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仲違いをして部屋を出たあと、何でオレがあんなこと言わなくちゃいけないんだと落ち込んだ。言わないと気が済まなかったのも事実だが、オルタにしてみれば当然のことを言ったまで、という気持ちしかない。
絶対に正しいとは言えないものの、絶対に間違ってないという自信はある。だからこそもう少しこっちの意見も尊重してくれても良いと思うのだ。
やがて二人は、イサイの案内のもと穴場スポット的な電灯も壊れて薄暗い通路にたどり着き、死に物狂いで歩を進めた。
「なんでこんなとこ……」
「さっき言ってた、もっと良い場所って地上にあるんだろう……? だったら抜け道を使ったほうが早い」
「そっか……それにしたって……」
シャワーに何十日も入っていない浮浪者が点々と地蔵のように居座っていて、その恐ろしさたるや……危うく息が止まりそうになる。しかも辺りは酷い臭いだ。どぶチーズをさらに発酵させたニオイとでも言おうか。
殊更ショックだったのはその中に女性も混じっていたこと。髪はねとねとのボサボサで、顔色も悪い上にシミだらけ。顔に生気はなく、目は虚ろだし、何か良からぬものを体内に注入しているとみて間違いないだろう。
そこを抜けると人気のない真っ暗な広い空間に出た。イサイがポケットからペンライトを取り出し、明かりを点ける。
「この奥の階段をあがれば地上だが、完全に埋められちまっていて出られない。だから今でも地上と繋がってる通気口から上に出よう」
関係者専用と記された扉を開き、中へ。
人がすれ違えるだけの最低ラインは確保してある床が緑色の通路を通り、途中を折れてその先にある空調設備の部屋に入った。
何やら見知らぬ大きな機械がたくさんあって幾つかは稼働中のようだ。銀の管が迷路さながらに天井や壁を行き交い、イサイは唯一その管が通っていない場所の下へ向かう。
天井に扇風機のような羽が二つ。今もぶんぶんいって回っている。それを見上げるイサイからその先の展開を読み、一抹の不安を覚えた。
「あそこから地上に出られる」
やっぱり……。
「でもどうやってあそこまで? 結構高いよ。しかも動いてるし」
まさか念力で壊せとか……?
「大丈夫。たまにおれ金に困ったらこの辺りの掃除をやってたから。ちょっとここで待っていてくれ」
イサイがいなくなってから一分後ガタンと音がしたと思えば、羽のスピードが次第に弱まっていき、彼が戻ってきた頃にはぴくりとも動かなくなった。
「三十分後また作動するようタイマーかけてきた。それだけあれば余裕で上にいけるだろ」
と、どこからか持ってきていたのは、なんと先っぽに鈎がついた梯子。ガラガラ音を立てて伸ばし、慣れた手つきで羽のさらに奥の穴にひっかける。それから何も言わずイサイは何の躊躇いもなく梯子を駆け上がっていった。
(オレはゆっくり行こう……)
五分後、どうにかこうにか羽の上に出たが、まだその先があった。自分の顔の横幅くらいの心もとない手すりを掴んでさらに上へ。
そうしてようやく、手のひらで押し出すようにして古びた鉄格子を外し、オルタとイサイは地上に足をつけた。
「あーあ、とうとう地上だよ」
何か嫌な思い出でもあるのか、先についていたイサイが呻いた。それをよそにオルタは辺りをうかがい、出てきた場所があの高架下のどこかであることを知る。目の前には水の流れていない人工の水路があり、その奥には頑丈そうなフェンスに阻まれてはいるものの、研究所から脱出した際にたどり着いた場所とはすこし趣が異なった街並みが見える。
「さて、ここからはオルタの出番だ」
オルタは懐から名刺を取り出し、イサイに渡した。
「そこ、どこか分かる?」
「んーっと……大東京都美浜区……レチレゾンホテル……。んーすまん、さっぱりだ。とりあえずあのフェンスを越えて誰かに聞いてみるか。地元民なら分かるだろう」
