灯火の呪いを刻まれた王女 ― 水の都は彼女の檻、そして聖域
灯火の王女と永久の媒体
祭りの夜は、嘘をつく。
どん。
花火が上がる。赤が散る。金が砕ける。白が落ちる。運河の水面が揺れ、都市全体がひと息に輝いた。
セレスティアは冷たいテラスの石に膝をついて、欄干の向こうを見下ろしていた。
遠い。
橋一本分の喧騒が、ひどく遠かった。
笑い声が聞こえる。歌声が聞こえる。仮面の群衆が運河沿いを踊りながら流れていく。白いドレスが弾むたびに、ガラス灯の光が水面を揺らした。赤提灯の橙。街灯の白。水面に溶ける金。重なるたびに都市が呼吸しているみたいだった。
光と水の謝肉祭。年に一度、この水の都が全部輝く夜。
セレスティア・ルーミナ・ヴァルティア、十七歳。リュミナール王国第一王女。
この都市で、一番遠い場所にいる。
「……綺麗」
誰も聞いていない言葉を、つぶやいた。
欄干は冷たかった。運河から吹き上がる風は潮の匂いで、祭りの揚げ菓子の甘い香りと混ざって、焦がした砂糖と塩と石畳の湿り気になっていた。指先がかじかむ。膝の下の石が冷えている。
でも、立ち上がる気にはなれなかった。
立ち上がれば、部屋に戻るしかない。部屋に戻れば、終わりだ。窓の向こうに光があっても、届かない。
せめてここで、遠くから見ていたかった。
セレスティアは「王国の恥」と呼ばれていた。光魔法を制御できない欠陥品。七歳のとき、感情が高ぶって謁見室のガラス窓を全部砕いた。九歳のとき、光の奔流が廊下を走り、侍女を二人倒した。十二歳のとき、怒りで庭の噴水を爆発させた。
だから、遠ざけられた。
水の都の南端、小さな島の離宮。橋があっても、誰も渡ってこない。王族の命令だから。
華やかな檻。
それがここだ。
欄干の石を指でなぞる。ざらり。冷たい。
古いランタンを手に取った。ガラス製。表面に細かな傷がついていて、誰かが丁寧に磨き込んだ跡がある。
「……行くよ」
自分に言い聞かせる習慣が、いつのまにかついた。
ランタンに触れた。
ほわ、と。
指先から光が滲む。白く、静かな光がガラスの内側に宿る。光魔法の基本。王族なら誰でも使える。
でも、セレスティアのそれは、ほんの少しだけ違った。
光が、じわり、と広がる。ガラスの表面を伝い、欄干の石を伝い、水面に落ちる。屈折して、対岸の街灯に届く。点が線になる。線が広がる。細い光の筋が夜の石畳に複雑な模様を描く。
ちいさな、ちいさな光の連鎖。
灯火の呪い。
触れたガラスを起点に、周囲の光を増幅して繋げる。本来なら小さな光魔法が、ガラスと水の反射を経由することで、何倍にも膨れ上がる。
美しくて、手に負えない。
「……ここまで」
手を離す。光がふっと消えた。
はあ、と息をつく。
これ以上流し込むと、離宮全体のランタンが一斉に爆発する。最初の頃、よくやらかした。廊下のガラスを三枚割った。侍女が青い顔で走ってきた。
今はもう、少しだけうまくなった。
どん、どん。花火がまた上がる。運河の向こうで歓声が弾けた。
今夜も、一人だ。
石の床に腰を下ろし、膝を抱える。どうせ見る人間もいない。
遠くで歌声が上がる。高い声と低い声が絡み合って、水面に広がる。
目を閉じた。音だけ聞いていると、すぐそこにいる気がした。
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その声が聞こえたのは、午前をまわった頃だった。
「姫様! 窓、開けてもらえますか!」
テラスの下から細い声が飛んでくる。
欄干から顔を出すと、運河に小舟が浮かんでいた。舟の上に少女が一人、立っている。十四か十五くらい。配達用の大きな籠を抱えて、こっちに手を振っていた。
「……誰」
「ミカです! 水路配達屋の見習い! 王命で姫様への届け物は禁止なんですけど、母から頼まれたので来ました!」
堂々と言い切る。
「王命を破ってきたの?」
「はい! だって母が『王女様に届けないと気が済まない』って言い張るんで!」
「……何を持ってきたの」
「魚介のパイと干し葡萄と、謝肉祭の仮面を一つ。母が作りました。ガラスの仮面です」
魚介のパイ。
その単語が脳に直撃した。
「……上がってきて」
