病院へ行こう
兄一の様子がおかしいことを把握した渚は、未来から来た少女と頭をぶつけたことが原因かと推察した。
こんなことになるなら、やはり彼女に折檻としてお尻ペンペンぐらいはしておくべきだったと悔やむが後の祭りだ。
まるで子供のようになったうえ、渚のことはおろか自分自身のことすら覚えていない兄の様子に泣きそうになるが、ぐっと堪える。
何も分からず子供のようになってしまった兄一にとっては、目の前の渚しか頼る人間がいないのだ。
その自分が狼狽えてしまえば、不安は兄一に感染してしまうだろう。
「こんばんは。私の名前は渚って言うの。兄一くんのお姉ちゃんよ、よろしくね」
渚は顔の筋肉にぐっと力を入れ、無理やりに笑みを作って優しい声色で語り掛ける。
口調もいつもの中性的なそれではなく、本物の女性が子供に対する喋り方に直すという念の入れようだ。
……だと言うのに。
「お姉ちゃん、すごく悲しそうだけど大丈夫?」
「え?」
「だってお姉ちゃん、笑っているのに泣いているように見えるんだもん。でも大丈夫。僕がお姉ちゃんを困らせてる悪者をやっつけてあげる!」
ああ、この人は……。
記憶があっても無くても、大人でも子供でも、その本質は変わらない。
例え長い間すれ違いが続いていたとしても、たとえどれほど自分自身が困ったり苦しんでいるとしても。
「それでも自分の事より僕を優先して心配してくれるんだよね。そんな兄さんだから僕は一生、寄り添いたいと思うようになったんだよ……」
「わっ! お、お姉ちゃん。泣かないでよ。誰にいじめられたの? も、もしかしてどこか痛いの? だったら僕がお医者さんに連れて行ってあげるから泣か……ヒック……ない……うわああああああん!」
感極まっての嬉し泣きだったのだが、いまの兄一はその判断ができていないようだ。
ポロポロと涙を流す渚を見て困り果て、どうしようもなくなって泣き出してしまった。
「……うぅ。お姉ちゃん……ぐすっ……」
それから渚は兄一をあやし続け、泣き疲れてようやく寝入ったところで考える。
「僕の【回復魔法】じゃケガや状態異常は治せても、病気は治せないんだよね」
いまの兄一は明らかに精神に異常をきたしているが、回復魔法では効果が無かった。
判定基準に不満があるものの、兄一の症状は状態異常ではなく病気にカテゴライズされるらしい。
「くそっ、何が勇者だよ! 異世界は救えても大切な人ひとりを救えないんじゃ何も意味が無いじゃないか!」
悔しさに歯噛みする渚だが、自分ではどうしようもない以上、他人に頼るしかない。
「はぁ……“あそこ”にだけは行きたくなかったけど、背に腹は代えられないか」
渚は夜中であるにも関わらず、病院へ連れていくために寝入った兄一を起こさないようそっと背中に乗せる。
見た目は華奢な少女にしか見えない渚であるが、異世界の冒険で鍛えたこの身は少年一人背負うことなど朝飯前だ。
そして渚は、かつて精密検査を受けた病院の門を叩いた。
「ふ~む、間違いなく記憶喪失に加えて幼児退行も起こしておるのう」
「先生! 兄さ……兄一さんは元に戻るんですか!?」
渚の絶叫に近い問いかけが、診察室に響き渡る。
これほどの大声量であれば、待合室にいる他の患者が眉をひそめそうなものであるが、少女の悲鳴に反応する者は誰もいない。
その理由はこの病院の特殊性にある。
診察室が完全防音であることはもちろん、外来患者同士も顔を合わせることのないよう待合室が個室になっているという徹底した造り。
もっとも深夜という時間帯に加え、医師免許を持たない闇医者が運営しているこの病院もどきが、待合室を利用するほど患者で賑わうことなどないのだが。
「エーッヒャヒャヒャ」
渚の必至とも言える問いかけに、先生と呼ばれた老婆は枯れ木のような体を震わせ笑い出す。
かと思いきやデジタルカメラを取り出し、渚の顔をおもむろに撮影した。
「な、何をするんですか!?」
「ヒャッヒャッヒャッ、痛みに悶えたり病状に思い悩んだり……やっぱり患者や付き添いの苦しむ顔は最高だわねェ」
老婆は言ってデジカメを再生する。
そこに映し出された、少女の焦りと不安が入り混じった写真を見て、満足そうに頷いた。
「な……殴ってやりたい……」
それが叶わないことは重々承知なのだが。
この老婆は歪んだ性癖の持ち主ながら、医師としての腕だけは確かなのだ。
しかも外科から内科、眼科、耳鼻科、はては精神科医としての知識と技術を有している。
加えてここはさまざまな理由でまっとうな病院を受診できない者が頼ることのできる、数少ない施設なのだ。
男の戸籍や保険証しかない女性体の渚は、普通の病院で受診することは難しい。
加えて今回のように兄一が病院にかかる場合も、いろいろあって両親に頼りたくないので、足がつかないこの病院しか選択肢がなかった。
「まぁ、診察の結果から言えば、記憶喪失も幼児退行も一時的な物だから心配せんでもえェ」
「そうですか。よかった……」
渚はようやくひと心地つき、連れてきた兄一を見やる。
診察用の椅子に腰かけていた彼は、さきほど渚が発した大声に驚き、ビクビクした表情でこちらを伺っていた。
「あ……ご、ごめんね“けーちゃん”、大丈夫だからね。驚かせてごめんね」
「ぼ、僕のこと怒ってない?」
「怒ってないわよ。だってお姉ちゃんはけーちゃんのこと大好きだもん」
「僕もお姉ちゃん好き~!」
にぱりと表情を輝かせ、両腕を広げた渚の胸に飛び込む高校生男子。
渚は(女性時の)自分よりも一回り大きい体で抱き着いてくる大きな子供の額に優しくキスをした。




