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灯火の呪いを刻まれた王女 ― 水の都は彼女の檻、そして聖域

掲載日:2026/04/08

灯火の王女と永久の媒体

 祭りの夜は、嘘をつく。


 どん。


 花火が上がる。赤が散る。金が砕ける。白が落ちる。運河の水面が揺れ、都市全体がひと息に輝いた。


 セレスティアは冷たいテラスの石に膝をついて、欄干の向こうを見下ろしていた。


 遠い。


 橋一本分の喧騒が、ひどく遠かった。


 笑い声が聞こえる。歌声が聞こえる。仮面の群衆が運河沿いを踊りながら流れていく。白いドレスが弾むたびに、ガラス灯の光が水面を揺らした。赤提灯の橙。街灯の白。水面に溶ける金。重なるたびに都市が呼吸しているみたいだった。


 光と水の謝肉祭。年に一度、この水の都が全部輝く夜。


 セレスティア・ルーミナ・ヴァルティア、十七歳。リュミナール王国第一王女。


 この都市で、一番遠い場所にいる。


「……綺麗」


 誰も聞いていない言葉を、つぶやいた。


 欄干は冷たかった。運河から吹き上がる風は潮の匂いで、祭りの揚げ菓子の甘い香りと混ざって、焦がした砂糖と塩と石畳の湿り気になっていた。指先がかじかむ。膝の下の石が冷えている。


 でも、立ち上がる気にはなれなかった。


 立ち上がれば、部屋に戻るしかない。部屋に戻れば、終わりだ。窓の向こうに光があっても、届かない。


 せめてここで、遠くから見ていたかった。


 セレスティアは「王国の恥」と呼ばれていた。光魔法を制御できない欠陥品。七歳のとき、感情が高ぶって謁見室のガラス窓を全部砕いた。九歳のとき、光の奔流が廊下を走り、侍女を二人倒した。十二歳のとき、怒りで庭の噴水を爆発させた。


 だから、遠ざけられた。


 水の都の南端、小さな島の離宮。橋があっても、誰も渡ってこない。王族の命令だから。


 華やかな檻。


 それがここだ。


 欄干の石を指でなぞる。ざらり。冷たい。


 古いランタンを手に取った。ガラス製。表面に細かな傷がついていて、誰かが丁寧に磨き込んだ跡がある。


「……行くよ」


 自分に言い聞かせる習慣が、いつのまにかついた。


 ランタンに触れた。


 ほわ、と。


 指先から光が滲む。白く、静かな光がガラスの内側に宿る。光魔法の基本。王族なら誰でも使える。


 でも、セレスティアのそれは、ほんの少しだけ違った。


 光が、じわり、と広がる。ガラスの表面を伝い、欄干の石を伝い、水面に落ちる。屈折して、対岸の街灯に届く。点が線になる。線が広がる。細い光の筋が夜の石畳に複雑な模様を描く。


