございます」
「学園は身分関係なく、みな平等に学ぶべき場所、と私は思いますの。堅苦しいのは、公の場だけでよろしいですわね」
口元に笑みを乗せると、メルザが驚いたように目を見開いた。
「ふふ。あら、この考え方は少数かしら。けれどここは、学びの場。そして私達は、まだ十五歳。一人前に認められるまで、二年もありましてよ。大人の仲間入りをするには、まだよろしいと思いますの」
「あの……このようなことを申し上げるのは、とても失礼かと存じますが……」
「あら、今更ではなくて?」
くすくすと笑うと、己の失態を思い出したのか、メルザの頬がかぁっと赤くなった。
「貴女が驚くのも無理ないですわ。こうやってお話をする機会もありませんでしたもの。私の声を聞いてくださる方なんて、いらっしゃらないわ」
ほんの少し寂しさを声に乗せると、メルザの顔も曇った。
マリーフェザーの立場をよく理解しているのだろう。
「あの…」
続く言葉を惑うようにまだ潤んだ瞳が揺れた。
そこで、自己紹介をしていないことに気づいたマリーフェザーは、
「マリーフェザー・トゥオルク・ザ・ヴォールトでございます。どうぞ、フィーと呼んでくださいな」
「そ、そんな、恐れ多いっ」
「せっかく知り合えたのもなにかの縁ですもの。ああ、けれど、無理にとは言いませんわ。近寄りがたい容貌なのは理解していてよ」
「なぜ、仮面を外さないのですか? その仮面がなければ、貴女様の周囲には、人で溢れていたはずです」
「そう……そうね……どうかしら。貴女もきっとご存知でしょう。私の顔には、醜い傷があるのですわ」
五年前……あそこから、マリーフェザーの生活は一変してしまった。
けれどそれを嘆いたことはない。
マリーフェザーにとって、五年前のあの事件は必然だったのだから。
そっと仮面に触れる。
仮面舞踏会に使われるような華も、品も、ない。
見たものの心を逆なでするデザインだ。
ある者は、気味が悪いといい、ある者は、死者の面だという。
見る人によって色を変える仮面は、相手の恐怖心を引き出すかのようだった。
せめて普通の仮面だったのなら、マリーフェザーは孤独を味わうこともなかっただろう。
傷を晒していたほうがましだったかもしれない。
けれど、この仮面を手放すことはできないのだ。
(だって、約束ですもの)
大切なあの方との大切な約束。
たとえあの方が忘れてしまっても、自分だけは覚えている。
たとえあの方の目に映らなくても、自分だけは守る。
それが今のマリーフェザーにできる唯一のことだから。
「傷のある王妃なんて、だれが支持するのかしらね」
それはふっと突いて出た言葉だったが、なぜかメルザの肩が大げさに跳ねた。
きっとマリーフェザーの心情を思いやってのことだろう。
『君が君である限り、ぼくはフェザーが大好きだよ。ぼくだけの妖精姫』
ふっと、幼い頃の記憶が甦る。
オーリー……と呟いた声は、木々の葉のこすれる音に消えていった。