小扉を開ける。ミカという少女が石段を駆け上がってくる。籠を抱えたまま軽やかに、まるで毎日ここに来ているかのような足取りで。
「お届け物です!」
籠を受け取る。重い。本当に大きなパイが入っていた。葡萄も、仮面も。
「お母さんは昔、宮廷の仮面師だったんです。今は商人街で細々と作ってます。ガラスの仮面は姫様にしか作れないって言ってて」
「……なんで私に」
「さあ。でも母、ずっとそう言ってるんです。姫様の光は特別だから、ちゃんとした媒体が必要だって」
仮面を取り出した。白いガラス製。表面に細かな光の模様が彫られている。銀の縁取り。精緻な作りだ。
当ててみた。
ほわり、と光った。
仮面が光魔法に反応する。模様が輝き出す。細い光の線が仮面の表面を走り、テラス全体に複雑な影を落とす。
ミカが息を飲んだ。
「……きれい」
「ごめん、びっくりしたでしょう」
「いえ! きれいです! 光の通りがすごく良い」
手の中で仮面を傾ける。模様に沿って光が流れる方向が変わる。水面への反射が変わる。街灯への延び方が変わる。
このガラスは、伝わりがいい。
普通のランタンとは明らかに違う。光が迷わない。
「……お母さんの仕事、本物だわ」
「そうでしょう! またきます! 次は海産物の燻製を!」
「……毎回来るつもり?」
「はい!」
迷いなく言い切って、ミカは小扉から出ていった。舟に飛び乗り、漕ぎ出す音が聞こえる。
セレスティアは仮面を手のひらの上で転がした。
良質なガラスほど、光の増幅率が高い。師からそう習った。でもここまで違うとは思わなかった。
光が迷わない。
その感覚が、指先に残っていた。
花火がまた上がる。どん。
一人だけど、少しだけ、あたたかかった。
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異変が起きたのは、深夜に差し掛かった頃だった。
ずわ、と。
空気の質が変わった。
潮の匂いが消えた。甘い祭りの香りも消えた。代わりに、腐った葉みたいな、濡れた鉄みたいな、冷たい匂いが漂い始めた。湿度が上がる。肌にまとわりつくような重さが空気に混じる。
顔を上げる。
運河の向こう、祭りの会場に、黒い霧が漂い始めていた。ゆっくりと。意思を持つように。街灯の光を端から飲み込みながら。
明かりが消えるたびに、水面が黒くなる。反射が消える。都市の輝きが、じわじわと失われていく。
「……影の軍勢」
唇の中で言葉が落ちた。
年に一度、この都市を狙う異界の存在。霧の中から現れる人型の怪物。光を嫌い、闇を食らい、都市を浸食する。
なぜ今夜。
祭りの会場から悲鳴が上がった。仮面の群衆が逃げ惑っている。橋の上で押し合う人々。運河に落ちる者もいる。花火の音に混じって、確かな恐怖の声が波のように広がっていく。
街灯が一本、消えた。また一本、消えた。
闇が、こちらに向かってくる。
「……やるよ」
ランタンを掴む。光を流す。ほわり、と光が広がる。離宮のランタン全部に連鎖する。石壁の反射を伝い、水面へ。
まだ小さい。都市の向こうまでは届かない。
霧が橋を越えてきた。
ぞわり。
一体目が現れる。人型。黒く、霧を纏う。輪郭がぼやけている。目がない。口がない。でも確かに、重力がある。意思がある。こちらに向かってくる。
もっと大きく。
欄干を両手で掴んだ。水面を見る。
あの水面を媒体にできれば。
師から習った。光魔法は水に反射する。水面の面積が広ければ広いほど、増幅率が上がる。でも都市規模の水面を媒体にしたことは一度もなかった。
失敗すれば光が暴走する。
ガラスが割れる。
自分に跳ね返る。
「姉様!!」
橋の上から声が飛んできた。
振り向く。
リリア。妹王女。十四歳の妹が、仮面をずり上げながら橋を走ってくる。泣いている。服が乱れている。後ろから黒い霧が追ってくる。
「リリア!」
「橋が! 橋が塞がれてて、でも一本だけ道があって! 姉様、霧が都市中に広がってる!!」
妹が小扉を飛び込んでくる。肩を掴んだ。
「怪我は?」
「ない。姉様、この光は何?」
テラスのランタンが全部、淡い光を放っていた。
「私の魔法」
「でも、姉様は制御できないって……」
