松賀騒動異聞 第十三章
第十三章
正元は捕えられてから、八か月後に牢内で病死したと云われている。治逆記という史料に依れば手厚い看護を受けたように書かれているが、実際はどうであったろうか。養子の伊織は牢内で五年ほど生きた上でやはり病死した。これも、実際はどうであったろうか。
新たな史料が発見されない以上は、歴史は黙して語らない。
私は、薄暗い牢内で座して沈思黙考しながら、父の族之助に詫びる正元の姿を思い浮かべる。
わたくしはもう少し早く退隠し、稠次にも家老職を継がさせるべきではございませんでした。義孝様から言われていたように、引き際を綺麗に退隠し、家族共々、磐城の地のどこかで静かに暮らすべきでございました。父上が築きあげた松賀の家を断絶させたわたくしをお許し下さい。正元もただの親でございました。児孫に美田を残し、且つ藩要職という地位を残そうとした心に迷いがございました。
稠次共々、退隠し、世間から遠ざかるべきでござりましたなあ。
私は松賀騒動での黒幕は誰であったのか、考えていた。
義英がクーデター全てのシナリオを書いたわけではないだろう、と思った。
手際が良過ぎる、その手際の良さは殿様芸とは到底思えない。
誰か、シナリオライターが居て、その人物がシナリオを書き、周到なお膳立てをした上で義英とか内藤治部左衛門といった重臣に表舞台で華やかに動いて踊って貰う。
一体、誰だろうと思い、松賀騒動後の藩史料をチェックしてみた。
一人、居た。
騒動後、実に目覚ましい出世を遂げている人物が居たのであった。
三河以来を誇るような門閥家臣では無いが、二百石取りの平士から組頭まで破格の出世を遂げた人物が居た。
今西弥五左衛門という者であった。
内藤侯平藩史料からこの人物に関する記述をピックアップすると以下になる。
初代藩主・政長時の家臣録で今西姓の家臣は居ない。
二代藩主・忠興時の家臣録で今西弥次兵衛・三百石という名前がある。
三代藩主・義概時、松賀菊之助組に今西弥五左衛門・二百石という名前がある。
① 貞享三年(一六八六年)二月、義概の形見分けが行われ、今西も拝領した。
② 元禄九年(一六九六年)四月、弓の御前的で六射中五本当たりということで金百疋の御褒美を戴く
③ 宝永三年(一七〇六年)八月、五十石加増で三百石となる。(加増前は二百五十石)
④ 享保二年(一七一七年)九月、年寄となる。
⑤ 享保三年(一七一八年)九月、年寄御役御免、役料召上げ、遠慮処分となる。
⑥ 享保四年(一七一九年)一月、(松賀騒動時)遠慮御免で旧職に復帰
⑦ 享保五年(一七二〇年)九月、城代・組頭格となる。
⑧ 享保六年(一七二一年)閏七月、組頭となる。
⑨ 享保十年(一七二五年)六月、本人願いにより、城代をお役御免
ここで、①から⑨までが三十九年という期間であり、①の時、二十歳代としても、城代引退時は六十歳は越えているものと思われる。
組頭となれば、最低でも七百石は与えられる。藩上層部からのよほどの引きが無ければ、この石高には普通は到達しないものだ。
年寄まで順調に出世したものの、守旧派ということで松賀・島田派から睨まれて、年寄を御役御免、役料召上げ、遠慮処分となったが、それが契機となり、松賀・島田派追い落としの急先鋒になったのではないか、それとも、もともとアンチ・松賀・島田派の急進的存在であったのかと私は思った。
松賀騒動が落着した後の目覚ましい出世が目に付く。
但し、この松賀騒動後三十年ほどして内藤藩が延岡転封となり、延岡藩としての藩士録ではこの今西弥五左衛門は御取次として元の二百五十石に戻っている。
松賀騒動時の弥五左衛門は死去し、子孫がこの名前を襲名したものと思われる。
年寄、城代、組頭といった役は原則として一代限りの地位であったのかも知れない。
「確かに、小泉さんが書かれているように、族之助の妻の妹、お熊という女性の存在が
気になりますね。謎の女性ですね。族之助の妻と同じ百五十石という知行を貰っている女性で、一瞬何者、という感じになります。専称寺には、松賀族之助夫妻の木像と義概側室像も残されているそうですから、この義概側室が或いは族之助妻の妹、お熊である可能性も考えられるところですね。実妹か、仮の妹かは別にしても。実は、当初僕は族之助の妻は義概から戴いた拝領妻ではなかったかと思っていました。妊娠に気付かず、族之助の妻となってから、妊娠に気付き、やがて子供が生まれ、その子が大蔵となった。族之助の妻が側室となるよりも、義概の側室が族之助の妻になる方が分かり易い話ですよ。拝領妻自体は当時、結構あったという話を昔読んだ記憶があります。義概の側室であったが、義概が京都の公卿、三条左大臣の娘を後室として迎える際、その娘に遠慮して、側室を族之助の妻として与え、何かと族之助の屋敷に遊びに行き、族之助の妻、昔の側室を交え、酒宴を催す、いかにもありそうな話と思いますけどね。何も事情を知らない世間は、族之助は殿様の機嫌を取るために、自分の美貌の妻に酒宴の相手をさせ、且つ殿様に夜伽として提供した、とスキャンダラスな噂を流したということは考えられないでしょうかねえ。義概が三条左大臣実秀卿の娘を継室に迎えたのが寛文元年で、大蔵が生まれたのが寛文三年、三条氏が初めての子・義孝を生んだのが寛文九年ということで何となく辻褄は合います。族之助の実子、伊織、後の正元も義孝と同じ年に生まれています。正元の母は大蔵の母、かつての義概の側室であれば、何となく、ときめきを感じますけど」
私の話に小泉さんがニヤリと笑った。
男女の間の葛藤と愛情の機微が感じられる話となりますな、と言い、その後で、島田理助、と呟きながら小泉さんは話を切り出した。
「この松賀治逆記で潔くかっこ良かったのは島田理助ですね。藩政改革の中途での挫折、さぞかし、無念であったでしょうが、こうなった以上はこれも運命か、とばかりあっさり生への執着を捨てるなんざ、並みの男には出来ぬ相談ですよ。例えは変ですが、私は島田理助に新撰組の近藤勇と同じ匂いを感じますね。いろいろと間違い、失敗はあったものの、人生の最期における見事さは素晴らしいものだと思います。男はすべからくこうありたいものですが、さあ、どうでしょうか。これほど、未練無く、自分の人生を終えることが出来るか、私はまあ無理だと自分では思っています。じたばたと生き、死にたくないと喚きながら死んでいくのも、まあそれも一つの人生でしょうか。さて、松賀家断絶の後の内藤・磐城平藩の悲しい総決算の時が来ました。元文百姓一揆の話となります」
小泉さんは大きな溜息を吐きながら、静かに話しだした。