 ちいさな、ちいさな光の連鎖。


 灯火の呪い。


 触れたガラスを起点に、周囲の光を増幅して繋げる。本来なら小さな光魔法が、ガラスと水の反射を経由することで、何倍にも膨れ上がる。


 美しくて、手に負えない。


「……ここまで」


 手を離す。光がふっと消えた。


 はあ、と息をつく。


 これ以上流し込むと、離宮全体のランタンが一斉に爆発する。最初の頃、よくやらかした。廊下のガラスを三枚割った。侍女が青い顔で走ってきた。


 今はもう、少しだけうまくなった。


 どん、どん。花火がまた上がる。運河の向こうで歓声が弾けた。


 今夜も、一人だ。


 石の床に腰を下ろし、膝を抱える。どうせ見る人間もいない。


 遠くで歌声が上がる。高い声と低い声が絡み合って、水面に広がる。


 目を閉じた。音だけ聞いていると、すぐそこにいる気がした。


-----


 その声が聞こえたのは、午前をまわった頃だった。


「姫様! 窓、開けてもらえますか!」


 テラスの下から細い声が飛んでくる。


 欄干から顔を出すと、運河に小舟が浮かんでいた。舟の上に少女が一人、立っている。十四か十五くらい。配達用の大きな籠を抱えて、こっちに手を振っていた。


「……誰」


「ミカです! 水路配達屋の見習い! 王命で姫様への届け物は禁止なんですけど、母から頼まれたので来ました!」


 堂々と言い切る。


「王命を破ってきたの?」


「はい! だって母が『王女様に届けないと気が済まない』って言い張るんで!」


「……何を持ってきたの」


「魚介のパイと干し葡萄と、謝肉祭の仮面を一つ。母が作りました。ガラスの仮面です」


 魚介のパイ。


 その単語が脳に直撃した。


「……上がってきて」


 小扉を開ける。ミカという少女が石段を駆け上がってくる。籠を抱えたまま軽やかに、まるで毎日ここに来ているかのような足取りで。


「お届け物です!」


 籠を受け取る。重い。本当に大きなパイが入っていた。葡萄も、仮面も。


「お母さんは昔、宮廷の仮面師だったんです。今は商人街で細々と作ってます。ガラスの仮面は姫様にしか作れないって言ってて」


「……なんで私に」


「さあ。でも母、ずっとそう言ってるんです。姫様の光は特別だから、ちゃんとした媒体が必要だって」


 仮面を取り出した。白いガラス製。表面に細かな光の模様が彫られている。銀の縁取り。精緻な作りだ。


 当ててみた。


 ほわり、と光った。


 仮面が光魔法に反応する。模様が輝き出す。細い光の線が仮面の表面を走り、テラス全体に複雑な影を落とす。


 ミカが息を飲んだ。


「……きれい」


「ごめん、びっくりしたでしょう」


「いえ! きれいです! 光の通りがすごく良い」


 手の中で仮面を傾ける。模様に沿って光が流れる方向が変わる。水面への反射が変わる。街灯への延び方が変わる。


 このガラスは、伝わりがいい。


 普通のランタンとは明らかに違う。光が迷わない。


「……お母さんの仕事、本物だわ」


「そうでしょう! またきます! 次は海産物の燻製を!」


「……毎回来るつもり?」


「はい!」


 迷いなく言い切って、ミカは小扉から出ていった。舟に飛び乗り、漕ぎ出す音が聞こえる。


 セレスティアは仮面を手のひらの上で転がした。


 良質なガラスほど、光の増幅率が高い。師からそう習った。でもここまで違うとは思わなかった。


 光が迷わない。


 その感覚が、指先に残っていた。


 花火がまた上がる。どん。


 一人だけど、少しだけ、あたたかかった。


-----


 異変が起きたのは、深夜に差し掛かった頃だった。


 ずわ、と。


 空気の質が変わった。


 潮の匂いが消えた。甘い祭りの香りも消えた。代わりに、腐った葉みたいな、濡れた鉄みたいな、冷たい匂いが漂い始めた。湿度が上がる。肌にまとわりつくような重さが空気に混じる。


 顔を上げる。


 運河の向こう、祭りの会場に、黒い霧が漂い始めていた。ゆっくりと。意思を持つように。街灯の光を端から飲み込みながら。


 明かりが消えるたびに、水面が黒くなる。反射が消える。都市の輝きが、じわじわと失われていく。


「……影の軍勢」


 唇の中で言葉が落ちた。


 年に一度、この都市を狙う異界の存在。霧の中から現れる人型の怪物。光を嫌い、闇を食らい、都市を浸食する。


 なぜ今夜。


 祭りの会場から悲鳴が上がった。仮面の群衆が逃げ惑っている。橋の上で押し合う人々。運河に落ちる者もいる。花火の音に混じって、確かな恐怖の声が波のように広がっていく。


