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時刻は午後二時過ぎ。
「あ、そーだ」
私は駅へ向かう前に、一つ用事を済ませようと考えついた。
なんとなく、自己紹介したあと一緒に朝ご飯(時間的にはもう昼だが)でも食べようかという流れになった。
庄谷奈津美と名乗った少女も今朝方憂い残さず吐いたお陰か、酷い二日酔いにもならずむしろ一眠りしてスッキリした面持ちで控えめに空腹を訴えてきたのだ。
慌てて持ち合わせが無いからか何度も固辞してきたが、私も今朝カフェオレを飲んで以来何も口にしていなかったので、可愛いなぁと思いながら近くの喫茶店で軽食を摂った。
初対面の人間の、食事風景と嘔吐風景を一日のうちに見られるなんてある意味レアな体験をしたなと今更ながら考えつつ、そんなマイナス全開の印象からよくここまで付き合う気になれた自分も我ながら珍しいと感じた。
バーに遊びに来る私目当ての女の子は確かにそこそこ愛しいが、嘔吐介助までしてあげられるかというとそれは話が別だ。もしかして新手の刷り込み心理か、まさかの吊り橋効果? ……特殊な性的嗜好に目覚めてしまったのだろうか。
「どうしたの?」
先刻の私の言葉に対してか、小首を傾げて奈津美が見上げてくる。低めの身長は私の顎くらいがてっぺんで、可愛い女の子限定で発動される上目遣いスキルに内心グッときた。
同い年だし、敬語はやめようと先ほど約束したとおり、気安い口調で語りかけてくる彼女の声は花が風に揺れるようにサラサラと私の耳をくすぐって喜ばせる。私が蜜蜂ならいつまでも周りを飛んでいたい気分だ。
「えーとね、これ、借り物だから帰る前に返しておこうかなって」
私は自身の履いているスウェットを引っ張り席を立つ。紙袋を持ってトイレに向かった。
こういう時は洗って返すのが礼儀だがしばらく新宿に来る用事も無くなってしまうので、せっかく着替えられるんだしついでに返しておこう。洗って返せとは言われなかったし。
と、良い感じに自分を正当化してへんてこな格好からようやくおさらばした。
今朝出て行ったばかりの部屋の前。事のついでと奈津美も一緒にやってきた。
まあ、アドレス交換もしたしあとは最寄り駅までの交通費を出してあげればさよならだが、折角だからもう少し一緒にいたいなと思っていたのでこれ幸いである。
「キョーコさん、いるー?」
安っぽい音しか出ないインターフォンを何度か鳴らしてみるも、出てくる気配無し。ただ、なにやら室内から物音は聞こえるので居留守でも使っているのだろうかと推察する。
私が痺れを切らしてドアノブを回すと鍵は掛かっておらず、アッサリと開いた。
「なんだ、開きっぱだよ。お邪魔しまー」
す、と言いながら玄関まで入りかけるとキッチンより奥の僅かに開いたガラス戸から、呻くような人の声。
何事か、と思わず身を乗り出すと戸の隙間から、ナニゴトかが見えた。見えてしまった。
「……んぁっ……きょ、香子、さ……んっ」
「ふふ、可愛いよ……ほら、逃げないで、札奈」
薄暗いカーテンの閉めきった部屋。黒髪の少女を抱きとめる肌、その腕の中で身悶える白い肌。
いや、ちょ、待って。なんですか、なんですか、キョーコさん、その手に持ってるものは。
ていうか、その子ホントに中学生ですか、どう贔屓目に見ても小学せ――
「やぁ……そんなの、……入らな……んんぅっ」
「ゆっくり……痛くしないから、……ん、ほら……怖くない」
私は心の底から失敗したと思った。他人のプライベートには極力首を突っ込まない主義だが、事故的にこういった場面に出くわしてしまうことも生きていれば最低一回くらいは起こりえる。
そしてそれは真っ昼間から致してるような欲望に忠実な感じの人の家にうっかり足を踏み入れてしまった場合、宝くじに当たるより高確率だ。
しかもこの宝くじ、当たりにしてはずれという最大の矛盾を孕んだ不幸な巡り合わせっていうかこれはどう見ても犯ざ――
「仙庭さん?」
耳元で囁かれたせいで、私は思わず飛び上がりそうになった。振り返ると至近に奈津美が居て、いやこの状況はマズイ。
私の視線を追って彼女の瞳がガラス戸、その奥に釘付けになる。
「え……?」
マズイ。
マズイ、これマズイって……
「出よう!!」
奈津美の二の腕を強引に引っ張って玄関から外へ転がり出る。すぐ側でこんな大事になっているのに、当の本人達は“遊び”に熱中しすぎているのか、なんの反応も示してこない。
私は有無を言わさず奈津美の手を取り、アパートから遠くへ遠くへ、駆け出した。
知り合いに変態というか犯罪者というかとにかく色々と手遅れな人が居た。
そんなショッキングな事実に打ちひしがれる間もなく、私は次の問題にぶち当たっていた。
ただでさえこの手のことは二丁目界隈以外からは正しい理解を得難いのに、更に刺激的な場面を奈津美に見られてしまった。今日初めて会った女の子と、である。気まずさを通り越して緊張で胸が痛い。
雑居ビルの暗がりでSMプレイをしているゲイのハゲ親父を初めて見てしまった時と同じくらい私の動揺も大きいのに、奈津美に至ってはPTSDになる可能性すらある。こんな魔窟に、連れてくるんじゃなかった。
「えーと、ね……その……」
私が様々な言葉を噛み砕きながら口の中でモゴモゴしていると、奈津美は顔を赤くしながら俯いた。
「ああいう場面、初めて見た……」
「………………」
そうか。ここが、分かれ道。
彼女の言葉や仕草に少しでも嫌悪が見えたら。忌避感が、彼女から示されたのなら。
私は奈津美にお金を渡し、別れた後にアドレス帳から彼女の名前を消すだろう。
「……ああいう玩具って、ドンキに売ってるのかな?」
うん?