「できるよ。少しは」
すっぱり言い切る。
リリアが涙をぬぐって、こくりとうなずいた。
「……都市を守れる?」
「やってみる」
嘘だったかもしれない。
でも、やるしかなかった。
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霧が橋を越えた。
一体目が欄干の上に姿を現す。ぎり、と仮面を握る。仮面から光を流す。ぱっ、と白い光が拡散した。
仮面の模様が輝く。テラスのランタン全部に連鎖する。欄干を伝い、石壁を伝い、水面へ落ちる。ど、と光が運河に広がった。
一体目が光に触れた瞬間、消えた。霧が散った。ただの夜気に戻った。
「……消えた」
リリアが呆然と呟く。
「まだいる!」
二体目、三体目が橋を越えようとしている。四体目が水面を這ってくる。
光を増やす。水面への反射を強める。運河の対岸の街灯に光が届く。街灯が輝く。その光がさらに向こうの建物のガラスに反射する。連鎖が広がる。
ざわ、と光の壁ができた。
二体目が触れて消えた。三体目が揺らいで、消えた。四体目が後退する。
押している。
でも、霧の奥に、まだ無数の影がいる。このままでは時間の問題だ。
「……この光は邪魔だな、姫様」
橋の端から、男の声がした。
振り向く。
橋の上に、一人の男が立っていた。太っている。高価な羅紗の上着。金の指輪を何本もはめている。霧の中にいるのに、無傷だった。
コレルノ・ファウスト。商業ギルドの長。都市政治の実権を握る男。
「……密約を結んでいるの。影の軍勢と」
「賢い」
ファウストが笑った。笑い方が普通の男の笑い方だった。悪役の笑い方ではなかった。それがかえって、ひどく怖かった。
「私の息子は三年前、影の呪いに侵されました。医師には匙を投げられた。王族の光魔法師にも断られた。ならば影の王と取引して、息子を解放してもらおうと。その代わりに、この都市を差し出す。シンプルな話でしょう」
「……その息子さんは、今どこにいるの」
「影の王の手の中に」
「まだ生きているの?」
「……わからない」
初めて、男の声が揺れた。
「わからない、けれど、取引した。都市を差し出せば、息子を返すと。それだけを信じて三年間」
「その約束、本当に履行されると思ってるの?」
「…………」
「影の王を、信用しているの? 都市を売り渡すほどの取引相手を。三年間かけて準備するほどの相手を。本当に、信用している?」
男が口を開かない。
「もし約束を破られたら。都市も消えて、息子さんも戻らない。それが怖くないの?」
「…………怖い」
低い声だった。
「怖い。だから三年間、考え続けた。でも他に手がなかった。あなた方王族は動かない。医師は匙を投げる。私にできることは、取引だけだった」
「私なら動ける」
沈黙。
「影の呪いに侵された人間を、光で浄化できるかもしれない」
「できるはずがない」
「試したことはあるの?」
霧が揺れる。影が一体、光の壁に触れて消えた。また一体。光は動いている。でも奥の数は減っていない。
「根拠を言って」
「影は光の反対。呪いの核を砕けば、侵食の源が消える。理屈としては通るでしょ」
「理屈だけで動けるほど、私は楽観的ではない」
「じゃあなぜ、まだここに立っているの」
言葉が出てしまってから、強すぎたかと思った。でも取り消さなかった。
ファウストが唇を噛んだ。
「……場所を教えなければ、都市は呑まれる」
「そうなったとしても、あなたの息子さんが戻る保証はない。影の王が約束を守るかどうか。あなたは本当に、その確率を信じているの?」
「…………」
「一つだけ教えて。息子さんが影に呑まれた場所」
「なぜ」
「影の王の核はそこにある可能性がある。核を光で砕けば、呪いが解けるかもしれない。都市も守れる。息子さんも戻るかもしれない。どちらか一方しか選べないより、両方に賭ける方が良くない?」
長い沈黙。
橋の向こうで霧がぼう、と膨れた。
「……信じる理由がない」
「そうね。でも信じない理由も、もう崩れかけてる」
ファウストが目を細めた。
「…………都市の北東の運河」
絞り出すような声だった。
「水路の底に黒い珊瑚が沈んでいる。影の王の依代だ。密約の証として、沈めさせられた」