 街灯が一本、消えた。また一本、消えた。


 闇が、こちらに向かってくる。


「……やるよ」


 ランタンを掴む。光を流す。ほわり、と光が広がる。離宮のランタン全部に連鎖する。石壁の反射を伝い、水面へ。


 まだ小さい。都市の向こうまでは届かない。


 霧が橋を越えてきた。


 ぞわり。


 一体目が現れる。人型。黒く、霧を纏う。輪郭がぼやけている。目がない。口がない。でも確かに、重力がある。意思がある。こちらに向かってくる。


 もっと大きく。


 欄干を両手で掴んだ。水面を見る。


 あの水面を媒体にできれば。


 師から習った。光魔法は水に反射する。水面の面積が広ければ広いほど、増幅率が上がる。でも都市規模の水面を媒体にしたことは一度もなかった。


 失敗すれば光が暴走する。


 ガラスが割れる。


 自分に跳ね返る。


「姉様!!」


 橋の上から声が飛んできた。


 振り向く。


 リリア。妹王女。十四歳の妹が、仮面をずり上げながら橋を走ってくる。泣いている。服が乱れている。後ろから黒い霧が追ってくる。


「リリア!」


「橋が! 橋が塞がれてて、でも一本だけ道があって! 姉様、霧が都市中に広がってる!!」


 妹が小扉を飛び込んでくる。肩を掴んだ。


「怪我は?」


「ない。姉様、この光は何?」


 テラスのランタンが全部、淡い光を放っていた。


「私の魔法」


「でも、姉様は制御できないって……」


「できるよ。少しは」


 すっぱり言い切る。


 リリアが涙をぬぐって、こくりとうなずいた。


「……都市を守れる?」


「やってみる」


 嘘だったかもしれない。


 でも、やるしかなかった。


-----


 霧が橋を越えた。


 一体目が欄干の上に姿を現す。ぎり、と仮面を握る。仮面から光を流す。ぱっ、と白い光が拡散した。


 仮面の模様が輝く。テラスのランタン全部に連鎖する。欄干を伝い、石壁を伝い、水面へ落ちる。ど、と光が運河に広がった。


 一体目が光に触れた瞬間、消えた。霧が散った。ただの夜気に戻った。


「……消えた」


 リリアが呆然と呟く。


「まだいる!」


 二体目、三体目が橋を越えようとしている。四体目が水面を這ってくる。


 光を増やす。水面への反射を強める。運河の対岸の街灯に光が届く。街灯が輝く。その光がさらに向こうの建物のガラスに反射する。連鎖が広がる。


 ざわ、と光の壁ができた。


 二体目が触れて消えた。三体目が揺らいで、消えた。四体目が後退する。


 押している。


 でも、霧の奥に、まだ無数の影がいる。このままでは時間の問題だ。


「……この光は邪魔だな、姫様」


 橋の端から、男の声がした。


 振り向く。


 橋の上に、一人の男が立っていた。太っている。高価な羅紗の上着。金の指輪を何本もはめている。霧の中にいるのに、無傷だった。


 コレルノ・ファウスト。商業ギルドの長。都市政治の実権を握る男。


「……密約を結んでいるの。影の軍勢と」


「賢い」


 ファウストが笑った。笑い方が普通の男の笑い方だった。悪役の笑い方ではなかった。それがかえって、ひどく怖かった。


「私の息子は三年前、影の呪いに侵されました。医師には匙を投げられた。王族の光魔法師にも断られた。ならば影の王と取引して、息子を解放してもらおうと。その代わりに、この都市を差し出す。シンプルな話でしょう」


「……その息子さんは、今どこにいるの」


「影の王の手の中に」


「まだ生きているの?」


「……わからない」


 初めて、男の声が揺れた。


「わからない、けれど、取引した。都市を差し出せば、息子を返すと。それだけを信じて三年間」


「その約束、本当に履行されると思ってるの?」


「…………」


「影の王を、信用しているの? 都市を売り渡すほどの取引相手を。三年間かけて準備するほどの相手を。本当に、信用している?」


 男が口を開かない。


「もし約束を破られたら。都市も消えて、息子さんも戻らない。それが怖くないの?」


「…………怖い」


 低い声だった。


「怖い。だから三年間、考え続けた。でも他に手がなかった。あなた方王族は動かない。医師は匙を投げる。私にできることは、取引だけだった」


「私なら動ける」


 沈黙。


「影の呪いに侵された人間を、光で浄化できるかもしれない」


「できるはずがない」


「試したことはあるの?」


 霧が揺れる。影が一体、光の壁に触れて消えた。また一体。光は動いている。でも奥の数は減っていない。


「根拠を言って」


「影は光の反対。呪いの核を砕けば、侵食の源が消える。理屈としては通るでしょ」


「理屈だけで動けるほど、私は楽観的ではない」


「じゃあなぜ、まだここに立っているの」


 言葉が出てしまってから、強すぎたかと思った。でも取り消さなかった。


 ファウストが唇を噛んだ。


「……場所を教えなければ、都市は呑まれる」


「そうなったとしても、あなたの息子さんが戻る保証はない。影の王が約束を守るかどうか。あなたは本当に、その確率を信じているの?」


「…………」


「一つだけ教えて。息子さんが影に呑まれた場所」


「なぜ」


「影の王の核はそこにある可能性がある。核を光で砕けば、呪いが解けるかもしれない。都市も守れる。息子さんも戻るかもしれない。どちらか一方しか選べないより、両方に賭ける方が良くない?」