三メートルはあろうかというフェンスを難なく乗り越え、二人はマンションとマンションの隙間を通って住宅街の内側へと抜けた。するといきなり赤ん坊を抱きかかえた女性三人と遭遇してしまい、今にも叫び声を上げそうだったため、イサイは先手をうつ。
「レチレゾンホテルって知りません!?」
ひったくりか何かだと思っているに違いない女性らは、怯えながらも「あっちです」と北西のほうを指し示した。ついでにここからどのくらい掛かるのか尋ねると徒歩なら三十分は掛かると答えた。
欲しい情報は手に入れたので長居は無用とばかりにオルタとイサイは急ぎ走り去る。
まさか初っぱなから人と出くわすとは思っていなかったが、かえって良かったのかもしれない。下手に聞き回るほうが不信に思われるだろうし(あの人たちが通報しないとは限らないけど)。
レチレゾンホテルは繁華街のど真ん中に立っていた。
昼間でも分かるレベルの煌びやかさで、世界中の宝石をかき集めて造られたのだと言われても鵜呑みにしてしまうことだろう。日本のラスベガスとも称されると聞くこの地に相応しいといえばそうだが、オルタにしてみればその豪華さにため息すら出ない。それに加えて馬鹿でかいときてるから、二人とも思わず尻込みして挙動不審になっていた。
足を踏み入れることも躊躇われ、敷地の外から様子をうかがっていると、スーパーな金持ちが乗り回すスーパーカーやリムジン、厳つく古めかしい高級車ばかりが噴水を回るようにして玄関口へと入っていく。
さらに空からはヘリコプターがやってきて、建物の上部に消えた。
世界が違いすぎる……。
と、いったん引き下がろうとしたその時、背後から「ちょっと」と呼び止められた。
「ここで何をしてるんだ」
振り返ればやはり筋骨隆々とした警備員。日本語が流暢な、眉毛の濃い黒人だ。人の良さそうな顔をしている。
「え、おれ達のこと?」
一応とぼけてみるイサイ。
「そうだ、お前達のことだ。一体ここで何をしている?」
「この人知らない?」
とぼけすぎてイサイが駄目人間になりかけている横で、すかさずオルタは名刺を見てもらった。
「そうか。このディーラーを捜しに来たってわけか。よし待っていろ、今すぐ調べてきてやる」
やっぱり優しい警備員でホッとした。
しかし、しばらくして戻ってきた彼の口から驚くべき事実を聞かされ、オルタは呼吸の仕方を忘れたように息が詰まった。
「つい昨日退職したそうだ。残念だが彼女はもうここには来ない」
「そう……」
オルタは唖然としながら俯く。
「じゃあ住所は? 何か少しくらい情報残ってるんじゃないのか?」
唐突に後ろからそう問うたのは、いつの間にやらとぼけるのをやめていたイサイだ。
すると警備員は肩をすくめて、
「あるにはあるが、個人情報は明かせない」
と申し訳なさそうに言った。
せっかく地下から抜けてきたのに……あんまりだ。
オルタとイサイは繁華街を離れ、オフィス街の広大な公園に立ち寄った。遅めの昼食をベンチでとっているサラリーマンやOLがいて、誰もかも一人で、本を読みながら或いは携帯端末を触りながら黙々と箸を動かしている。二人で一緒にひとつのベンチに座るオルタ達が場違いなのではと不安になってくる光景だった。
気がつけば陽が傾き始めていた。夕陽がオフィスビル全体をオレンジ色に煌めかせ、光の射し込まないところにおいては徐々に影が濃くなっていく。
サラリーマンやOLの姿はすでになく、代わりに犬を連れた御婦人や自転車を漕ぐ青年などが行き交っていた。
「これからどうする? 行く宛ももう無いんだろ?」
「うん」
「今日はどっかそなへんで野宿か」
「ごめん……」
「いいって。そういうのには慣れてる。ただ、Aクラスを競り落としといて数日しか使ってないってところだけ、ちょっと後悔してるんだ。もちろん誘ったのはおれの方だし、いくらそこで問題が起きたって、おまえを責める気はさらさらない。あん時、おれにも力があったら、たぶんああしてたと思うし。だからそう気にすんな」
そこまで深い意味はなかったのだが、あえてそこまで応えてくれたイサイの温かさにオルタは心の底から「ありがとう」という気持ちがこみ上げ、自然に声として紡がれた。
