であい
バスのレイコさん
彼女は白いティーカップをコツンと放した。
―美味しいお紅茶ね。
淡いピンクの唇がゆるりと呟く。
―私の知り合いに、お茶畑をお持ちの方がいらしてね、
真っ赤なマニキュアはスティックシュガーの脱け殻をころころ弄る。
―幼い頃、私、そこに預けられていた時期がありまして…
彼女はそう言って沈んだ紅茶を口に運んだ。
早く出たい。
国道沿いのファミリーレストラン。時刻は午前11時13分。休日のせいか、家族連れが多い。
僕とこの人はドリンクバーだけで2時間近く居座っている。まったくもって迷惑な客だ。30分程前から年配の店員がチラチラこちらを見ている。
彼女は相変わらず、一人、昔話を紡ぎ続ける。
―貴方、このお紅茶、もう一杯頂けるかしら。とても美味しいの。
彼女は7杯目の「お紅茶」をねだる。
何も言えない僕はサーバーへ向かう。
情けない音を立てて、紅茶がカップにぶつかる。
席に戻り、彼女の前にティーカップを置く。
―ありがとう。
彼女はカップを持ち上げ、「お紅茶」の香りを吸った。
―とても良い香りだわ。フィリピン産かしら…
何を言っているのだろう。
―私の親戚にフィリピンの方がいらしてね…
そう言いながら角砂糖を5個浮かべる。
―そこに一人、女の子が…
また、「幼い頃」か。
この人の幼少期はよっぽど長いらしい。
出てこない溜め息をスルリと呑み込む。
エアコンの風が彼女のアホ毛をそろそろと撫でている。
ピンクの唇は何かを語っている。
哀しげな瞳は宙を見つめている。
綺麗な人。
僕は、彼女の口元についたひとかけの砂糖をいつ指摘しようか考える。
「お食事はお済みでしょうか」
「あ、いや…」
さすがにきまりが悪くなり、慌ててメニューを開く。
最初のページの右端をおどおどと指差す。
「追加のご注文でございますか。」
「あ、はい。」
「ハンバーグセットを一点。以上でよろしいでしょうか。」
「あ、あ、あ…」
何も考えずに注文してしまった。
彼女は不思議そうな顔でこちらを見ている。
罪悪感はやさしく入ってくる。
―お腹が空いていらっしゃるのね。ふふふ。
彼女はティーカップをくるりと回す。
気が付けばあの店員は他のテーブル。
時すでに遅し、か。
―私、幼い頃はお肉が苦手でしてね…
時刻は11時44分。
たくさんの家族の声。
入り口につけられたチャイムはひっきりなしに働いている。
。
間抜けな食器の音はそれでも自己主張を続ける。
帰りたい。
エアコンの風は、僕を嘲笑うかのように、彼女と戯れる。
―あの日の夕食の席で、幼い私は…
幼い、か。
そう。全ては幼い好奇心から始まったのだ。
小学生というのは、怪談話が好きな生き物である。トイレの花子さんに口裂け女、ソウシナハノコ、人面犬、仮面の男、さっちゃん、こっくりさん。「バスのレイコさん」もその一つだ。
バスにいつものっているんだよ。
いちばん後ろのせきにいるって。
事こにあうの、まっているらしいよ。
すごく美人なんだって。
話しかけると、ころされるよ。
レイコさんを見た、という友だちは、少なくなかった。ぼくも友だちについていって、レイコさんを見に行った。みんなで、わあわあわめきながら、走ってにげた。ぼくたちは、それを何回もやって、先生にしかられた。
僕は今、バスで30分程の学校に通っている。
予想の1.5倍ぐらい華が無い高校生活だ。授業が日本語に聞こえない。大量の課題。真っ白な答案。常に付きまとう劣等感。毎朝、バスに乗ることが本当に苦痛だった。
そんなある朝のことだった。
一番後ろの席が、二つ、空いていたのは。
疲れていた僕は、その右から二番目の席に腰を下ろした。
先程まで誰かが座っていたのか、ほんのり温かかった。
僕はデイバックから分厚い文法書を取りだし、124ページを開いた。
味気無い文字列はゆらゆらと漂う。
溜め息をつこうと、こっそり息を吸った。
シャンプーの無邪気な香りがぽわりと鼻を撫でた。
その人は、僕のすぐ右隣に座っていた。
いつの間にそこにいたのだろう。
いや、最初からいたのかもしれない。
