北風と太陽~押してもダメなら引いてみよう(後編)
――木曜夕方
「今日は僕が食事当番の日だけど、どうしたの?」
「ああいや、別に大した用事じゃないんだが……」
何となく。
本当に何となくで足を運んだキッチンで食材と格闘していたのは、新妻感溢れる黒髪の美少女ではなく、身長180センチの色男だった。
「もしかして、お腹が減ってつまみ食いに来たの? 仕方ないね。はい、あーん」
渚は中途半端に皮が残ったニンジンの炒め物を、箸でつまんで俺の口へと入れてくれる。
女の子のときはともかく、男のときにこんなマネされても嬉しくも何ともない。
「もっきゅもっきゅ……ゴックン……ってそうじゃなく!」
「そうじゃなく?」
「ああ、いや。えーと、だな……」
自分でも訳の分からないうちにココへ来た、と素直に言うのが何かシャクだったので、適当な理由を考える。
「そうそう! 渚は覚えてないかもしれないけど、俺はお前に何か買ってやるって約束したんだよ」
渚が幼児退行を起こしていた時、アニメ鑑賞会での一幕だ。
色々あって我慢できなくなった俺は、一緒にアニメを見ていた渚を放り出してトイレへと駆け込んだ。
そのことに腹を立てた渚(幼女ver)を宥めるためにその場しのぎとして、このような約束を取り交わした。
「うーん、けど僕はそのことを覚えてないし、兄さんに悪いから遠慮しとくよ」
「ま、待て待て。お前は忘れていても約束は約束だ。遠慮されると逆に俺が困るんだよ」
何で俺は食い下がってるんだ?
モデルのバイトをやってて懐具合が温かい渚とは違って、俺は常に金欠にあえいでるじゃないか。
金を使わずに済むなら、それにこしたことはないはずじゃないか。
これじゃまるで、俺が物で渚の気を引きたいみたいじゃないか。
けど、その甲斐あって渚を説き伏せることには成功したようだ。
相手が女であれば身悶えるような柔和な微笑を浮かべる。
「分かったよ。じゃあせっかくだから兄さんの厚意に甘えようかな」
「んじゃ、晩飯が終わったら俺の部屋に来いよ。ネット通販でお前が欲しいものを見繕おうぜ」
途端、渚の表情が崩れた。
そして蔑み……とまでは行かないが、残念な、あるいは可哀そうな生き物を見るような目を向けてくる。
「兄さん、欲しい物を相手に選ばせる場合は一緒に街へ出かけて遊びつつ、プレゼントを買ってやるものだと思うよ」
「……その発想はなかったな」
だって俺、お前と違ってコミュ力高くないし、友達だってあんまり多くないんだよ。
誰かと連れ立って遊びに行くなんて滅多にないしさ。
「じゃあデートの日時は今週日曜日の11時半でいい?」
「え? 今なんて言った!?」
「3日後の日曜の11時半ね。土曜日は一日中アルバイトが入ってるけど、日曜日は11時には終わるから、どこかで待ち合わせして昼ご飯でも食べながら買い物しようよ」
いや、そうじゃなくて。確かにデートって言ったよな?
俺の聞き間違えじゃないよな!?
そして遠足前夜のような妙な高揚感に包まれ、一日千秋の思いで迎えた日曜日。
「ごめん兄さん、待ったよね? ちょっと撮影が長引いちゃってさ」
遠くからやって来た渚は普段の美貌に加え、余所行き用の恰好をしていることも相まって、大多数の異性の目を惹きつけている。
待ち合わせ場所の至るところから聞こえてくる女性の黄色い声。
そう、姿を見せた渚は男だったんだ。
気にするな、俺も今来たところだ……そう返そうとしたが、定番のセリフが俺の口をついて出ることは無かった。
代わりに犬歯の生えたマイマウスから出たのは、なんとも間抜けなセリフと声だ。
「え? あれ? お前デートって言って……へ?」
「別に間違ってないよね。同性同士で遊びに行くこともデートって言うし」
そうなのか。お兄ちゃんデートなんてしたことないから知らなかったよ。
はは、ははははは。
「あー、今日は楽しかったね」
「ウン、ソウダネ」
どこでどういう飯を食って、どうやって遊んで、何を買ってやったかイマイチ記憶が定かではないが、こうして俺の初デートは男……しかも弟を相手にして終わった。
「だけど兄さん、デートの相手が僕だからいいものの、女の子相手のときは気をつけた方がいいよ」
「ナニヲダ?」
「自覚ないみたいだけど、女の人、それも黒髪で長髪の人を見かける度に、ずっと目で追ってたよ」
言われてみて気づいた。たしかに俺は誰かを探し求めるように、やたらキョロキョロしていた。
探している相手は絶対見つかりっこない、という真実から目を背けながら。
「あ、そうそう! 黒髪で長髪の女性って言えば、最近お前、女の子になってないみたいだけど、何かあったのか?」
「ちょっと思うところがあってね」
話題が丁度いい方向に転がったので、疑問を尋ねたところ、返答がこれだ。
「ああ、でも調子がおかしいとかじゃないから心配しなくていいよ。女の子への変身自体は問題なくできるから」
「そうか」
それ以上追及できなかった。
だってそうだろ?