 長い沈黙。


 橋の向こうで霧がぼう、と膨れた。


「……信じる理由がない」


「そうね。でも信じない理由も、もう崩れかけてる」


 ファウストが目を細めた。


「…………都市の北東の運河」


 絞り出すような声だった。


「水路の底に黒い珊瑚が沈んでいる。影の王の依代だ。密約の証として、沈めさせられた」


 セレスティアは踵を返した。


「待て」


「待てない。時間がない」


「……姫様」


 足を止めずに振り返る。


「ありがとう」


 男が何か言おうとして、口を閉じた。


 セレスティアは走り出した。


-----


「姉様!」


 後ろからリリアが追ってくる。


「どこに行くの!」


「灯台。一番上から光を放てば、北東の運河まで届く」


「危ない! 光が制御できなくなったら」


「なるかもしれない」


 足を止めずに言う。


「でも、ここから光を届けられるのは、今夜、私だけだから」


 螺旋階段を駆け上がる。ふ、ふ、と息が切れる。膝が笑いそうになる。


 灯台の頂上。


 丸い小さな部屋に、大きなガラスのランタンがある。普通のものの何十倍もの大きさ。嵐の夜でも海の向こうまで光を届けるための、最大の増幅器。窓は四方に向いている。


 両手をランタンの表面に当てた。冷たい。ガラスの表面が、手のひらに馴染む。


「……全部、繋げる」


 胸に仮面を押し当てる。光を流し込む。


 ほわ、と。


 ランタンが揺れた。内側から光が滲む。最初は小さく、でも急速に膨れ上がる。


 ど、と光が爆発した。


 四方の窓から放たれた光が、運河の水面に落ちる。水面が割れるみたいに光が広がる。そこから反射して、街灯に伝わる。街灯から橋のガラス飾りに伝わる。橋から、逃げる市民の提灯に伝わる。


