最終章 生き残り
空襲 終
夜が明けていた。 だが、それは朝と呼べるものではなかった。 空は灰色に曇り、太陽の光は煤に遮られていた。 焦げた匂いが風と共に流れ、焼け落ちた町が静かに息をしているようだった。
私は瓦礫の上を歩いた。 靴の底に、砕けた瓦と骨の感触が伝わった。 あの賑やかだった仲見世は、ただの灰の通りになっていた。 風が吹くたびに灰が舞い上がり、まるで人々の魂が空へ還っていくようだった。
浅草寺の五重塔は、無惨に崩れていた。 その足元に、焼け焦げた小さな鈴が落ちていた。 それは健一の妹――美佐が持っていたものとよく似ていた。 私はその鈴を拾い上げた。 振っても音は出なかった。 中の玉が溶けて、もう鳴らないのだ。
川の方へ歩くと、風が冷たくなった。 隅田川の水面には、まだ煙が漂っていた。 焼けただれた桟橋の上で、私は立ち尽くした。 空襲の夜から、どれほどの時間が経ったのだろう。 時計も、時間も、あの炎の中で溶けてしまった。
私は鈴を握りしめながら、目を閉じた。 健一の声が耳の奥に蘇る。 「見て、伝えろ」 あの夜の言葉。 けれど、私は何を伝えられるというのだろう。 この灰の街に、聞く者などもういない。
風が髪を揺らした。 遠くで誰かのすすり泣きが聞こえた気がした。 それは私自身の声だったかもしれない。
生き残ったことが、痛かった。 呼吸をするたびに、胸の奥が焼けた。誰もいない世界で息をしているということは、 もはや罰に近かった。
私はふと、地面に膝をつき、手の中の鈴を見つめた。 その錆びた金属の表面に、朝の光がかすかに反射していた。 その光は、まるで消えかけた命の残り火のようだった。
「……ごめん」 私は誰にともなくつぶやいた。 母に、父に、健一に。 そして、この街に。 戦争を止められなかった自分にも。
風が吹き抜け、灰が舞った。 その灰の中に、人々の笑い声がかすかに聞こえた気がした。 あの春の日の、仲見世のざわめき。 飴細工の甘い匂い。 美佐のくれた氷飴の冷たさ。 すべてが幻のように遠ざかっていく。
私は鈴を川へ投げた。 鈴は音も立てずに沈んだ。 水面に小さな波紋が広がり、それが消えると、世界は再び静まり返った。
──人は、なぜこれほどまでに愚かになれるのだろう。 奪い、壊し、燃やし、そして涙する。 その繰り返しの果てに、何が残るというのか。 私はただ、その問いだけを胸に残した。
空を見上げると、雲の切れ間から光が差していた。 それは暖かくも、優しくもなかった。 ただ、灰を照らすだけの光だった。
私はその光の中に立ち尽くし、静かに目を閉じた。 焼け跡の向こうで、誰かの笑い声が聞こえた気がした。 それが幻でも、もうかまわなかった。
灰の朝が、世界を包み込んでいた。 そして私は、その灰の中で、まだ息をしていた。
──終。
東京大空襲をもとにしたフィクション作品です。校閲、校正は行なっておりません。ご了承ください。




