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謳声は包む
「こんなこと、前代未聞だわ」
そう言って彼女は溜息をひとつ吐き、僕も「まさかこんなことが出来るとは思わなかったよ」と驚きを隠せなかった。
それがだいたい十年くらい前の話。
「あの時は本当に呆れたわ」と彼女は懐かしむように微笑み、僕も「我ながら凄いことしたなと思うよ」と思い出しながら笑った。
いつからだろう、気付けば笑い合えるこんな関係になっていた。
その謳声と美貌で、男達を海の底へと引き摺り込むセイレーンの彼女と、その犠牲者で、彼女にとり憑いた幽霊の僕。
「君の隣りで、その歌をもっと聴いていたいと思ったんだ」
特等席ねと彼女は僕を見て、そうだねと僕も彼女を見た。
「また聴かせてよ」
「ええいいわ」
また微笑んで彼女は息を吸う。
そうして、何も無い海の真ん中で、誰かを沈める為ではなくたった一人を包み抱く為だけの歌が、静かに流れ始めた。
それはまるで“触れ合えない”ことを補うかのように――。




