第6章:過去からの贈り物
パサリ……。軽い、その翼の音でカロシュは目を覚ました。横になったまま周囲の気配を探るが、危険は感じられない。
そろそろアラムと夜番を交代する頃でもあり、カロシュは身を起こして営火の方に向かった。アラムは真面目な顔で小さな紙片を読んでおり、火をはさんだ向かいではカイルが連れてきた翼猫が羽を広げて毛繕いしている。確かカイルの夜具の中で寝ていたはずだが、いつの間に移動したのだろう。さきほどの音は、この猫が翼を広げた音だったのか。
「あれ、カロシュ? まだ交替には早いよ?」
「目が覚めたんでな……そいつ、お前にも懐くのか?」
「ううん、さっき水を飲みにきた。そのまま出て行くかと思ったけど、まだここにいるみたい。カイルさんの興味が引けて助かるけど」
アラムは読んでいた紙片をたたんで仕舞うと、代わりに地図を取り出しカロシュを呼ぶ。
「カロシュ、ちょっと予定を変更してもいい? この後は森伝いに“例の場所”を目指す予定だったけど、エアさんのこともあるし後3日ここに居て、その後ハリルードの岩山を越えて回廊越えで向かうね」
「ハリルード越えで? 遠回りだな」
「でも、起伏は大きいけど渓谷跡を抜けるから道は安定しているし、森回りより獣の心配はないよ。エアさんの脚のことを考えると、ゆっくり移動する行程の方がいいと思うよ? 何より、森の側を抜ける道だと、カイルさんの寄り道が心配だよね?」
「……それは一理あるな」
本人としては不本意に諦めさせられた森での観察だ。……別の森に近づけば、また行きたいと言い出しかねない。
「だが、ハリルード回廊越えは日数がかかる割に面白味がないぞ? カイルが煩いんじゃないか?」
「その方が、早く道のりが進むと思うよ? 最終的にかかる日数は同じになると思うな、僕は。あの人の『一番の目的地』が近づくのだから、巧く誤魔化せると思う。ちょっと思うところもあるから、認めて欲しいな」
珍しく自己主張の強いアラムの言葉に、その「思うところ」とやらを訊いてみたかったが、案内人としての判断は彼の方が的確だ。ここは任せてみていいだろう。
それにしても――『一番の目的地』か。本当に野にある【白獣】と出会えることはあるのだろうか。
ハリルード回廊越えならば後5~6日はかかるその森林区域は、イスファ氏族が管轄する「白獣の森」だ。通常ならば、氏族長に認められた実力を持つノーサの民が、その“相棒”となる【白獣】の裁定を受けるために立ち入ることしか許されない禁足地。場合によっては、そのまま白獣に襲われ命を落とすことすらあるその地に、とうとう到達しようとしている。
さすがに森での宿営は許可されていないということだが、ノーサの民以外が立ち入ることは初めてだろう。カイルは――そしてアラムの主は、どうやってノーサ最大の氏族であるイスファ氏族長の心を動かしたのだろう?
……意外と根負けして面倒になったのかもしれない、と思ってしまうところがやるせない。森に近づいたからといって白獣に会える保証はないのだから、無駄足に終わる可能性の方が高いだろう。
いずれにせよ、もうすぐこの旅は一つの終わりを迎えるのだ。
アラムと夜番を交替し、カロシュは今回の旅について振り返る。――もう1ヶ月以上を過ごしてしまった、と考えたところで、今までに感じたことのない寂寥感が彼を襲った。契約は2ヶ月。旅が終われば、この「旅の仲間」とは別れることになる。隣国の、しかも貴族の彼らと再び行動を共にすることは、きっと無い。
「いや……カイルだったら、また来かねないか……」
半ば願望にも似たことを思いながら、自分は彼らにいったい何を望んでいるのだろうかと自問する。
偶然だったのか、必然だったのか。彼らとの出会いは、カロシュに「何か」をもたらしたのは確かだ。ただ、カロシュはその「何か」を未だ掴み切れていない。
現状から“降りよう”とは思わない。いつも何かを求め続けているが、そのための旅を終わらせるつもりもない。旅の終着点は見いだせなくとも、自分が途中で立ち止まることはないだろう。
その途中で拾い上げる様々なものを、自分はきちんと受け取れているのだろうか。受け取ってきたのだろうか。
――あの時から6年、氏族を離れ現在の生活に入って6年。それ以来初めて、カロシュは自分が“ノーサに立つ意味”について本気で考え始めた。
* * * * *
夜明けにはまだしばらくかかる頃、新たな気配を感じてカロシュは思考の混沌から意識を戻した。顔を上げた先にはエアが立っていた。夜具を小脇に抱え、手には見慣れない瓶を持っている。