兎に角、その人は本当に美しかった。
すらりと伸びた指は白く、なめらかで
膝の上でふわっと組んでいた。
白いトレンチコートから覗く脚は
黒いストッキングに包まれていて
上品に揃っていた。
翌朝、バスに乗ると、その人は僕を見てピクリと微笑んだ。
僕はその人の隣に座った。
そこが一つ、空いていたから座ったのだ。
文法書は、開かなかった。
その日の帰りも、その人はいた。
今まで僕が気が付かなかっただけで
いつもいたのだ。
寂れた工場町のバス。
乗っているのは、お年寄りか、定年間近のサラリーマンか、垢抜けない学生たちだけだ。
それなのに、どういうわけだか、僕は何ヵ月も気が付かなかったのだ。
その人と僕が言葉を交わすまでに、一週間もかからなかった。
―貴方、私の幼馴染みに似ているわ。
無駄な息を多く含んだ声だった。
全身に小さな波が伝わった。
「レイコさんだ。」
―あら、私の名前をご存知なの。
僕はその夜、部屋を片付けた。
レイコさんと言葉を交わしてしまったのだ。
話しかけると、ころされるよ。
幼い口で、誰が言ったのだろう。
話しかけると、ころされるよ。
あの人はレイコさんだった。
確かに、レイコさんだった。
1日経ち、2日経ち、一週間は無事に過ぎていった。
一本早いバスに乗っても、その人はいた。
二本遅いバスに乗っても、その人はいた。
僕は後ろの席に座らなくなった。
運転席の直ぐ側で参考書を捲った。
背中に感じる視線。辺りを見渡すふりをして後ろを見る。
レイコさんはいつもいた。
整理券を握りしめ、顎を上げて料金表を眺める。
鞄から財布を出し、ちゃらりちゃらりと小銭を数える。
まるで二つ先のバス停で降りるかのような仕草をし続け、いつまでも座っていた。
レイコさんの行動は、変わらないようだった。この人はどこで降りるのだろう。そんな疑問を持つ余裕さえ出てきた。
土曜日。課外が終わった帰り道。僕はレイコさんが降りるまでバスに乗っていることにした。
その人はあっさりとバスを降りた。古びた駅前のバス停。丁度到着した電車から降りた沢山の人に、その人は加わっていった。
その人は、バスのレイコさんではない。確信した途端、僕は恥ずかしくなった。幽霊でもなんでもない、普通の女性を、尾行までしてしまった。そんな自分が、嫌でしかたなかった。
月曜日の朝。僕はいちばん後ろの席に座った。レイコさんは、右隣にいた。僕は謝らなくてはならないような気がした。
「あのう…」
―また、お隣ね。
彼女はそう、笑いかけた。
―お化けだと思われてしまったかしら。
「あ、えっと、すみません」
心臓が跳ね上がり、僕は慌てて謝った。
こめかみから首にかけて、冷たい感触が伝わった。
―ふふふっ…いいのよ、よくあることだから。
その日を境に、僕とレイコさんとの距離は急激に縮まった。僕がバスに乗れば彼女は必ずいる。彼女はバスのレイコさんであり、「普通の」人間だった。そして今日、僕達は初めてバスの外で会うことになったのだった。
国道沿いのファミリーレストラン。時計の針が重なりかける。排気ガスで曇った硝子窓に彼女はぼんやりとうつる。レイコさんは相変わらず、昔話を紡いでいる。彼女の話は大して面白くない。時々感じる周りからの視線。帰りたい。
「お待たせいたしました。ハンバーグセットでございます。」
焼けた肉と、鉄の匂い。僕の前だけ、テーブルは賑やかになる。
「レイコさんは何も食べなくていいんですか」
「どうぞ、召し上がって。私は頂きたくないの…」
彼女は言葉を止め、僕をまじまじと見た。やはり、僕だけこんなものを頼むのはまずかったか。
「貴方のお肉なんて…」
そう言うと彼女はゼンマイを放された玩具のように笑い始めた。
「うふふふふっ、ふふふふふっ…」
彼女の甲高い声に合わせて周りの景色が歪みだす。
「ふふふふふっ。ふふふふふっ…」
テーブルは踊る。ナイフやフォークが飛び交う。紙ナプキンも人間もバラバラになって散る。
僕の体がふわりと揺らぐ。奇妙な現実が暗闇に溶けてゆく。
遠退く笑い声。僕はプツリと眠ってしまった。
つづく