セレスティアは踵を返した。
「待て」
「待てない。時間がない」
「……姫様」
足を止めずに振り返る。
「ありがとう」
男が何か言おうとして、口を閉じた。
セレスティアは走り出した。
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「姉様!」
後ろからリリアが追ってくる。
「どこに行くの!」
「灯台。一番上から光を放てば、北東の運河まで届く」
「危ない! 光が制御できなくなったら」
「なるかもしれない」
足を止めずに言う。
「でも、ここから光を届けられるのは、今夜、私だけだから」
螺旋階段を駆け上がる。ふ、ふ、と息が切れる。膝が笑いそうになる。
灯台の頂上。
丸い小さな部屋に、大きなガラスのランタンがある。普通のものの何十倍もの大きさ。嵐の夜でも海の向こうまで光を届けるための、最大の増幅器。窓は四方に向いている。
両手をランタンの表面に当てた。冷たい。ガラスの表面が、手のひらに馴染む。
「……全部、繋げる」
胸に仮面を押し当てる。光を流し込む。
ほわ、と。
ランタンが揺れた。内側から光が滲む。最初は小さく、でも急速に膨れ上がる。
ど、と光が爆発した。
四方の窓から放たれた光が、運河の水面に落ちる。水面が割れるみたいに光が広がる。そこから反射して、街灯に伝わる。街灯から橋のガラス飾りに伝わる。橋から、逃げる市民の提灯に伝わる。
点々と、点々と。
光が都市の中を走っていく。
北東の運河まで、届け。
ぎゅ、と仮面を胸に押し当てる。
手のひらが熱い。ガラスがびりびりと振動している。ランタンが揺れる。窓のガラスが鳴る。
痛い。
光が跳ね返ってくる。ガラスが光を飲んで、増幅して、また放出して、一部が手に戻ってくる。
熱い。熱い。
視界が白くなる。
でも。
どんどん。
どんどん。
光が走る。
北東の運河の上で、光が一点に集まった。水面が割れる。深く、深く。黒い珊瑚が光に晒される。
ぱきっ、と。
高い音がした。
その瞬間、都市全体の霧が一斉に散った。
ざあ、と。
風が吹いた。潮の匂いが戻る。揚げ菓子の甘い香りが戻る。
影の怪物たちが消えた。黒い霧が白い光の奔流に飲み込まれ、ただの夜気に戻る。
静寂。
セレスティアはランタンから手を離した。どっ、と膝をついた。腕が震えている。手のひらに赤い跡がついている。
仮面を見た。表面にひびが入っていた。でも割れてはいない。
「……よかった」
声が出なかった。口の形だけ動いた。
それで充分だった。
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灯台から降りると、リリアが階段の途中に座って待っていた。
「怪我した?」
「手のひらがちょっと」
引っ張られて、離宮の室内に連れていかれる。薬箱が出てくる。布で手のひらを包んでくれる。丁寧に、ゆっくりと。
「……ありがとう」
「当たり前でしょ」
リリアが鼻をすする音がした。
「泣いてるの?」
「泣いてない」
「声が」
「泣いてない!」
ぽん、と頭を小突かれた。
お互いに黙った。
テラスから、運河の音が聞こえてくる。光が戻った都市の音が聞こえてくる。
「姉様」
「なに」
「灯台の光、綺麗だった」
セレスティアは何も言わなかった。
でも、少しだけ、息が楽になった。
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テラスに戻ると、ファウストがまだいた。
橋の手前に立ったまま、動いていなかった。北東の方角を見ていた。
「……息子は」
「影の珊瑚を砕いた。呪いの核が壊れたなら、侵食は止まるはず」
「本当に」
「わからない。でも、可能性はある」
男が俯いた。長い沈黙の後、ファウストは膝を折った。離宮の前の石畳に、膝をついた。
「……私は都市を売ろうとした」
「うん」
「市民を捨てようとした」
「うん」
「それでも……息子のことを、あなたは」
「あなたの息子さんも、市民の一人でしょ」
顔を上げたファウストの目に、涙があった。老いた男の涙だった。
「……罰は受ける」