「どうした? 傷が痛んで眠れないのか?」
負傷者であり、当然のように夜番からは外れているエアの突然の訪いの理由が分からず、それでもカロシュは居住まいを正して彼女を迎え入れた。エアはにっこりと笑って、営火越しに向かい合って座る。
「おかげさまで、多少熱は持っていますが痛みはそれほどでもありません。発熱もありませんでしたので、咬傷からの敗血症の心配もなさそうです。久しぶりに昼間からゆっくりと休ませていただいたので、目が冴えてしまったみたい……邪魔だったかしら?」
「いや……別にそういうわけじゃないが」
エアの言葉に嘘はないようで、営火に映る顔色は良く口調もしっかりしている。さすがに傷跡は痛むだろうが、それを表情に映し出すほどの深刻さはないようだ。
「前の時もそうだったが……お前は本当に疑うことなく身体が動くのだな」
「おかげで怪我が絶えませんね。騎士になって以来、もはや考える余地もないことで……でも、褒められることじゃないわ。本当は身を張る前にカイル様を危機から遠ざけることが最善なのだけど……なかなか思うとおりには。カイル様の所為というだけではなく、私もまだまだ技量不足です」
褒められたとは思わないと、エアは少し自嘲したように口元をゆがめる。カロシュが知る他国の騎士や兵士は少ないが、エアが見劣りすると感じたことはない。アルバ騎士の“普通”の程度は知らないが、騎士として十二分の力量はあるだろうに、それに満足する性格ではないようだ。
「そうか…………俺には出来なかったことだがな」
カロシュは営火に目をやり、ぽつりとこぼす。一瞬、エアが問いただすような眼を向けたが、それ以上彼が口を開かないのを見て視線を外した。しばらく沈黙が落ちる。
「――忘れるところでした。アラムがいると誘いにくくて。飲みませんか?」
ふいにエアが持参した瓶をカロシュに渡してくる。一緒に白い磁器碗をとらせ、そこに琥珀色の液体を注いだ。カロシュの知るものとは少し違う、酒精の強い芳醇な香りがふわっと広がった。エアも自分の碗に注ぎ、にこっと微笑むとカロシュを促す。その液体を一口含んだ途端、カロシュは目をむいた。
「……えらく美味いな。アルバの蒸留酒だろう? だが色が違う? それに、初めて飲む口当たりと味だ」
「ええ、でもこれが『本物の味』ですよ。これが、アルバが誇る“ウシュクベーハ”。『生命の水』です」
せっかく持ってきたのに、アラムは飲まないし、カイル様にはとても飲ませられないし……と、エアは悪戯をするかのような笑顔で自分の碗も傾けた。
カロシュもさらに飲みすすめる。ぴりりと舌を刺激する感覚は、馴染みのウシュケのものだが幾分まろやかだ。芳醇な香りには、僅かに木の香り。それ以上に、どこか郷愁を感じさせる燻る香り。
「カロシュが飲める人でよかったわ。――貴方ならこの味を、この味がもつ意味を分かってくれると思って」
単なる酒の味以上のものを含む口調で、エアはその琥珀色を見つめた。
「このお酒、実は私と同じ歳なの。アルバの“ウシュクベーハ”は、長い年月をかけて熟成させるのよ。もちろん若い酒でも美味だけど、長い年月を経てこの色に染まったものは、何とも言えない芳醇な香りと味を生み出すわ。この赤みを帯びた琥珀色は、その年月の証。美しい、過去からの贈り物」
「……過去からの、か……」
「ええ……。樽の中で、あらゆるものを聴いて見て取り込んで、全ての巡り合わせを受け止めて……そうしてじっと完成するのを待つの。過去をそのままにするのではなく、少しずつ性質を変えて向上させて自分を作り上げてゆくの。それ以上の変化が必要なくなったら完成。
でも作り手たちは、いつも『本当の完成はない』と言っているわ。私もそれには同感。人と同じね」
二人きり、酒も入っていることも関係するのか、エアの口調はいつもより親しい。だが、その口調とは裏腹に伝えたいことは重い。
「私……。カロシュも同じなのだと思う。それを完成させる手助けが出来ればいいと、素直にそう思うわ」
エアは真正面からカロシュの漆黒の瞳を見据える。榛色の瞳の中に、柄にもなく狼狽える自分が居る。
「変かしら。でも、もう1ヶ月以上も共に旅してきたのよ? 貴方をよく知っているとは言えないけれど、『もっとよく知りたい』と思うには十分な時間だったと思うわ。
私だって、貴方に話していないこと、伝えていないことは多くあるけれど、『もっとよく知って欲しい』と思っているわ。自惚れてもいいのなら、少しは見込みがあると思ったのだけれど……」
――いったい何の拷問だ、これは。