 点々と、点々と。


 光が都市の中を走っていく。


 北東の運河まで、届け。


 ぎゅ、と仮面を胸に押し当てる。


 手のひらが熱い。ガラスがびりびりと振動している。ランタンが揺れる。窓のガラスが鳴る。


 痛い。


 光が跳ね返ってくる。ガラスが光を飲んで、増幅して、また放出して、一部が手に戻ってくる。


 熱い。熱い。


 視界が白くなる。


 でも。


 どんどん。


 どんどん。


 光が走る。


 北東の運河の上で、光が一点に集まった。水面が割れる。深く、深く。黒い珊瑚が光に晒される。


 ぱきっ、と。


 高い音がした。


 その瞬間、都市全体の霧が一斉に散った。


 ざあ、と。


 風が吹いた。潮の匂いが戻る。揚げ菓子の甘い香りが戻る。


 影の怪物たちが消えた。黒い霧が白い光の奔流に飲み込まれ、ただの夜気に戻る。


 静寂。


 セレスティアはランタンから手を離した。どっ、と膝をついた。腕が震えている。手のひらに赤い跡がついている。


 仮面を見た。表面にひびが入っていた。でも割れてはいない。


「……よかった」


 声が出なかった。口の形だけ動いた。


 それで充分だった。


-----


 灯台から降りると、リリアが階段の途中に座って待っていた。


「怪我した?」


「手のひらがちょっと」


 引っ張られて、離宮の室内に連れていかれる。薬箱が出てくる。布で手のひらを包んでくれる。丁寧に、ゆっくりと。


「……ありがとう」


「当たり前でしょ」


 リリアが鼻をすする音がした。


「泣いてるの?」


「泣いてない」


「声が」


「泣いてない!」


 ぽん、と頭を小突かれた。


 お互いに黙った。


 テラスから、運河の音が聞こえてくる。光が戻った都市の音が聞こえてくる。


「姉様」


「なに」


「灯台の光、綺麗だった」


 セレスティアは何も言わなかった。


 でも、少しだけ、息が楽になった。


-----


 テラスに戻ると、ファウストがまだいた。


 橋の手前に立ったまま、動いていなかった。北東の方角を見ていた。


「……息子は」


「影の珊瑚を砕いた。呪いの核が壊れたなら、侵食は止まるはず」


「本当に」


「わからない。でも、可能性はある」


 男が俯いた。長い沈黙の後、ファウストは膝を折った。離宮の前の石畳に、膝をついた。


「……私は都市を売ろうとした」


「うん」


「市民を捨てようとした」


「うん」


「それでも……息子のことを、あなたは」


「あなたの息子さんも、市民の一人でしょ」


 顔を上げたファウストの目に、涙があった。老いた男の涙だった。


「……罰は受ける」


「それはあなたが決めることじゃない。評議会が決める」


「そうだな」


「でも、自首して。全部話して。そうしたら、証言のときに私が一緒に立つ」


「……なぜ」


「あなたがいなければ、珊瑚の場所はわからなかった。その事実はある」


 ファウストが長い息を吐いた。


「……立ってもらうほどのことは、していない」


「それも私が決める」


 男の肩が落ちた。どこかで、運河の水音が聞こえた。


-----


 翌朝、噂が広まった。


 謝肉祭の夜、離宮の灯台から放たれた光が都市全体を救った。影の軍勢を光で浄化した王女がいる。


 市民がおそるおそる橋を渡ってきた。最初は一人、次に三人、それから十人。


 老婆が泥で汚れた膝をついてセレスティアに言った。


「姫様……昨夜の光は、あなたですか」


「うん」


「ありがとうございます」


 それだけだった。


 その中にミカがいた。籠を抱えて、駆けてくる。


「姫様! 無事でしたか! 昨夜の光、見ました!! すごかった!!」


「……あなたの母親の仮面のおかげ」


「え?」


「ガラスの質が良くて、光の伝わりが格段に違った。お母さんに伝えて。助けてもらったって」


 ミカがぽかんとして、次の瞬間、泣き出した。


「……母が喜びます。絶対に」


 ひびの入った仮面を取り出した。表面の模様が、朝の光を受けて輝いている。割れていない。


「修理できる? お母さんに聞いてみて」


「できます、絶対に! 母に見せます!」


 セレスティアは空を見上げた。朝の光が、運河の水面に映っている。きらきら、きらきら。


-----


 ファウストはその日の午後、都市評議会に自首した。密約の全てを報告した。商業ギルドの資料を全部提出した。評議会が騒然となった。


 三日後、北東の運河で一人の男が倒れているのを発見された。ファウストの息子だった。意識はあった。記憶の一部が失われていたが、生きていた。


「奇跡だ」と医師が言った。


 セレスティアは「光の反射と、ちょうど良いガラスのおかげだと思う」と答えた。


 評議会は軟禁命令の見直しを王に上奏した。王からの返答は、まだない。


 でも。


-----


 翌週から、ミカが毎朝舟で来た。海産物の燻製、季節の果物、ハーブの束、焼き菓子。毎回、都市の噂を持ってくる。


「商人街のガラス職人組合が、離宮のランタンを全部新調したいって言ってます」


「……なんで」


「姫様の光魔法を最大限に活かすためだそうです。質の良いガラスほど増幅率が上がるから、って組合長が言ってて」


 セレスティアは欄干に肘をついた。


