秋の日、遠く
彼女は指の先に蜻蛉を停まらせるのが得意だった。
「今、私たちが踏みしめている大地が地球だとするでしょ? するとね……」
「だとするも何も、地球だから」
彼女は僕に視線を向けること無く話し続ける。
「するとね、あれはお月様なんだって」
彼女が何も指差さず、視線も向けずに言うので、僕にはどれが月だかわからない。
彼女はもう僕を見ない。
「頭のね、奥の奥にスイッチがあるの。でね、普段は奥過ぎて届かないんだけど、目を閉じて頭の力を抜くと、沈むように近づいていくの。触れられるくらい近づいて、でも切ってしまうともう戻れなくなるってわかって。怖くなって『誰か…!』って思ったら急浮上して戻れるの。そして、怖いって、それしか思えないの。でもね、また近づきたくなるの」
僕は隣りで静かに聞いていて、それだけで充分だと思っていた。
だがその日、彼女は指に蜻蛉を停まらせながら振り向き、僕を見てこう言った。
「君は引き留めてもくれないんだね?」
微笑みながら、涙を流して。
翌日、彼女はスイッチを切って行ってしまった。
遺ったのは秋の日、蜻蛉を停まらせる仕草だけ。
でも、もうその指に蜻蛉は停まらなかった。




