表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎の日  作者: ためいき
1/5

第一章

 風が、燃えていた。 夜の空は、まるで地獄の口を開けたように赤く染まり、浅草寺の五重塔の影が、炎の揺らめきの中でゆがんで見えた。 私はただ、走っていた。どこへ向かうのかもわからぬまま、靴底が焼けた瓦礫に沈みこむたび、皮膚が焦げるような臭いが立ちのぼった。 耳の奥では、空を切り裂く爆音が続いていた。アメリカの爆撃機が幾十、幾百という群れで頭上を通り過ぎ、焼夷弾が雨のように降ってくる。 炎は油を飲んだように地面を走り、人を、家を、思い出を一瞬で飲み込んでいった。

 「母さん……父さん……」 声を出しても、返事はなかった。昼間まで確かにいたはずの家族の姿は、もうどこにもない。 家のあった方向は、すでに炎の壁に閉ざされている。熱風が頬を切り裂き、涙すら蒸発してしまいそうだった。 私はただ、火の粉の中を走り抜けた。 雷門の方角に向かえば、きっと誰かに会える。そう信じるしかなかった。

 「健一!」 叫ぶと、焼け焦げた電柱の影から、一人の男が振り返った。 彼は幼なじみの健一だった。顔はすすで黒く染まり、右手には焦げた包帯が巻かれていた。 「生きてたのか……!」 「おまえもか……よかった……!」 互いに息を切らしながら、私たちはただ笑った。笑うことしか、もうできなかった。

 健一は手に小さな風呂敷包みを握っていた。中には、妹の遺骨が入っているという。 「母さんも、妹も……もうだめだった。逃げ遅れた」 声が震えていた。 私は何も言えなかった。言葉なんて、この炎の中でどんな意味を持つというのだろう。

 「こっちだ、隅田川の方へ行こう!」 そう叫んで、私は健一の腕を掴んだ。だが、逃げる途中で、地面が爆風に揺れた。 空が、破裂した。 次の瞬間、私の体は宙に浮き、地面に叩きつけられた。 耳が聞こえなくなり、時間が止まったようだった。

 目を開けると、健一が瓦礫の下敷きになっていた。 「健一!」 彼はかすかに笑った。 「行け……早く……」 「一緒に行くんだ!」 私は瓦礫をどかそうとしたが、火が回り始めていた。 「おまえが、生きろ。……誰かが、見て、伝えなきゃ……」 そう言うと、健一は力尽きたように目を閉じた。

 叫び声も、もう出なかった。 火の粉が空を覆い、世界が赤い幕に包まれていく。 私はその場に膝をつき、ただ炎の中に消えていく友の姿を見つめていた。

 ──あの夜、私は人が燃える音を聞いた。 それは風でも、炎でもない。命そのものが崩れ落ちる音だった。 そして私は、その音を決して忘れることができない。

 焦げた瓦礫の匂いの中で、私は静かに目を閉じた。 焼け落ちた浅草寺の屋根の影が、闇に沈んでいく。 そこには、もう「祈り」も「神」も存在しなかった。 ただ、人間の愚かさだけが、炎の残り香のように漂っていた。

東京大空襲をもとにしたフィクション作品です。校閲、校正は行なっておりません。ご了承ください。


次章は16時から2時間おきに出ます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