銀の光と夏の坂道
季節は八月。全国的に夏。太陽は頂点を極め、その輝きは影を極小までに削り落としている。
ミーンミーン。
暑い。そして熱い。前者は気温で、後者は地面だ。太陽とアスファルトの照り返しがジリジリと彼の体を蝕んでいる。
オーブンに入れられたチキンは、きっとこういう気分なのだろう。こんな中でも熱心に鳴き続ける蝉は、相当に根性の座った連中ばかりなのだろう。なにせ土の中で何年も過ごしていたのだから。
などという至極どうでも良い事を考えながら、彼は炎天下を歩いていた。
彼は貧乏な大学生であった。今月の仕送りは底をつき、アルバイト先で貰う廃棄弁当で日々をどうにか食い繋いでいる現状であった。
しかし、それも今日までである。今日を乗り切れば明日には給料が入る。金額はそれ程多くはないが、人並みに三食を食べられるようになるのだ。
「あぁ……それにしても、あっちぃなぁ」
それはそれとして、今はなかなかに緊急事態であった。
というのも、今日は今夏で一番の暑さであり、既に気温は三十五度を超えている。
大学も終わり、汗だくになりながらも外を歩いているのは、偏にこの暑さから逃れられる場所を求めてであった。
いつもならば大学構内の図書館を避難場所に使うのだが、今日は空調が壊れてしまっているのだ。
ここまではコンビニに立ち寄ったり、公園の木々の下を歩いたりで何とかこれたが、ここからだ。
目的地は市立図書館。去年リニューアル工事を終えて、見事に生まれ変わった、学生の友だ。
ここならば金もかからず、涼しく、日光が収まる夕方まで勉強もできる。
そして何より、金を使わなくて済むのが大きい。
「………」
チラリと脇を見る。そこにあるのは赤い機械の箱。そこに詰まっているのはキンキンに冷えたモノ達。
それを飲んだ時のシュワっと爽やかな感触を思い出し、ゴクリと喉が鳴る。
最後のコンビニから既に十分は歩いている。図書館にはウォータークーラーがあるからと、ケチったのが仇となった。
無意識にポケットを探る。確かまだ二百円はあった筈だと、小銭を取り出し、掌に広げる。
「ジーザス」
銀貨ではあった。ただし、二枚共に穴が開いている。合計――百円。
自販機の商品は、一番安くてもミネラルウォーターの百十円であり、とても届かない。
一瞬、抱えているバッグをひっくり返して金を探すかとも思い、そしてすぐに止めた。そんなことをするなら、一分でも早く図書館について冷たい水を飲みたい。
そして何より、この先に自分を救うメシアがいることを思い出したのだ。
◇ ◇ ◇
図書館に続く長い登り坂。その中程にある一台の自販機。そう、これこそが彼を救う者だ。
百円自販機。全商品が百円。しかも五百㍉缶の炭酸がある。手持ちジャストでシュワっと爽やかな一時を過ごせるのだ。
しかし、その恩恵に与っている者多数いるようで、既に自販機の九割が売り切れとなっている。やはり、この最後の百円はここで使うべき運命だったのだ。
早速、五十円玉を一枚投入。ピカっとデジタルで[50]と表示される。
もう一枚を入れてボタンを押せば、その瞬間に彼は勝利者だ。素早く二枚目を取り出して、投入口に添える。
その瞬間だった。
キキィイイイイッ!
「うわっ!?」
いきなり背後で響いたブレーキ音に、ビクッと肩を竦ませた。
振り返れば自転車の前に猫が飛び出し、それを避けようと急ブレーキを掛けたようだ。
驚かせるなよ。と、改めて硬貨を入れ――ようとして、彼は我が身の異変に気付いた。
無い。親指と人差指によって挟まれていた筈の物が。五十円硬貨が跡形もなく。
まさか、あの一瞬で強奪された? もしくは自分にジュースを買わせまいとする組織の陰謀? 何処だ、何処に消えた!?
彼は必死に探した。そして見つけた。
「やばい!」
五十円玉はコロコロと、坂道を転がっていた。その先には側溝がある。重い金蓋の下に入られたら、もう取り出せない。
「うぉおおおおおおおっ!」
そうは行くかと、ダン! と、踏み込んだ足で地面を蹴り飛ばす。
彼は走った。親友を救うために駆けたメロスのように。下りを利用して一気に最高速に乗る。
だがしかし、彼がどれだけの速さで走ろうともその差は埋めがたい。このままでは五十円玉が全ての希望を呑み込む暗黒の底へと沈んでしまう。
「だりゃ――っ!」
ここで彼は、何と走る事を止めた。同時に転がっていた石を五十円玉目掛けて蹴り飛ばした。ジュースへの想いを――いや念を篭めて。
果たして、石は狙い通りに数度のバウンドを経て、五十円玉に命中した。
チャリーンという音を立てて天に舞う硬貨。キラリと陽光を反射させて、アスファルトの上に落ちた。
「はあー、はぁー。ははは……! どうだ、このヤロォ……!」
彼は己の勝利を誇示するかのように、言い放った。
問題は多少あったが、なんとか乗り切れた。後は可及的速やかにあれを回収して自販機に捧げるのみだ。彼はブワッと吹き出した汗を拭いながら、それに手を伸ばした。
バサバサ――ッ!
