小話 幼き頃 兄と妹のお出かけ ①
「……なぜ、こちらにいらっしゃるのですか?」
ひくりと口の端を引きつらせるのは、マリーフェザーの大好きなお兄様だった。
もうすぐ七歳になる彼女よりも八歳も年上の彼は、頭が痛いとばかりにこめかみを押さえていた。
「お兄様、具合が悪いのですか?」
琥珀の大きな双眸を不安そうに揺らめかせるマリーフェザーを、ハッとしたように見下ろした兄のエルヴァントは、少し屈むとぎゅーっと抱きしめた。
「ああっ。俺の天使が今日も可愛いっ」
「エルヴァント兄様は、今日も安定の変態ですね」
可愛いを連呼して、頬ずりまでしているエルヴァントの姿をどこか引いた目で見ているのは、宰相の子息であるアーヴァント・ウェルシィだった。母親の家系の色が色濃く出ているアーヴァントは、宰相の精悍な面差しには全く似ず、青銀色の髪に翡翠の双眸を持つ繊細な顔立ちをした美しい少年だった。
王太子であるオリフィスと婚約しているマリーフェザーは、政略結婚であるにも関わらず大層仲がいいのは周知の事実である。宰相子息であるアーヴァントも、将来王太子を支える存在として王太子に付き従っているから、必然とマリーフェザーとも親しくなる。
そして、マリーフェザーを溺愛するエルヴァントのこともよく知っていた。
まだ成人を迎えていないとはいえ、華やかな容姿で将来を期待させる容貌のエルヴァントは、年頃の令嬢たちの話題のもとだった。しかも、三大公爵家の一つであるヴォールト家といえば、王家とも縁が深く、娘は将来の王妃である。
エルヴァントを射止めることができればこれ以上ない良縁だろう。
ただし、当の本人は年の離れた妹が可愛くて自身の婚約には関心のない様子だった。
「エルヴァント兄様は、フェザーを離して。それは、ぼくのだよ」
むすりと整った顔を歪めて訴える王太子オリフィスを一瞥したエルヴァントは、勝ち誇ったようにそのままマリーフェザーを抱き上げた。小さな彼女を細腕に乗せると、やれやれとばかりに首を振った。
「また、抜け出してきたのですか? この国の将来を担う方が、そう頻繁に出歩くのは感心しませんね。しかも、供の姿がいつもより少ない。私達の話を聞いて、飛んできた、というところですか」
王立フェゼリア学園に通っているエルヴァントは、休みとなれば外出届を出し、マリーフェザーのいる屋敷へ帰っていた。マリーフェザーが寂しがらないようにまめに帰宅する姿に、級友たちもドン引きしていたが、エルヴァントは素知らぬ顔だ。
妹が可愛いのがしょうがない、というのがエルヴァントの弁だった。
「……フェザーが今日はエルヴァント兄様と会うのだと言っていたから、屋敷へ行ったのに不在だった。なぜ、ぼくたちに黙って出かけたの」
「エルヴァント兄様もなかなかの策士ですね。僕たちが行くのを知っていて内緒で出かけましたね」
身分は高くてもまだ子供だ。
素直に感情を吐露する彼らに、エルヴァントは微笑ましくなった。
(これも、フィーのおかげなのか?)