「それはあなたが決めることじゃない。評議会が決める」
「そうだな」
「でも、自首して。全部話して。そうしたら、証言のときに私が一緒に立つ」
「……なぜ」
「あなたがいなければ、珊瑚の場所はわからなかった。その事実はある」
ファウストが長い息を吐いた。
「……立ってもらうほどのことは、していない」
「それも私が決める」
男の肩が落ちた。どこかで、運河の水音が聞こえた。
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翌朝、噂が広まった。
謝肉祭の夜、離宮の灯台から放たれた光が都市全体を救った。影の軍勢を光で浄化した王女がいる。
市民がおそるおそる橋を渡ってきた。最初は一人、次に三人、それから十人。
老婆が泥で汚れた膝をついてセレスティアに言った。
「姫様……昨夜の光は、あなたですか」
「うん」
「ありがとうございます」
それだけだった。
その中にミカがいた。籠を抱えて、駆けてくる。
「姫様! 無事でしたか! 昨夜の光、見ました!! すごかった!!」
「……あなたの母親の仮面のおかげ」
「え?」
「ガラスの質が良くて、光の伝わりが格段に違った。お母さんに伝えて。助けてもらったって」
ミカがぽかんとして、次の瞬間、泣き出した。
「……母が喜びます。絶対に」
ひびの入った仮面を取り出した。表面の模様が、朝の光を受けて輝いている。割れていない。
「修理できる? お母さんに聞いてみて」
「できます、絶対に! 母に見せます!」
セレスティアは空を見上げた。朝の光が、運河の水面に映っている。きらきら、きらきら。
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ファウストはその日の午後、都市評議会に自首した。密約の全てを報告した。商業ギルドの資料を全部提出した。評議会が騒然となった。
三日後、北東の運河で一人の男が倒れているのを発見された。ファウストの息子だった。意識はあった。記憶の一部が失われていたが、生きていた。
「奇跡だ」と医師が言った。
セレスティアは「光の反射と、ちょうど良いガラスのおかげだと思う」と答えた。
評議会は軟禁命令の見直しを王に上奏した。王からの返答は、まだない。
でも。
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翌週から、ミカが毎朝舟で来た。海産物の燻製、季節の果物、ハーブの束、焼き菓子。毎回、都市の噂を持ってくる。
「商人街のガラス職人組合が、離宮のランタンを全部新調したいって言ってます」
「……なんで」
「姫様の光魔法を最大限に活かすためだそうです。質の良いガラスほど増幅率が上がるから、って組合長が言ってて」
セレスティアは欄干に肘をついた。
組合が離宮のランタンを整備する。光魔法の媒体を、都市全体で管理する。それは、都市とセレスティアの光魔法が連動するということだ。
「……都市が、媒体になる」
「そういうことですよね?」
「そういうことかもしれない」
きらきら、きらきら。運河の水面が光っている。
セレスティアはランタンに手を当てた。ほわり、と光が広がる。水面に落ちる。街灯に伝わる。橋の欄干を伝わる。
ミカの舟の提灯に届いた。提灯がぽっと明るくなった。
「わ!」
ミカが驚いて、笑う。
「届いた」
「届きました! 姫様!」
光が、水面を渡った。橋一本向こうまで、届いた。
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光魔法の導師が、離宮の近くに移り住んだのは、それから数日後のことだった。
七十代の老人。かつて王族の光魔法顧問を務めていたという。今は路地裏に小さな工房を持っている。毎夕、水路沿いに来て、教えてくれる。
「昨夜のあれは見事でした、姫様」
「暴走ではないですか」
「制御という点では暴走に近かった。でも、目的は達成した。光魔法の本質は、制御ではなく、方向です」
「方向?」
「どこに届けたいかを知っていれば、光は自ずと動く。あなたは昨夜、北東の運河に届けたかった。だから届いた」
