こい
「おかえりなさーい。」
まだ傷の無い廊下をペタペタと音を立てて小さな体が駆け抜ける。
一歩踏み出す度に母親譲りの柔らかな髪が跳ねる。
「ただいま」
久しぶりの我が家。出張帰りの疲れた僕をパチパチとはじける油の音が癒す。
「おかえりなさい。」
換気扇のモーター音を突き抜けて、妻の声が響く。この人の声も大きくなったものだ。
結婚して4年、つくづく僕は幸せ者だと思う。
良くできた妻に可愛い娘。仕事だって順調だ。。
駄々をこねる娘を寝室へ押し込み、僕は食卓へ向かう。
「できたわよ。」
4人掛けのテーブルの一角に、行儀よく食器が並べられる。
ご飯に味噌汁、天ぷら、切り干し大根。色とりどりのサラダは、娘が手伝ったらしい。
二人で囲む食卓。
僕の目の前だけが賑やかだ。
いただきます、と手を合わせ、箸をとる。
彼女はずっと僕を見つめている。
器の音だけが静かに流れる。この時間が、僕は好きだ。
「…そういえば、そろそろお薬がなくなるわね。」
彼女は時々、この暖かい静寂を割る。
薬の話なんて、あとにすればいいじゃないか。
僕は投げやりな相槌を打ちながら白米を掻き込む。
妻と出会ったのは、病院の中だった。
何故僕が入院していたのか、彼女が一体誰なのか、自分では覚えていない。
しかし、そんな僕に彼女は尽くし、結婚までしてくれた。
自分が悪いのは分かっている。
こんな態度を取ってしまう自分に嫌気がさし、余計にイライラする。
良くできた妻に駄目な僕。
彼女にやさしくされるたびに塗り重ねられる劣等感。
それは、いつの間にか心地よいものになっていた。
劣等感が僕を包み隠してくれるような気がしていた。
「・・・ごめんなさい。」
彼女は僕に小さく謝り、台所へ消える。
僕は何も言えないまま、箸を忙しなく動かす。
腹の底から溢れてくる涙が、夕飯の侵入を少しずつ拒む。
本当は全てに気付いている。
彼女が、妻が誰であるのか、彼女が僕に飲ませている薬が、何なのかも全て。
目をそらし続ければ、僕は破滅するだろう。
彼女といる限り、いつ終わりが来てもおかしくないのだ。
彼女は僕のイマジナリーフレンド。
幼い頃に僕が生み出した存在は、既に友達以上の関係になっている。
もう後戻りは出来ない。
いや、したくない。
なぜなら、今の僕は幸せだからだ。
彼女との暖かい時間を手放したところで、今以上の幸せを手に入れられる保証なんてどこにもない。
それに何より、僕は彼女が好きなのだ。
彼女の笑顔も、危険な本性も、全部含めて好きなのだ。
彼女が過去の僕に何をしていようと、僕は彼女を愛すると誓ったのだから。
自分ではそれで納得している。最高に幸せだと信じている。
だから僕は、2本目の海老天に箸を伸ばす。
キッチンペーパーに残る僅かな油が愛おしい。
「・・・今日の天ぷら、美味しいでしょ。」
いつの間にか台所から戻った彼女が、そう呟く。
「・・・うん。」
どこにでもある夫婦の会話。寝室には届かないよう、そっと囁く。
「・・・あの子、寝たかしら。」
エプロンの裾で頻りに手を擦りながら、彼女は寝室の方に目をやる。
その目はすっかり母親の目だ。
彼女はその優しい瞳をそのまま僕に移す。
互いに秘密を抱えていても、毎日が笑顔で溢れているのだから、それを守っていればいいのだ。
僕はご馳走様と呟いて、寝室を覗く。
ダブルベッドに小さな体が一つ、静かな寝息を立てている。リビングから漏れる光が、その顔に影を落とす。
僕は人差し指を口に当てて振り返る。
ああ、振り返らなければ良かった。
幼かったあの日の過ちが、今の僕へと連鎖して、そいつらは僕を殺そうとしている。
体中に巻き付いたロープが痒い。
粘着テープの匂いに酔わされながら、僕は静かに目を閉じる。
ここはどこだろう。
灯りの消えたバスに揺られ、数時間。
人生の悔いはもう、数え切ってしまった。
いや、もうひとつ。
娘にレイコと名付けてしまったこと。