 組合が離宮のランタンを整備する。光魔法の媒体を、都市全体で管理する。それは、都市とセレスティアの光魔法が連動するということだ。


「……都市が、媒体になる」


「そういうことですよね?」


「そういうことかもしれない」


 きらきら、きらきら。運河の水面が光っている。


 セレスティアはランタンに手を当てた。ほわり、と光が広がる。水面に落ちる。街灯に伝わる。橋の欄干を伝わる。


 ミカの舟の提灯に届いた。提灯がぽっと明るくなった。


「わ!」


 ミカが驚いて、笑う。


「届いた」


「届きました! 姫様!」


 光が、水面を渡った。橋一本向こうまで、届いた。


-----


 光魔法の導師が、離宮の近くに移り住んだのは、それから数日後のことだった。


 七十代の老人。かつて王族の光魔法顧問を務めていたという。今は路地裏に小さな工房を持っている。毎夕、水路沿いに来て、教えてくれる。


「昨夜のあれは見事でした、姫様」


「暴走ではないですか」


「制御という点では暴走に近かった。でも、目的は達成した。光魔法の本質は、制御ではなく、方向です」


「方向?」


「どこに届けたいかを知っていれば、光は自ずと動く。あなたは昨夜、北東の運河に届けたかった。だから届いた」


「でも、手のひらが」


「代償は払いました。それも含めて、見事だった」


 老人が夕空を見上げた。


「都市規模の魔法陣を作りたいと言っていましたね」


「はい」


「できます。ただし時間がかかる」


「どれくらい」


「一年か、二年か。都市中のガラス媒体を把握して、光の流れを設計して、同期のタイミングを体で覚えて。一つずつやっていく作業です」


「やります」


 迷いなく言った。


 老人が目を細めた。


「昨夜まで、あなたはもっと慎重でした」


「今も慎重ですよ」


「でも怖くなくなった」


 セレスティアは欄干に手を当てた。


「……ミカの母親の仮面を使ったとき、光の伝わり方が全然違いました。良いガラスが媒体になると、光が迷わない。都市中がそうなれば、私が迷わなくてもよくなる」


「媒体に頼る、ということですか」


「信頼する、ということです」


 老人が少し笑った。


「師匠、昨夜の私の光は、都市のどこまで届きましたか」


「あなたが見えたものより、ずっと遠くまで」


「どこまで」


「水平線の向こうに出た船から、白い光の柱が見えたそうです。外洋に出ていた船が、昨夜の光を見て港に戻ってきた。船長が言っていました。あの光が灯台だと思ったと」


 灯台。


 セレスティアは空を見た。夕日が、水面に映っている。


「……永久灯台」


「なんですか?」


「なんでもない。ひとつごと」


 欄干の石の冷たさが、手のひらに伝わる。手のひらには、昨夜の赤い跡が残っている。でも。


 少しだけ、誇らしかった。


-----


 王命の見直しは、三ヶ月後に届いた。


 セレスティア・ルーミナ・ヴァルティアの軟禁令は一時停止。都市警護の観点から、離宮での光魔法訓練と、都市内の限定的な移動を認める。


 という、なんとも回りくどい文面だった。


「……一時停止、って」


 ミカが文書を覗き込んで言う。


「これ、完全に解除じゃないですよね?」


「でも、出られる」


「どこに行くんですか?!」


「ガラス職人の工房に行きたい。材料を見たい。あと運河の配置を自分の目で確認したい」


「全部、魔法陣の準備じゃないですか」


「そう」


 ミカが笑い出した。


「普通、自由になったら祭りに行くとか言いませんか?!」


「次の謝肉祭は、都市の光全部を同期させて、影の軍勢を一瞬で浄化したい」


「……それが姫様の祭り参加なんですね」


「そういうこと」


 ミカが籠を差し出す。今日は燻製の魚と、ハーブの束と、小さなランタン。


「あ、これ、母からです。修理した仮面と、携帯用のランタンを一つ」


 ランタンを受け取る。小さい。表面に光の模様が彫られている。持ち手の部分にも細工がある。


「母が言ってました。姫様が街を歩くときに持って歩けるように作ったって」


 手のひらに当てた。ほわり、と光が広がる。光の伝わりが、いい。


「……お母さんに伝えて」


「なんですか?」


「最高の仕事だって」


 ミカが顔をほころばせた。そのまま、泣きそうな顔になった。


「……伝えます」


 運河に舟が出る音がした。


-----


 リリアは週に一度、橋を渡ってくるようになった。たまに、ただ喋りに来る。


「姉様、王都の噂なんですけど」


「なに」


「王様が軟禁命令の完全な解除を検討しているらしいです。侍女の侍女の妹の友達が王都の使用人から聞いた話なんですが」


「……どれだけ伝言ゲーム」


「でも、信憑性はあると思います!」


 セレスティアはお茶を一口飲んだ。


「……どちらでもいい、今は」


「え?」


「軟禁が解けたとしても、すぐにここを出る気はない」


 リリアが目を丸くした。


「なんで? ずっと出たかったんじゃないの?」


「まだ、やることがある」


 テラスの向こうの運河を見る。


「都市全体を媒体にした魔法陣を、完成させたい。昨夜みたいに場当たりで光を繋げるんじゃなくて、都市の光全部を、計画的に同期させる。街灯も、水面も、ガラス建築も、市民の提灯も、全部。それができれば、次に影の軍勢が来ても、一瞬で浄化できる」