「でも、手のひらが」
「代償は払いました。それも含めて、見事だった」
老人が夕空を見上げた。
「都市規模の魔法陣を作りたいと言っていましたね」
「はい」
「できます。ただし時間がかかる」
「どれくらい」
「一年か、二年か。都市中のガラス媒体を把握して、光の流れを設計して、同期のタイミングを体で覚えて。一つずつやっていく作業です」
「やります」
迷いなく言った。
老人が目を細めた。
「昨夜まで、あなたはもっと慎重でした」
「今も慎重ですよ」
「でも怖くなくなった」
セレスティアは欄干に手を当てた。
「……ミカの母親の仮面を使ったとき、光の伝わり方が全然違いました。良いガラスが媒体になると、光が迷わない。都市中がそうなれば、私が迷わなくてもよくなる」
「媒体に頼る、ということですか」
「信頼する、ということです」
老人が少し笑った。
「師匠、昨夜の私の光は、都市のどこまで届きましたか」
「あなたが見えたものより、ずっと遠くまで」
「どこまで」
「水平線の向こうに出た船から、白い光の柱が見えたそうです。外洋に出ていた船が、昨夜の光を見て港に戻ってきた。船長が言っていました。あの光が灯台だと思ったと」
灯台。
セレスティアは空を見た。夕日が、水面に映っている。
「……永久灯台」
「なんですか?」
「なんでもない。ひとつごと」
欄干の石の冷たさが、手のひらに伝わる。手のひらには、昨夜の赤い跡が残っている。でも。
少しだけ、誇らしかった。
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王命の見直しは、三ヶ月後に届いた。
セレスティア・ルーミナ・ヴァルティアの軟禁令は一時停止。都市警護の観点から、離宮での光魔法訓練と、都市内の限定的な移動を認める。
という、なんとも回りくどい文面だった。
「……一時停止、って」
ミカが文書を覗き込んで言う。
「これ、完全に解除じゃないですよね?」
「でも、出られる」
「どこに行くんですか?!」
「ガラス職人の工房に行きたい。材料を見たい。あと運河の配置を自分の目で確認したい」
「全部、魔法陣の準備じゃないですか」
「そう」
ミカが笑い出した。
「普通、自由になったら祭りに行くとか言いませんか?!」
「次の謝肉祭は、都市の光全部を同期させて、影の軍勢を一瞬で浄化したい」
「……それが姫様の祭り参加なんですね」
「そういうこと」
ミカが籠を差し出す。今日は燻製の魚と、ハーブの束と、小さなランタン。
「あ、これ、母からです。修理した仮面と、携帯用のランタンを一つ」
ランタンを受け取る。小さい。表面に光の模様が彫られている。持ち手の部分にも細工がある。
「母が言ってました。姫様が街を歩くときに持って歩けるように作ったって」
手のひらに当てた。ほわり、と光が広がる。光の伝わりが、いい。
「……お母さんに伝えて」
「なんですか?」
「最高の仕事だって」
ミカが顔をほころばせた。そのまま、泣きそうな顔になった。
「……伝えます」
運河に舟が出る音がした。
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リリアは週に一度、橋を渡ってくるようになった。たまに、ただ喋りに来る。
「姉様、王都の噂なんですけど」
「なに」
「王様が軟禁命令の完全な解除を検討しているらしいです。侍女の侍女の妹の友達が王都の使用人から聞いた話なんですが」
「……どれだけ伝言ゲーム」
「でも、信憑性はあると思います!」
セレスティアはお茶を一口飲んだ。
「……どちらでもいい、今は」
「え?」
「軟禁が解けたとしても、すぐにここを出る気はない」
リリアが目を丸くした。
「なんで? ずっと出たかったんじゃないの?」
「まだ、やることがある」
テラスの向こうの運河を見る。
「都市全体を媒体にした魔法陣を、完成させたい。昨夜みたいに場当たりで光を繋げるんじゃなくて、都市の光全部を、計画的に同期させる。街灯も、水面も、ガラス建築も、市民の提灯も、全部。それができれば、次に影の軍勢が来ても、一瞬で浄化できる」
リリアが黙った。
「……壮大だね」