よっこらせとイサイがベンチに寝っ転がる。
「そもそもその名刺の奴とはどんな関係なんだ? 女なんだろ?」
「初めて街に着いたとき、警官に連行されそうになったところを助けてくれた人だよ」
「へえ。綺麗なのか?」
「オレの目にはそう見えた」
「ほー」
と、唐突にイサイは周辺にいた女性を指でさし、ニヤッと微笑む。
「ほいじゃ彼女は綺麗か? それとも違うか?」
対象は、書類を小脇に抱えたOL。ロングヘアのやや赤毛で、眼鏡をかけており、ぱっと見スマートな女性だ。顔は比較的地味でありながら、足早に公園を横切っていく姿はキャリアウーマンを彷彿とさせる。
「綺麗」
「んじゃあれは?」
二人目は、ジャージ姿で走っている女性。隣には彼氏か夫らしき人物。黒髪を後ろで一つに結わえている。俗にいうお団子頭だ。小顔でとても端整な面立ち、見る人によっては実年齢よりもはるか下にみられるであろう第一印象からして文句なしの人。
「綺麗」
「まあ無難過ぎたな。彼女は?」
三人目は、猫を抱っこする、ずんぐりとした女性。
「違う」
「……。なら、最後にあれはどうだ?」
四人目は、公園脇に設置された公衆電話にて通話している女性。サングラスをかけていてあまり外見は分からない。彼女もジャージらしきものを着ていて浮き出ているプロポーションはこれまでの誰よりも良い。大人の女性という印象を受ける。
そして。
「……あ」
「あ?」
「忘れてた……ごめん、オレすっかり忘れてたよ……ああそうだった!」
「な、おいっ、いきなりどうした!」
オルタは慌てて名刺を懐から出して裏返した。案の定そこには彼女の電話番号が克明に刻まれてあった。
「おい、おいおい! まさかそれ電話番号かよ!?」
「そう! ずっと忘れてたんだこれ!」
「かぁぁ! おまえはっ! おまえって奴はぁぁっ!」
頭を掻き毟るイサイは、喜んでいるのか苛ついているのか、複雑な顔をしている。しかし間もなく満面の笑みを浮かべて、「早く電話しにいくぞっ!」と言った。
公衆電話にたどり着いて順番を待つ。
そう、まだ件の女性が通話しているのだ。
「早くしろ、早くしろ」
唇を噛んで足をじたばたさせるイサイを尻目に、サングラスの女性は素知らぬ顔で通話を続ける。堂々と。
程なくしてついにイサイが動いた。
「ぐうううう! 我慢の限界どぁっ!」
ガバッと電話ボックスの扉を開き、なんと、中に無理やり飛び込んだ。「ひっ」と恐れおののいた感じの表情をにわかに浮かべた女性に対し、イサイは身体をぴったりくっつけて「頼むから! 少しでいいから電話かけさせてくれ!」と、訴える。
すると女性は「ど、どうぞ」と恐る恐る受話器をイサイに渡し、イサイはそれを外にいるオルタに渡した。が、なぜかイサイは出ようとしない……と思っていた矢先、彼は驚くことを口にした。
「いくつですか?」
「……は?」
「ご年齢です。おいくつですか?」
「私?」
こくりとイサイが頷く。
「三十……九ですけど」
「食べ頃ですねっ」
「た、たべごろ!?」
「良かったら電話番号おれに教えてくださいっ!」
受話器から『どうしたの泉美さん! 泉美さん!』という声が届くも、オルタはただただ茫然とするばかり。
そして、まさかね……と思っていると、驚いたことに女性のほうもおかしな行動を取り始めた。
「あなたは幾つなの?」
「おれは二十八!」
「……ちょっといい?」
イサイが少し下がるなり、女性は電話脇に置かれていたメモ帳にすばやく数字を書き記し、破って彼に手渡した。そして付け加える。
「結婚してるけど、私のところは最低限のこと以外お互いに干渉し合わないってことにしてるの。だから安心していつでも電話かけていらっしゃい」
女性は電話ボックスを出ると華麗に走り去っていき、その後ろ姿をイサイは見えなくなるまで見送った。手に紙切れを握りしめて。
「わりいな。思わず口説いちまった」
「イサイってああいう人もタイプなの?」
「タイプというか、だいたいはイケるぜ」
「へえ」