え?
「…………は?」
交差点に隔たれた彼女の視線の先には激安の殿堂ドン・キホーテ新宿東口本店。
頬にはまだ朱が差しているものの、どこか決然とした眼差しで角ビル一つ分の巨大な店舗を見上げている。
「やっぱり、マンネリ打開にはああいう……その、道具とか使ったほうが喜ぶのかな?」
「え、あれ? ごめん、今なんの話?」
私はひとっ飛びで加速していく奈津美の言葉に思考がついて行けず、疑問に疑問で返す。
おかしいな、もっと他に聞くことあるような気がするんだけど、私の思い違いだろうか。
……うん? マンネリ? 打開?
それってつまり――
「あ、彼氏?」
聞くと奈津美は照れくさそうにこくりと頷いた。
自分の感情がさざ波のように引いていくのを自覚しながら、出来るだけ笑顔で振る舞う。
「やードンキにも売ってるけど、レジで買うの恥ずかしいよ?」
「あ、……そうだね」
想像したのか、困ったように苦笑した。
「ネットとか、通販してみるといいんじゃない。まあ、ちょっと当たり外れというか雑なパチもんみたいなのも混じってるから気をつけたほうがいいけど」
「く、詳しいね」
「まあ……」殆どキョーコさんの受け売りだが。
数分前まで悩んでいたことがとても利己的で馬鹿らしく感じた。そもそも見ているものの焦点が違っていたのだ。
私の常識と彼女の常識が同じであるはず無いし、そこに正しさを求めることはなんの意味もない。
「私、ちょっと嫌われちゃったみたいで。昨夜も彼と彼の友達がやってる居酒屋さんに行ったんだけどお店出た途中でいなくなっちゃったていうか、私の記憶が飛んじゃってたせいもあるんだけど。って、こんな話されても困るよね!」
ごめん、と見つめる私の目から身を逸らす。
なんとなくわかった。奈津美はやっぱり先ほどのことで色々と動揺していて、とにかく私となんでもないような話をしなければいけないと感じたんだろう。まだ赤みの引かない頬が何よりの証拠だ。
「それって、彼氏に置いてかれたってこと? 酷いね」
「う……ん。さっきメールしたけど昨日は皆酔っ払っちゃってたって」
こんな可愛い子を酔い潰れさせた上に放って帰るなど、奈津美の彼氏は相当俺様タイプらしい。少し、苛々した。
「私があんまり鈍くさいからかな……こないだもね、体育やってる時に派手に転んじゃって。もーほんと恥ずかしかったよ」
そして、それをしょうがないものとして受け止めている彼女にも。馬鹿な勘違いで深みにハマっていくだろう先のことが透けて見えて私は嫌悪すら抱いた。
ああ、私はなんて面倒な性質の人間なんだろう。
自分勝手な思いを抱いて勝手な失望を繰り返すいつものことに分かっていながら傷付いて、それすら馬鹿らしい。
「ま、頑張って。最寄り駅まで、お金どれくらい?」
「あぁ、えと――」
それから、私は彼女の顔もまともに見られずに駅に送るまでもなくその場で別れた。
しきりにお礼を述べる奈津美を思い浮かべながら、またぼんやりと睡眠欲が戻ってきて頭を振った。
久々に登校した。
というのも今日からテスト期間で、流石にこれを受けなければ退学を余儀なくされてしまう。
下駄箱で小奇麗な上履きに履き替え、教室ではなく保健室へ向かった。いわゆる特別待遇だ。
今の私は心が傷つき弱り切った虚弱少女なので、うかつに人の目のある教室になんか通えない。もちろんこの間の件で多少なりとも心は傷ついたが、精神衛生は至って健康である。
だが、過去起きた一件による過保護な親とナーバスな学校側の意向にあえて沿う形で私はその要望にお答えし保健室登校を続けていた。
実際、いくら面倒とはいえ学校を辞めるのは親の方のショックが大きくなるだろうし、慣れれば大したことでもない。私の居場所はここには無い。無くても、いい。
「久しぶり」
保健室の養護教諭は書類を書き留める手を休めて椅子ごとドアの方へ向き直った。開けた途端涼しい空気にほんの少し顔をしかめる。まだそんなに暑い時期でもないのに冷房の無駄遣いだ。
私は勝手知ったる我が家のように端にあった椅子を引き寄せて座った。
「そろそろ出席日数危ないんじゃないの?」
さほど心配したような口調でもなく世間話でもするように養護教諭が話しかけてくる。
