しかと
「いつまで眠っていらっしゃるの」
彼女の声が遠くに聞こえる。僕は重い瞼をこじ開ける。
整列した木目。どこか懐かしい模様。
「…ようやく、目が覚めたようね。」
目の前に並ぶ二本の脚。それを上に辿ると、いつものトレンチコート。
レイコさんだ。
横縞のついた黒板とでこぼこに並んだ机の列が彼女を囲んでいる。
見たことのある教室。僕が通っていた小学校だ。
僕は背面黒板の前の床に寝かされていた。埃の臭いがふんわり鼻に入っていく。僕は慌てて起き上がろうとするが、錆びた鎖が僕を留める。その鉄の塊は僕の両手首と足首に巻き付き、床に釘付けにされている。鎖を冷たい床に何度も打ちつける。虚しい金属音。逃げられない。僕の心拍数は一気に上がる。
レイコさんは今まで見せなかった冷たい目で僕を見ている。そうか、この人は人間ではないのだ。僕の中で後悔が渦を巻く。その渦に巻き込まれないよう。僕は鎖を握りしめる。
「貴方に未だ自己紹介していなかったでしょう。だから済ませておきたくて。」
彼女はそう言ってぎこちなく笑う。
「私は貴方の頭の中で生まれたの。」
言葉を咀嚼出来ない僕を置いてきぼりにして、彼女は話を続けた。
「私は貴方の幼いころにいた貴方だけの存在。
イマジナリーフレンドって言いうんですって。あの頃は友達のような姉弟だったのにね。今では脳が作り出した電気信号。想像の産物だと思い込み、記憶の片隅に押し込んで、少し照れくさい思い出にしてしまう。私をどんくさい頭の中に閉じ込めて、貴方は別の世界へ行ってしまった。私は独りで、黙って見ていた。
それでも良かったの。こんなにも長く傍に居座らせてくれる子なんていないもの。
いつまでもこうしていたいと思ったけど、ランドセルを背負った途端、貴方の頭の中にはいろんな奴が入ってきた。特に、あの娘は結構大きかったわね。私の居場所はどんどん小さくなっていった。
だからね、私はお化けとして貴方の前に現れたの。ほら、怖い思い出って記憶に残るっていうでしょ。そうすれば、もう少し長く貴方といられる。
巧くいったと思った。そしたら、もっと欲しくなった。貴方が欲しい。貴方の記憶の全てが、私で埋まってしまえばいい。私以外の記憶なんていらないはず。
その方が貴方の為にもなるに決まっているわ。こんな世の中の、辛い記憶が貴方の頭の彼方此方にあるなんて可哀そう。
だってそうでしょう。可愛いあの娘も貴方を傷つけた。貴方と一緒に私を見た友達も、中学に上がった途端に話しかけてすら来なくなったでしょ。
それに貴方、自分に失望し始めているんじゃないの。成績だって、大したことないし。
このままじゃ、貴方が壊れてしまうわ。他の大人と同じようにね。近頃は皆壊れているもの。ほんと、どうかしているわね。もう辞めてしまいましょうよ。こんな世の中で平凡に壊れていきたくないでしょう。
知っているのよ、私。貴方の考えていること全部。
貴方の味方なんて私だけなの。だから・・・・・・・・」
僕が初めて見るレイコさんだった。
彼女は血走った眼をカッと見開き、滝のように膨大な言葉を僕に浴びせた。細い体が小刻みに震えていた。長い爪は、彼女の拳を緩ませていた。
レイコさんも、怖いんだ。僕は縛り付けられた自分を忘れて、彼女がなんだかかわいそうに思えてきた。
彼女は、表情を動かさないまま、涙を流し始めた。潤んだ瞳が、僕を真っ直ぐ見つめていた。僕は何か言わなくてはいけないような気がした。
「…ごめんなさい」
やっと絞り出した言葉だった。僕はそれしか言うことができず、何度も何度も繰り返した。
僕の眼の奥からも涙が溢れ出してきた。
レイコさんは、僕が生み出した存在だった。僕は身勝手な寂しさを紛らわしていただけだったのだ。
「・・・やっと私に気づいてくれた。」
彼女はそう言うと、教室を出て行ってしまった。