何気なく受話器を耳に当てたら、まだ『泉美さん返事をして! 泉美さん!』と向こうから声が聞こえてくるので一度ガチャンと切った。それから名刺に書かれた番号を押したものの反応が無かったため、ためしに受話器を取ってから押してみた。しかし向こうから「ツー」という機械音が聞こえるだけで応答がない。
「おいオルタ……肝心なこと忘れてた。おれ達、一文無しじゃねえか……。金入れなきゃこれ使えないぜ……」
思わず目が点になる。
それからオルタ達は、通るひと通るひとに頭を下げて、仕事帰りの男性から使わなくなったというテレホンカードを一枚譲り受けた。辺りはすっかり暗くなっていた。
男性の優しさに対する感激もそこそこに、さっそく電話をかけてみる。先ほどとは違い、向こう側でトゥルルルと音が鳴り、ややあってガチャと調子が変わった。
『もしもし? どなた樣?』
「オルタだけど」
『オル……あー! なんやどないしたん!?』
「あんまり長く話せないかもしれないから、単刀直入にいうけど、今日これから泊めてほしいんだ」
『ええよ。ああ、でも住所教えたところでわからんな? あんた今どこにおるん?』
「レチレゾンホテルからちょっと離れた公園」
『あー、そっか、わざわざ尋ねてきてくれたんやね。それは悪いことしたな。オル、ちょっとそこで待っといて。二十分くらいかかるけど車で迎えにいくわ』
向こうからブチッと切られた。受話器を置く。
「なんだって?」
外に出ていたイサイが電話ボックスにもたれかかるようにして覗き込んだ。
「今から車で迎えに来てくれるって」
「そっか。んじゃ今日のところはいったん解散といこうか」
オルタは眉をしかめて怪訝な顔をする。
「いきなりどうしたの?」
「いやほら、水入らずで話したいこともあるだろうしな、そこにおれが入って水を差すっていうのもこれまた気が退けるわけよっ」
「ふうん。ただ単に早くさっきの泉美さんに会いたいだけなんじゃなくて?」
カマをかけるふうに言うと、みるみるイサイの身体が汗ばんでいく。面白い。
間もなく彼は降参といわんばかりにガクッとうな垂れた。
「すまん。実はそっちの気持ちのほうがでかい。かなりいい身体してたし」
「確かにね。じゃあ明日、ここに電話してよ。イサイのこと紹介したいから」
名刺を差し出すと、イサイは人差し指と中指で挟んだ。
「お互い女運はあるのかもな」
その後、イサイも公衆電話から電話をかけ、十五分としないうちに身なりが高級クラブのナンバーワンホステスと成りかわった泉美が高級外車で登場し、イサイを連れ去っていった。泉美はイサイがあの後すぐ連絡してくると踏んで用意をしていたのだろうか……。だとしたら恐ろしい女性だ……と思う。
電話ボックス近くに座って待っている間、オルタは少し後悔していた。
本当にこの公園だと向こうに伝わっていたのかと。
心配だから再度連絡を取ろうにも名刺は手元にないし、テレホンカードもない。
(まずいな……このまま会えなかったら、ただ迷惑かけただけになる……)
それから虚しい十二分を過ごし、なんとなくビルや公園の木々が映り込む夜空を見上げていると、右手からキキーっというタイヤの摩擦音が耳まで届いた。それまではどの音も聞き逃していたのに、その音だけはやけに気になったのだ。そして、それこそオルタの心配が杞憂に終わることを告げる合図だった。
カーブを曲がった真っ赤なミニクーパーは滑るように向かってきて、オルタの目の前でビタッと止まる。走行中はヘッドライトで車内が全然見えなかった。
遠慮がちに覗こうとすれば、目と鼻の先でちょこんと座る萌音と、ぴたり目が合った。
「よっ。おまたへ」
相変わらず煙草を咥えており、トレードマークらしく妙に似合う。
「はよ乗り」
まるで赤ん坊をあやす優しさで言うから、何だか胸の奥がくすぐたかった。
「どこ乗っていい?」
「うちにちょっかい出されたくなかったら後ろ」
「わかった」
迷わず助手席に乗る。
「なんやそれ」
そう言って微笑む萌音の横顔が、ひときわ夜景の中で輝いて見えた。




