here,and there
その専門学生の女の子が近所の踏切で亡くなったというのを知ったのは、新聞の地方面、たった十数行の記事でだった。
今朝、その場所には事故の痕跡も、花も無かった。
近くの喫茶店から踏切を眺め続ける。
たくさんの人が踏切を渡って行った。
ほとんどの人が、昨日ここで1人の女の子が亡くなったという事を知らないまま渡って行くのだろう。
珈琲は冷めきってしまった。
数十分後、花束を抱えた青年がやって来て、踏切の隅にそれを置くのが見えた。
そのまま、じっと佇んでいる。
肩が震えている。
泣いているのだろう。
やがて警報機が鳴り、遮断機が降りると彼は顔を上げ、歩き去って行った。
翌日、古いカメラを手に踏切へ行き、花束に向かって一度だけシャッターを切った。
その翌日も、そのまた翌日も、一枚だけ。
花束が替わることはなかった。
少しずつ、枯れていく花。
フィルムが残り3枚になった日、もうみすぼらしくなっていた花は、処分されたのか何処にも見当たらなかった。
残り3枚のフィルムには、何も無い道の端が写っている。
僕らはこうして、道を別れていくのかも知れない。