歳は恐らく私の母親と同じくらいか少し上。仕事柄か、プライベートに踏み込みすぎないように弁えているようで私から何か相談事でもしない限り、余計なお節介を焼いてくれないでいるのが助かる。
「計算してるから大丈夫ですよ」
「いーわねえ、私が学生の頃は毎日学校行ってたけど頭のほうがついてこなくてテストじゃボロボロだったわよ」
呆れるような、感心しているような半々の気持ちといった溜息をついて養護教諭はホットコーヒーを啜った。
羨むような生活なんてしていないが、テストの成績だけは最低限悪くないほうを維持しているからこんな状態でも私の振る舞いは保証されていた。
「やー世渡り上手なんですよ私」
「狸ねえー」
最後のチャイムが鳴る。三教科分のテストが終わり、伸びをした。
帰宅へ向けた大多数の生徒たちにより昇降口が混みあう事が予想されたのでしばらく保健室で時間を潰そうかと思ったが、
「これから職員会議だから」とにべもなく追い出されてしまった。
仕方なく近くの人目の少なそうな体育館への渡り廊下へ向かう。校舎二階と体育館を繋ぐ廊下は外へ面していて体育館の建物に突き当たるところで張り出された屋根と少し空間が設けられていた。脇へ行くと体育科の職員がいる詰所のような体育科準備室。逆方向にはここへ上がって来られる外階段がある。
クラスメイトに顔を見られるのは面倒だなと思ったが、うちの学年は全部で七クラスあるので実際そこまで敏感になるほど顔見知りが多くはない。けれど私は久々にやってきた学校の他人行儀な空気にさえ浸かりたくなかった。
テスト期間中なので運動部はお休み、顧問も体育科準備室より職員室にこもっているこの時期この辺りは閑散としているらしい。私がまだ普通に通っていた頃は昼休みに其処此処で過ごすグループがいたり運動部の基礎練習場所だったり何かと人の集まりが絶えなかった印象だ。
壁際に設えられたコンクリートで出来たベンチに腰を下ろして、屋根の隙間から見える青空を仰ぎ見る。
ざわざわとした人の喧騒が段々と遠ざかっていく。放課後独特の静かな校舎に戻るのももうすぐだと思った。
「……で、……だけ盗って放って……だ」
「……は、馬鹿だっつーの……」
どこからか会話が途切れ途切れ風に乗ってくる。
体育館の建物の脇、外階段の方面からその声は聞こえてきた。昼休みや放課後には何人かのグループが溜まり場にしているところだ。人目を忍んで交わすような会話を好む連中がたむろしている確率が高い。壁越しに首を伸ばして様子を窺うとチラリと緑色の爪先が見えた。上履きの先端は学年別に色が塗り分けられていて私と同じ二年だということが分かる。
見られたら面倒だなと思いそっと立ち去ろうとしたら風向きが変わったのか、はっきりとした男女の会話が聞こえてきた。
「でもさあ、アケミ。いつまでやんの、これ。俺もいい加減相手すんの疲れてきた。あいつ馬鹿だし」
「面白くなくなるまで。アンタだってまんざらでもないじゃない。庄谷なんてちょろい頭してそうだし、やりたい放題なんでしょ」
「まあ……でも財布盗ったのはやりすぎっつーか。金ならアケミがいるから別にいらねえんだけど」
「ああいうタイプって見ててムカツクのよね。あと、別にアンタ達のお財布になったつもり無いんだけど」
「でも有り余ってんだろ? 金持ちってホントいいよなー」
「だから暇つぶしにアンタ達みたいなクズと付き合ってやってんじゃない」
「ひっで」
「でもあいつ馬鹿だけど顔はいいよなー。胸もでかいし。今度やらせてよ」
「俺が飽きるまではやらねえよ」
「アンタ達ほんと最低ねー」
「いや、お前に言われなくない……」
「親父の金で男飼ってるお前に言われたくない……」
悪さをしたい盛りの高校生の会話にしか聞こえなかったが、いくつか気になるキーワードが混ざっていたのが気になった。
まさかねと苦笑しながら、先日の彼女との会話を思い出す。
最寄り駅は、この高校から三つほど離れた地下鉄駅だった。私の自宅とは学校を挟んで正反対だったので地元に近いなと思いはしたがそんなに気にしなかったのだ。だが、通学圏内ではある。
「ねえ。今度ハメ撮りしてきてよ」
アケミと呼ばれた少女が殆ど命令に近い口調で言った。笑いを含んだような声色にその表情が窺える。
それに少し焦った風の男と、まだからかい半分な男の野次。
私は気づかれる前に、その場から抜け出した。




