第四章 回想
空が裂けた。 まるで神が怒りの手を振り下ろしたように、焼夷弾の光が夜を貫いた。 浅草は、もう町ではなかった。 それは燃える河だった。 風が炎を運び、炎が風を喰い、逃げ惑う人々の影が踊る。 泣き声も悲鳴も、もはや音として届かない。ただ赤い光が、あらゆるものを飲み込んでいった。
私は母の手を握って走った。 「こっちだ!」 だが、途中で爆風が背中を叩いた。 体が宙に浮き、土の上に転がる。 振り返ると、母はもう立っていなかった。 炎の中に小さく見えた影が、次の瞬間には光の渦に飲まれていた。 叫んだ。声が出たのかもわからない。 喉が焼け、視界が赤に染まる。 母の名を呼ぶうちに、空が崩れ、地が揺れた。
あのとき、私は確かに死にたかった。 だが、足は勝手に動いた。 逃げることは、生きることではなかった。 ただ、焼け落ちる世界から遠ざかるための反射だった。
雷門の方へ走ると、瓦礫の陰に健一の姿を見つけた。 「健一!」 彼は私に気づき、笑った。 「よかった、おまえは生きてたか」 声はかすれていた。 炎が彼の頬を照らし、その笑みが一瞬だけ昔のままの健一に見えた。 だが次の瞬間、轟音が世界を裂いた。
地面が跳ね上がり、瓦礫と炎が空を舞う。 私は咄嗟に伏せた。 耳鳴りが止まらず、何も聞こえない。 やっと目を開けたとき、健一は瓦礫の下にいた。 「健一!」 彼の顔は血と煤にまみれていた。 手を伸ばすと、彼は微かに指を動かした。
「逃げろ……」 「一緒に行くんだ!」 「いいんだ……俺は、もう……」 その言葉の先を、炎が奪った。 瓦礫の中で、彼は穏やかに笑っていた。 その笑みは、まるで自分の死を受け入れた者のものだった。
私は瓦礫をどかそうとした。 だが、周囲が燃え始めていた。 熱風が吹きつけ、息ができない。 「行け……おまえが、生きて……見て、伝えろ……」 その言葉を最後に、健一の声は炎に溶けた。
私は立ち尽くした。 世界が音を失い、ただ赤い光だけが残っていた。 健一の体が、炎の中で静かに崩れていく。 その姿を見ているうちに、涙すら出なくなった。 泣くことは、もう意味を持たなかった。
私は川へ向かって走った。 隅田川のほとりには、逃げ遅れた人々が押し寄せていた。 水の中にも火の粉が散り、黒い煙が立ちのぼっていた。 誰もが叫び、沈み、浮かび、また沈んでいった。 水面が血で染まっていた。 人間というものが、これほど脆く、これほど滑稽な存在だったとは。
私は立ち尽くし、燃える東京の空を見上げた。 そこに神はいなかった。 あるのは、ただ人間が作り出した地獄だけだった。
──あのとき私は思った。 人は、これほどまでに自分たちを壊すことができるのだと。 戦争とは、他人を殺すためのものではなく、 自らの心を焼き尽くす儀式なのだと。
風が、炎を押し流していった。 私はその風の中で、ひとり立ち尽くした。 母も父も、健一も、もういない。 空は黒く、煙が星を覆っていた。
──それでも、私は生きていた。 生かされていた。 なぜなのか、わからない。 けれど、この地獄を見た者として、 私はこの愚かさを、語り継がねばならないと思った。
それが、彼の言葉の意味だった。 「見て、伝えろ」 健一の最後の声が、まだ胸の奥で燃えていた。
東京大空襲をもとにしたフィクション作品です。校閲、校正は行なっておりません。ご了承ください。