厳しく躾けられている彼らは、唯一、マリーフェザーがいるときは年相応の顔を見せることができるのだと、彼らに仕えている者たちから聞いていた。
「……あのね、フィーがお願いしたのですわ。だから、お兄様は悪くないのです」
険悪な雰囲気を察してか、おろおろと二人と兄の顔を交互に見ていたマリーフェザーが、ぎゅむっとエルヴァントに抱きつきながら、庇う発言をした。
蜜を溶かした甘い色の双眸から今にも雫がこぼれ落ちそうだった。
「フィーが、わがままを言ったから……」
堪えられずあふれた雫が、まろやかな白い頬を伝って落ちた。
妖精姫と密やかに呼ばれるマリーフェザーは、幼くてもその容姿は国随一の美姫として名高かった。さぞや将来は、妖精姫の名に相応しい美しい令嬢に成長するだろうと期待させる美貌の持ち主だが、今は保護欲そそられる可憐な少女だ。
マリーフェザーに好意を抱く二人は、守りたいと願う者の綺麗な涙に動揺していた。
「よしよし。フィーはなぁんにも悪くないよ」
「にぃ、さま……」
指先で雫を拭ったエルヴァントは、あやすように額に口づけた。
(まったく、まだまだお子様だな、二人とも)
紳士たる者、乙女の涙に言葉を失うなど言語道断である。
「さて、このまま私はフィーと用事を済ませますから、お二人は私たちの屋敷で大人しくお待ちくださいね」
「な……っ」
我に返ったオリフィスが抗議の声をあげようしたが、そのよりも先にエルヴァントが言葉を封じた。
「フィーもそれでいいね?」
こくん、と小さく頷くマリーフェザーに、オリフィスも何も言えなくなってしまったようだった。
渋々と同意するオリフィスに、丸め込まれた、と言いたげなアーヴァントも追随した。仲間の中では兄的存在のアーヴァントだったが、年の離れたエルヴァントには口で勝てないことを知っているのだろう。
なにより、急に泣き出したマリーフェザーに対して何も声を掛けることができなかったのが悔しかったようで、ぎゅっと爪が手のひらに食い込むほどきつく握られていた。
「……申し訳ありません」
二人の後ろに控えていた青年が自分よりもずっと年下であるエルヴァントに深々と頭を下げて謝罪した。彼は、オリフィス付きの者だ。護衛騎士も、彼にならうように頭を下げた。
ただ事でない様子に、すれ違う平民がちらっと視線を投げてくるが、頭をあげた護衛騎士が睨みを利かせるとすぐに顔を背けて足早に去っていった。
変装をしていることもあり、ここにいるのがこの国で最も尊ばれる血筋の者たちだということに気づかないのが幸いだ。
「まぁ、子守は大変だ。――でも、時には体を張ってでも止めるのが君たちの仕事だ。……そうだね?」
エルヴァントが双眸を眇めると、青年の顔からすっと血の気が引いた。
「何かが遭ってからでは遅いんだ。今が平穏だと誰が言った? いつの時代にも安穏としたときはないんだよ。君たちは、そのことを知っているはずでは?」
「……っ」
鋭い指摘に言い返す言葉もないようだった。
王家を支える三大公爵家の跡取りとして名に恥じぬ教育を受けているエルヴァントは、暗に怠慢だと糾弾した。
いくら尊い存在であろうと、王太子に遠慮していれば、王太子は好き放題する暗君に育つだろう。それを諌めるのは周囲の役割だ。いくら子供とはいえ、言い負かされてはいけない。エルヴァントのように、使えるものは使って、反論できないように上手く誘導すればいいだけの話だ。
それもできないのに王太子の周囲をウロウロしているなんて、――笑わせる。
(父か宰相殿に伝えておこう)
これは、義心からではない。
すべては可愛い可愛い可愛すぎる妹のためだ。
オリフィスを正しく導くことは、マリーフェザーの身の安全にも繋がっていくのだから。
(いっそう、次期王として相応しくないと判明すれば、婚約が白紙になって良いのかもしれないな)
けれどすぐに悲しい顔をするマリーフェザーの姿が思い浮かんで、却下と切り捨てるのだ。
エルヴァントにとって年の離れた妹がすべてである。
跡取りにも恵まれ、次の子には興味のなかった両親に代わり面倒を見てきたのはエルヴァントである。それこそ目に入れても痛くないほど可愛がっていた。
今でこそ両親も「女の子も可愛いわ」とマリーフェザーに愛情を注いでいるが、「ととさま、かかさま」と目いっぱい両手を広げて駆け寄っても、冷たく見下されるままのマリーフェザーの姿が思い出される度、怒りが湧いてくるのだ。
「にぃさま……?」
こてんと不思議そうに首を傾げるマリーフェザー。
話を聞かせぬよう抱き込むようにして彼女の耳を塞いでいたエルヴァントは、手を緩めると、甘い笑みを浮かべた。
「さ、行こうか」
話が長くなりそうなので分けます。
妹を溺愛する兄です。
マリーフェザーを取り合う仲ですが、オリフィスもアーヴァントもエルヴァントを尊敬していて、大好きです。