その時、影が視界を横切った。影は真っ直ぐ、彼の手を目掛けて襲いかかる。
「カァッ、カァッ!」
「どわっ、カラスだと!? こら! やめろ!!」
カラスは光るものを狙う習性がある。どうやら先程上空に上がった時に目を付けられたようだ。
「くそっ! あっちに行け!」
「カァカァッ!!」
五十円玉を守ろうと、彼は必死にカラスを追い払うべく腕を振るう。カラスも獲物を取られまいと脚や嘴で執拗に五十円玉を狙う。
「コイツ、いい加減に……痛っ!?」
ついにカラスの一撃が、彼の指を突く。
チャリーン!
走った痛みに、硬貨を手放し、五十円玉は再び坂道を転がり出した。
「しまった!!」
またしても勢い良く転がっていく五十円玉。彼はカラスとバッグを振り払って走り出した。
「くっそぉおおおおおおおっ!」
再び地面を蹴って、飛ぶ様に駆ける。轟々と風を巻いて、己の影さえも置き去りにするが如きその走り、正に韋駄天の化身。
だが、五十円玉はそんな彼を嘲笑うかのように、その勢いを増して、さながら流星の如く、迷い無く真っ直ぐに坂道を下っていく。
「うがぁああああああっ!」
彼は更に力を振り絞る。大腿二頭、四頭筋が、半腱様筋が、半膜様筋が、下腿三頭筋が、長指伸筋が限界を超えて唸る。それらが生み出すエネルギーを大殿筋、外腹斜筋が次の一歩へと繋げる。
命を、魂を燃やして滾るそれは、まるでダッシュの永久機関。一周りする度に限界を突き抜けるその全ては、あの銀の輝きをこの手に取り戻すために。
そして、シュワっと爽やかな一時をこの手にするために。
その執念が、徐々に硬貨との距離を詰めさせる。あと少し、もうちょっと――。
「うぉおおおっ―――だっ!」
坂が終わった瞬間、地を這うように振り抜かれた手が硬貨を掴んだ。勝利を確信したその時、神は彼に更なる危機をもたらす。
パパーッ!!
けたたましいクラクション。乗用車が突っ込んでくる。走った勢いで車道に飛び出していたのだ。
普通ならば足を竦ませ、身を固まらせていただろう。だがしかし、彼は違った。今の彼はこの状況に恐怖を感じてなどいなかった。
彼の胸中にあったのは――怒り。憤怒だ。
自分はただジュースを買おうとしただけだ。熱い中を歩き続け、その乾きを癒したいと思っただけだ。だというのに、どうしてこうも邪魔ばかり入るのか。その上、車にまで撥ねられそうになるなど――巫山戯るな!
「ドッシャァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
彼は迷いなく地を蹴った。高さではない。速さで躱すために。更に体を捻り込んで下半身を強引に天へと掲げる。
両足揃えの空中側転半回転捻り。
彼は体操の経験など無い素人だ。人並みの運動神経しか持っていない。それでも、この理不尽に対する怒りが肉体に一瞬だけ、限界を超越させたのだ。
ズシャアア! と、見事に着地を決めた彼は、ゆっくりとその手を開いた。
「ふ……ふふふ……ハハハ……ッ!」
そこには、運命の悪戯という試練に打ち勝った彼を祝福する、銀色の輝きがしっかりとあった。
◇ ◇ ◇
「はぁ、はぁ……暑い。足がもう、ヤバイ……」
リミットブレイクを果たした足はガクガクと震える。手も腰も背中も、乳酸を多分に含んでパンパンである。それでもなんとか再度坂道を上がっていく。途中で、投げ出したバッグも拾い、降りてきた人にぶつかりそうになりながら、やっと自販機の前まで彼は帰ってきた。
汗は滝のように噴き出し熱帯の気候をシャツの中に作る。しかし喉は真逆に砂漠の砂のようにカラカラで、最早生半可な爽やかさでは収まりが着かないまでになっていた。
さて、この乾きをどうしてくれようか。と、震える手で硬貨を入れようとして――気が付いた。
ボタンの全てが点灯している。つい先程まで光っていなかった箇所があった筈なのに、だ。
何があった? どうしてこうなっている?
彼はまともに働かない思考で必死に考えた。そしてハッとして、坂の下を見た。
そこには、さっきぶつかりそうになった人の背中。その手には五百㍉ジュースの缶。逆の手にはビニール袋。中身はやはり五百㍉のジュース缶。
「そんな……まさか……!」
そう。彼の想像は正しかった。彼が五十円玉を追いかけている間に、全部買われてしまったのだ。
「俺の……五十円玉使われてる」
しかも、入れてあったお金もそこには無かった。ガックリと崩れ落ちる彼。さっきの人物を追いかける気力も体力も、もう無い。文字通りに精魂尽き果て、生きる屍と化す。
「…………」
どれ程そうしていたか。彼はよろよろと立ち上がると、足を引き摺るようにして坂を登りだした。
せめて、せめて涼しい場所で冷たいものを。この熱波から逃れられる聖地へと。
ズルリズルリ、フラリフラリ。虚ろな瞳がただ坂の頂上を映す。
そうして、ようやく坂を登り切った彼の瞳に飛び込んできたのは、ガラス張りの外観を備えた市立図書館。
「はぁ……はぁ……水……冷たい水……!」
口元にうすら笑いを浮かべて、彼は歩く。最後の力を振り絞って。オアシスはもうすぐそこだ。
残り3メートル。2メートル。1メートル―――0メートル。
[本日 休館日]
そこには運命に敗北し、燃え尽きた灰だけが残されていた。
※この小説の6割は事実から出来ています。