カロシュはこういうことに慣れていない。今まで……特にあの件以来、他人と深く関わり合うことを半ば意図的に避けてきた彼にとって、正面からぶつけられる好意は手に余る。なぜ、いったいどこにそんな要素が。
だがそれよりも何よりも――カロシュ自身の心が、それを拒否したくないと暴れている。
「アラムの――<ジョシャ>の話を聞いたとき、『主』を感じるのは本能的なものだとも言っていたわよね。思考とか思惑とかじゃない、感情ですらない。魂が呼ぶのだと。それと同じだと思ってくれればいいわ」
『ノーサの民にとって、一緒にされるのは失礼かも知れないけれど』、とエアは微笑む。その表情は、視線は、見たことのない柔らかで慈しみにあふれるものだった。
「――貴方の過去に何があったのか、私は知らない。でも貴方がアラムを見る顔、私とカイル様を見る顔。その切ないまでの思いが、私の心を最初に捉えた。強いはずの貴方が、その手を伸ばすことなく、何かを、誰かを、必死で求めている姿が不思議で。気になって仕方なくて。そして悔しくて。
……アラムの腕の額帯のように、私はあなたの傷を大切に庇える存在にはなれないかしら」
エアが口を閉じてからしばらく、カロシュは沈黙を守り続けた。問いかけに対する回答を拒否するようでもあり、答えを必死に探しているようでもあり。エアも黙ってそんなカロシュを見守り続けた。
「……得られないものを、得ようとしないものを。それでも求める自分はおかしいと思うか?」
カロシュが再び口を開いたのは、夜明けの気配が微かに感じられる頃だった。薄明が近い。
「貴方が何を求めているのか分からないから、何も言えないわ。でも……貴方は何よりも“ノーサの民”なのだと思う。私たちアルバ人はもとより、皆が心のどこかで畏れ憧れる独立不羈の民。
自らの心だけをもって大地を踏みしめ、風を渡る草原の民。あなた方は、誰よりも孤独で強いわ。
他人として言わせて貰えるならば。――そんな貴方が、誰かを無理に求める必要はないと思うの。誰かを慕う気持ちはあって当然だけど、でもそれは従うこととは別のはずよ。私はカイル様に仕えているけれど、でもそれはノーサの民のものとは明らかに違う。
あなた方は私たちのように、“誰かを支えることによって得られる”帰属も本質も必要としない。それこそがノーサの民の強さだわ。孤独を孤独と感じず、誇りと思えるその心こそが」
だからノーサの民であるはずのカロシュが、“何か”を求めている風情なのが不思議だったのだと、エアは言葉を締めくくった。カロシュは黙ってエアの言葉を聞いていた。
「エア――昔話をさせてくれるか?」
再びの沈黙の後カロシュが口にしたのは、アラムにすら直接話したことのない、あの6年前の出来事だった。
* * * * *
カロシュは、ノーサ南部のカシュ氏族の戦士の子として生まれた。長じて氏族の戦士となり、その才を認められた。そして――望み、望まれて、22歳でカシュ氏族の若き【白獣士】となった。
当時は【白獣】に認められた自分が、ただただ誇らしかった。氏族の誰もが誇ってくれた。氏族を守り、ノーサを守ることが自分の全てだと思っていた。その気持ちは今でも変わるところはない。
カロシュは成人する以前から、7つ歳上の氏族長の子と親しかった。彼――アヴジャドは白獣士でこそなかったが戦う力にも優れ、また思慮深く公平な考えを持ち、しかしながら人を束ねる者としての苛烈さも兼ね備えていた。氏族の多くがアヴジャドを次代の氏族長に望み、カロシュもそのつもりで18の時から彼に勤仕していた。
カロシュのアヴジャドに対する気持ちは、お互いに、あくまでノーサの民としての“協力関係”だった。彼の力を認め、自分を認めてもらう、ノーサの民にとって当たり前の勤仕。だが、カロシュが白獣士となることを望み始めた頃から、周りはそれ以上をカロシュに見るようになった。
ノーサの民にとって<ジョシャ>は特別な存在だ。それは、その<主>にも同じことが言える。ジョシャを持てる者、シュザになれる者。彼らも絶対の畏敬の対象となる。
幼い頃より共に在り、アヴジャドに絶対の信頼と敬愛をもっていたカロシュは、いつしか彼の“ジョシャ候補”として見られるようになっていたのだ。
カロシュが晴れて白獣士となり、その期待が直接感じ取れるようになると、カロシュは悩んだ。アヴジャドは勤仕するに足りる、自らの誇りだ。だが、その気持ちが<ジョシャ>としてのものであるかと言われると、分からない。
近年、カシュ氏族でジョシャになった者はおらず、シュザも居ない。誰にもその心を推し量ることは出来ない。