「壮大だよ」
「できるの?」
「できるかどうかわからないから、やってみる」
「姉様、変わったね」
「そう?」
「昨日まで、やってみる、なんて言わなかったよ」
セレスティアは少し考えた。
「……ミカの母親の仮面のせいかもしれない」
「どういうこと」
「職人の仕事が本物だと、光の伝わりが全然違うんだよ。それを見て、都市中のガラスが全部そうだったら、どこまで届くんだろうって、思った」
リリアが笑った。「姉様らしいね」
「そう?」
「うん。光の話になると、目が変わるんだよね。昔から」
セレスティアは欄干の外を見た。
「……ここは、檻だと思っていた」
「今は?」
「今は、ここが一番、光が見えるところだと思ってる」
リリアが黙った。しばらくして、小さな声で言った。
「それでも、いつか出てきてね」
「うん」
「私、毎週来るから」
「知ってる」
「毎日来てもいい?」
「……週三回は?」
「……まあ、いい」
また笑い声が上がった。
どん、と。
遠くで何かが弾けた。最後の一発が上がって、水面に反射して、都市全体をぱっと照らした。
赤、金、白。
光が、都市を渡っていく。
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夕方、導師が来た。
「昨夜の光は、水平線の向こうまで届いた。しかし、あなたはそれを知らずに放った」
「そうです」
「知っていたら、どうしていたと思いますか」
セレスティアは考えた。
「……怖くて、もう少し抑えていたかもしれない」
「そうです」
「光魔法の最大の敵は、制御しようとする意志です。増幅の天井を決めるのは、あなた自身の想像力の限界です。昨夜は死に物狂いだったから、想像力の制限が外れた」
「……次は、死に物狂いじゃなくても、同じことができますか」
「それが一年か二年かかる理由です」
「でも、方向は分かった。北東の運河に届けたいと思ったから、届いた。次は都市全体に届けたいと思えば、届く。思えるようになるまで、練習するだけです」
「……シンプルですね」
「光は、シンプルなものです」
老人が路地の方に歩き出す。
「師匠」
「なんですか」
「昨夜、ファウストが場所を教えてくれなければ、届けられなかった。彼を信じたわけじゃないけれど、彼の言葉を使った。それでよかったのかな、と今も思います」
老人が立ち止まった。
「光は、どこから来ても光です」
「……どういう意味ですか」
「ミカの母親の仮面も、ファウストの言葉も、あなたの妹王女の声も。全部があなたの光の媒体になった。あなたの呪いは、そういうものでしょう」
セレスティアは黙った。
灯火の呪い。触れたガラスを起点に、光を増幅して繋げる。
ガラスだけじゃなかったかもしれない。
老人が路地に消えた。
水面がきらきらと光っている。
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セレスティアはテラスに腰を下ろし、ランタンを手に取った。
古い、ガラス製のもの。傷だらけの、ずっと使ってきたランタン。
ほわり、と光が広がる。
水面に落ちる。街灯に伝わる。橋の欄干を伝わる。向こう岸のガラス建築に伝わる。ミカの舟の提灯は、もう帰った後だけど。
でも、その先にも届いている気がした。
どこかの職人が磨いたガラスに。誰かが持つ提灯に。水面に映る星に。
「……行くよ」
自分に言い聞かせる。
光が広がる。今日は昨日より、少しだけ遠くまで届いた。気がした。
きらきら、きらきら。
都市が光っている。
この光が、いつか都市全体に同期する。魔法陣が完成する。影の軍勢が来ても、一瞬で浄化できる。
一年か、二年か。
急がない。
毎朝ミカが来る。毎週リリアが来る。毎夕導師が来る。
光の伝わりが、少しずつよくなっていく。
セレスティアは目を細めた。
遠く、水平線の向こうに、海が光っている。昨夜の光が届いた場所。船乗りが灯台だと思った場所。
この光が、いつかあそこまで届く。
今日はここまでで、充分だ。
灯火の王女は、今日も光を灯す。
水の都に、光の連鎖が広がる。
それは彼女の呪いで、彼女の聖域で、彼女の誇りだった。