女の子にならない理由を根掘り葉掘り聞きだしたら、まるで俺が渚の女の子verに会いたいと思われるじゃないか。
「ま、まあ。俺は別にどうでもいいしぃ。お前はもともと男だから、男でいる方が自然な訳で、俺はこれっぽっちも気になってないしぃ」
「ふふっ、そうだね」
何故だろう。
渚の声色が何かを見透かしたかのようなもので、俺は得体のしれない焦燥感に駆られた。
それから数日。
相変わらず渚は飯を作る時も風呂に入るときも、俺と遊ぶときも男のままで、当然トラブる的にエッチなハプニングも起きようもない。
もしかしたら、女性体の渚なんて最初からいなかったんじゃないか、という不安を抑えるため、パソコンのDドライブにアクセスする。
ディスプレイに表示された黒髪長髪の美少女がやたら恋しく、そしてじっと見ていると切なさが沸き上がってくる。
「はぁ……会いたい……」
……最近、飯が喉を通らない。
気が付けばため息ばかりだ。
目に映る世界はセピア色に染まり、物事を考えるのも億劫になってくる。
無駄な努力と理解しつつも――全く意味の無い行動だと把握していながら、今日もキッチンへと足を向ける。
そこにいる渚は、今日も男のまま夕食の支度をしていると知りつつ
「あ、兄さん。夕食はもうすぐできるから、ちょっとだけ我慢しててね」
「なぎ……さ?」
耳朶を打ったのは、最近聞きなれた男のバリトンボイスじゃなく、男には絶対出せない高い音程のソプラノボイスだった。
エプロンをつけた背後姿は俺より低く、ずっと追っていた腰まで伸びた艶やかな黒髪がそこにある。
「何、兄さん?」
包丁をドスン、ザクッとまな板に叩きつけたまま、こちらを振り向かずに答える渚。
その声、その後ろ姿を目にした俺は、一歩、また一歩と渚へ向けて歩を進める。
ああ、砂漠で彷徨い続けた果てに、ようやくオアシスを見つけた旅人もこんな気持ちだったんだろうか。
彼女との距離が近くなるにつれ、セピア調だった世界が次第に色を取り戻していく。
「渚……」
「もう、どうしたのさ?」
振り向いた渚は――綺麗だった。
ただでさえ語彙力の乏しい俺だが、どんな美辞麗句を並び立ても、結局のところはその一言に尽きる。
いや、綺麗という以外に感想が出てこなかった、と言った方が正しいか。
「な、何でもない」
「もう、変な兄さんだね」
再び前を向く渚。
彼女の髪や体から漂う薔薇の香気に中てられた俺は、蜜に誘われる蜂のようにフラフラと揺れ動き、渚の後ろからそっと抱き着いて首に腕を回す。
「うわっ!? とっとっと。いくら足がすべったからって、急に掴まられると危ないよ。僕いま包丁を持ってるんだから!」
「すまん……けど、もうちょっとだけこのままでいさせてもらっていいか」
渚が都合よく勘違いしたのをいいことに、俺は彼女の後頭部に顔を埋め、柔らかな髪の感触と匂いを堪能する。
「ふふっ、こうしてるとまるで新婚夫婦みたいだね」
「ああ、そうだな」
いつもなら、何バカな事言ってんだよ、と即座に否定したところだが、今回ばかりは自分の気持ちに従って素直に答えた。
――余談ではあるが、このときの渚は俺に見えないよう、小さくガッツポーズを繰り返していた。