アヴジャド自身が、彼に何かを期待するようなそぶりを見せたことは一度もなかったが、カロシュの心は年を経るごとに重くなった。
事態が大きく動いたのは、6年前のファルスの侵攻だ。カシュ氏族領と接する南の隣国ファルスが、東南交易路の南の起点都市シーラズに攻め入ったのだ。当然のように、カシュ氏族とその他のノーサの戦士達は迎え撃つ。カロシュ達【白獣士】、自領のみならず他領からも巡検隊を構成する多くの戦士が、次代族長と見込まれていたアヴジャドの指揮の下、シーラズの守護とファルス軍の撃退に向かった。
結果から言うと、ファルス軍は大いに敗れ軍を退いた。交易都市シーラズも敵の侵入を許すことなく、ノーサの強さを再び諸国に知らしめたと言えよう。
だがノーサも、カシュ氏族も無傷とはいかなかった。何名かの白獣士と、少なからぬ戦士達、そして――次代の長アヴジャドをその戦いで失ったのだ。
カロシュは白獣士として前線に立ち多くの敵を屠ったが、ほとんど無傷で生還した。だが、側にありながら勤仕する次代の長を守れなかった慚愧と悔恨は深く、また自らの白獣をその戦いで失ったこともあり、程なくして許可を得て氏族を離れた。その後は――知るとおりだ。
「俺は……耐えられなかった。あのまま氏族の中にいることに、どうしても耐えられなかった。何よりも、自分自身が分からなくなっていた。自分の気持ちが、感情が、どうしても心に落ち着いてくれなかった……」
瞳と同じ昏い漆黒の空が、東から順に青みを帯びてゆく。未だ夜明けは遠い。だが夜明け前が最も寒い。心の寒さが同じように襲う。
「……氏族の方から責められたりしたのですか……?」
「それはない。誰も俺を咎めたりはしなかった。ただ、敵を倒して生還したことを称え、アヴジャドと白獣を失ったことを残念がっていただけだ。
俺が……俺自身が、自分を責めた。自分の情けなさに。
親しく、また勤仕していた彼を失ったことよりも、共に戦った白獣を失ったことの方が、悲しく苦しかった自分が信じられなかった」
アヴジャドを忌避したことは一度もない。戦いに赴いた時も、自分が守るのだという気概があった。
だがあの戦いの中で、アヴジャドの身に危険が迫るのを見た中で。――自分はその身を挺してまで彼を守ることが出来なかった。
彼が複数の敵に囲まれ、馬上から引き落とされる姿を見たが、カロシュは白獣をそれ以上の危機にさらす判断をしなかった。出来なかった。
自らと白獣を守りつつ何とか彼を助け出そうとしたが、既に遅かった。乱戦の中、馬上から落ちた時点で彼の運命は決まっていたようなものだが、何の慰めにもならない。
見捨てたとは思わない。誠心誠意、守ろうとした。
だが、カロシュも、そしてアヴジャドも。やはり“ノーサの民”であったのだ。独立不羈の草原の民。誰かに寄ることなく依ることもない、強き民。
カロシュが、カイルとエアの関係で最も羨ましく思ったのは、カイルが「守られる者」として理想的であったことだ。そのおかげでエアは「守る者」として、迷うことも悩むこともなく力を尽くすことが出来る。
ノーサの民にはそれがない。一方的に守られることを是としない。共に戦い背を預けることが、その関係の全てだ。
――アヴジャドは「守られる者」ではなかった。そしてカロシュは「守る者」にはなれなかった。そのことを、彼を失って初めて実感したのだ。
アヴジャドが真実「守られる者」であったのならば――乱戦となった時点で白獣士であるカロシュの側に寄っただろう。だが彼は、共に戦おうとした。その背に隠れるのではなく、その背を守ろうとした。アヴジャドはカロシュを認めていたのに、カロシュは「守ろう」としたのだ。そのことが、結果としてアヴジャドとの連携を失うことにつながり……その命を奪うことになったのだ。
アヴジャドを忌避したわけではない。だが、彼をどこかで見誤っていたのだ。彼は「守られる者」なのだと。敬愛し誇りに思うその裏で、自分は彼を“認め合う者”として扱っていなかったのだと。
戦いで受けた傷が元で自分の白獣を失ったことが、その罰に感じられた。
白獣を失ったカロシュは、もはや白獣士ではない。そしてもう二度と、白獣の裁定を受けようとも思えなかった。きっと白獣は自分を認めない。ノーサの民としての「何か」を、カロシュは戦いの中で見失った……。
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カロシュとエアは、ザルな大酒飲み。
アラムは、飲めるけれど飲まない人。
カイルは、飲ませると面倒になる人。