 リリアが黙った。


「……壮大だね」


「壮大だよ」


「できるの?」


「できるかどうかわからないから、やってみる」


「姉様、変わったね」


「そう?」


「昨日まで、やってみる、なんて言わなかったよ」


 セレスティアは少し考えた。


「……ミカの母親の仮面のせいかもしれない」


「どういうこと」


「職人の仕事が本物だと、光の伝わりが全然違うんだよ。それを見て、都市中のガラスが全部そうだったら、どこまで届くんだろうって、思った」


 リリアが笑った。「姉様らしいね」


「そう?」


「うん。光の話になると、目が変わるんだよね。昔から」


 セレスティアは欄干の外を見た。


「……ここは、檻だと思っていた」


「今は?」


「今は、ここが一番、光が見えるところだと思ってる」


 リリアが黙った。しばらくして、小さな声で言った。


「それでも、いつか出てきてね」


「うん」


「私、毎週来るから」


「知ってる」


「毎日来てもいい?」


「……週三回は?」


「……まあ、いい」


 また笑い声が上がった。


 どん、と。


 遠くで何かが弾けた。最後の一発が上がって、水面に反射して、都市全体をぱっと照らした。


 赤、金、白。


 光が、都市を渡っていく。


-----


 夕方、導師が来た。


「昨夜の光は、水平線の向こうまで届いた。しかし、あなたはそれを知らずに放った」


「そうです」


「知っていたら、どうしていたと思いますか」


 セレスティアは考えた。


「……怖くて、もう少し抑えていたかもしれない」


「そうです」


「光魔法の最大の敵は、制御しようとする意志です。増幅の天井を決めるのは、あなた自身の想像力の限界です。昨夜は死に物狂いだったから、想像力の制限が外れた」


「……次は、死に物狂いじゃなくても、同じことができますか」


「それが一年か二年かかる理由です」


「でも、方向は分かった。北東の運河に届けたいと思ったから、届いた。次は都市全体に届けたいと思えば、届く。思えるようになるまで、練習するだけです」


「……シンプルですね」


「光は、シンプルなものです」


 老人が路地の方に歩き出す。


「師匠」


「なんですか」


「昨夜、ファウストが場所を教えてくれなければ、届けられなかった。彼を信じたわけじゃないけれど、彼の言葉を使った。それでよかったのかな、と今も思います」


 老人が立ち止まった。


「光は、どこから来ても光です」


「……どういう意味ですか」


「ミカの母親の仮面も、ファウストの言葉も、あなたの妹王女の声も。全部があなたの光の媒体になった。あなたの呪いは、そういうものでしょう」


 セレスティアは黙った。


 灯火の呪い。触れたガラスを起点に、光を増幅して繋げる。


 ガラスだけじゃなかったかもしれない。


 老人が路地に消えた。


 水面がきらきらと光っている。


-----


 セレスティアはテラスに腰を下ろし、ランタンを手に取った。


 古い、ガラス製のもの。傷だらけの、ずっと使ってきたランタン。


 ほわり、と光が広がる。


 水面に落ちる。街灯に伝わる。橋の欄干を伝わる。向こう岸のガラス建築に伝わる。ミカの舟の提灯は、もう帰った後だけど。


 でも、その先にも届いている気がした。


 どこかの職人が磨いたガラスに。誰かが持つ提灯に。水面に映る星に。


「……行くよ」


 自分に言い聞かせる。


 光が広がる。今日は昨日より、少しだけ遠くまで届いた。気がした。


 きらきら、きらきら。


 都市が光っている。


 この光が、いつか都市全体に同期する。魔法陣が完成する。影の軍勢が来ても、一瞬で浄化できる。


 一年か、二年か。


 急がない。


 毎朝ミカが来る。毎週リリアが来る。毎夕導師が来る。


 光の伝わりが、少しずつよくなっていく。


 セレスティアは目を細めた。


 遠く、水平線の向こうに、海が光っている。昨夜の光が届いた場所。船乗りが灯台だと思った場所。


 この光が、いつかあそこまで届く。


 今日はここまでで、充分だ。


 灯火の王女は、今日も光を灯す。


 水の都に、光の連鎖が広がる。


 それは彼女の呪いで、彼女の聖域で、彼女の誇りだった。

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