第三章 回想
火の街』(第3部 焦土の前の静寂)
1945年の冬、浅草は音を失っていた。 かつて賑わっていた六区の芝居小屋も、仲見世の商店も、すべて板で覆われ、風に鳴る看板の音だけが町を満たしていた。 米は尽き、芋も配給で数切れ。母はそれを薄い粥にして「これでお腹がいっぱいになるよ」と笑った。 笑っていたが、母の頬は痩せこけ、目だけが異様に澄んでいた。
父は疎開を勧められても首を横に振った。 「この街で生まれて、この街で死ぬ。逃げるのは性に合わねえ」 その言葉を聞いて、母は何も言わなかった。 私も反論できなかった。どこへ行けばいいのかさえ、もうわからなかった。
ある夜、防空壕の中で、私はふと耳を澄ませた。 子どもの泣き声も、誰かの祈りも、遠くの爆音にかき消されていく。 人々はまるで、生きていることをやめたように、じっと地面を見つめていた。
健一は時々、私のところへ来た。 「おまえの親父さん、まだ仕事してるのか?」 「うん。もう客なんていないけどな」 「うちの親父も、家の修理なんて頼む人いないのに、毎日トンカチ持って出てく」 そう言って笑った。だがその笑いは、どこか空虚だった。
「なあ」 健一は声を潜めた。 「おまえ、もし浅草が燃えたらどうする?」 「燃えるわけないだろ」 「そうかな。俺、こないだ川の向こうの下町がやられたって聞いた。夜の空が真っ赤だったって」 沈黙が続いた。 「……俺、怖いんだ」 その一言を聞いたとき、私は言葉を失った。 あの強かった健一が、恐怖を口にしたのは初めてだった。
その数日後、父が私に言った。 「もしものときは、おまえが母さんを守れ」 「父さんは?」 「俺は店を見てる」 そう言いながら、父は履物の木型を削り続けた。 削る音は、夜の闇の中で妙に規則的で、まるで死を待つ時計の針の音のようだった。
その夜、私は眠れなかった。 畳の上に横たわり、暗い天井を見つめながら、健一の言葉を思い出していた。 「誰のために戦うんだろうな」 それに答えられる者は、もう誰もいなかった。 戦争は、信じる心を一人ずつ奪っていった。
年が明けて三月になるころ、町はさらに暗くなった。 電灯は消され、夜空は重く沈んでいた。 人々は「東京はもうすぐ終わる」とささやいた。 だが、その「終わり」がどんな形で訪れるのか、誰も想像できなかった。
ある晩、健一が私の家にやって来た。 「なあ、もしこの町がなくなっても、俺たち、生きてていいのかな」 唐突な問いだった。 「どういう意味だよ」 「みんな死ぬのに、俺たちだけ生き残るなんて、なんか……嘘みたいだ」 その時の健一の顔を、私は一生忘れない。 火の明かりもない部屋で、彼の瞳だけが濡れていた。
「生きるんだよ」 私はそう言うしかなかった。 けれど、その声は自分でも空虚に聞こえた。 「生きる」ことが、すでに罪のように思えていた。
その夜、遠くで防空警報が鳴り響いた。 浅草の空にも、赤い光がちらちらと揺れていた。 それが、あの地獄の前触れだったのだ。
東京大空襲をもとにしたフィクション作品です。校閲、校正は行なっておりません。ご了承ください。




