day1
注意! 本文にはペットロスに関する内容があります。苦手な方はお帰り下さい
「今日で最後かもしれん」
2月4日の朝。パートへ出勤しようとしている妻に、僕は泣きながらそう伝えた。今まで猫を数頭、見送ってきてなんとなく最期の事は分かってきている。
彼女は18歳の老猫で、凄く頑張ってきた。
「腎臓の数字が良くない。薬を飲んでも、良くて現状維持」
と獣医さんに言われたのが一昨年の12月。それから毎日薬を飲んで一年間元気に過ごしてきた。しかし
「とても18歳とは思えないピチピチです!」
と
「腎臓が更に悪くなっている。いつ急変してもおかしくない。年を越せれば良いかな? くらいです」
と矛盾する事を言われたのが昨年の12月だった。
「こんなに元気でご飯もよく食べるのに!? 先生間違ってないか……?」
とさえ思っていたのに、獣医さんの予言通り大晦日に急変し、彼女は急に足が萎えて歩けなくなった。
そうなっても彼女は生きてくれた。介助をすればトイレもするし水も飲む。寝床へご飯を持って行けばこちらが怖くなるほど食べるし、食後に牛乳やアイスクリームもペロリといった。
だが体重は日に日に減っていって、獣医さんで点滴をしても、あまり元気にはならなかった。
それでも月を越して2月になって、二日の夜から彼女は何も食べなくなった。
三日の朝、
「早く帰ってきて点滴をしてみて」
と妻に言われて夜勤から飛んで帰り、生理食塩水を点滴した。通院が負担になるかもしれないと思ってセットとやり方を教えて頂いたからだ。
自分の身をナイフで切るよりも辛い思いで彼女に針を刺し、それなりに手際よく注入できた。しかしその日も彼女は何も口にしなかった。
この体調で二日、何も食べないならもう終わり。
僕はその事がなんとなく分かって、妻にそう言った。
「もしそう、なっても連絡は無しで」
と約束して、妻はパートへ出かけた。職場で取り乱す訳にはいかないからだ。逆の立場でも同じ事を依頼しただろう。
妻の出勤を見届けた僕は、全ての予定をキャンセルしこの日はずっと家にいる事にした。最期の瞬間まで彼女に寄り添い、穏やかで暖かい気持ちでこの世を去って欲しい……そう願ったからだ。
寒い日だったので最初は灯油ストーブの前に寝かせていたが、執筆をする為の机へ向かう時は毛布にくるんで僕の膝に載せた。
余談だが僕はwebでサッカーコメディ小説を連載していて、執筆の大部分は夜勤の時間に施設のモニターの前で行っていた。次が喫茶店で、その次が家にしつらえたそのミニ書斎スペースだ。
まだ元気な時は、僕がそこで執筆を始めると必ず彼女の方からトコトコとやってきて、膝の上に飛び乗った。『元気な時は』と書いたが、1月になって間もないころ、まだかろうじて歩ける頃もまだ彼女の方からやってきて飛び乗ろうとした。
恐らくだがポメラに集中している静かな時間と、僕を独り占めできる事が嬉しかったのだろう。家には他に妻と嫉妬深い雄猫がいて、僕は彼女を含む三者から取り合いの対象になっていて、そう簡単に独占できるモノではなかったからだ。
そういう意味では彼女は共同執筆者という事になる。展開に悩んだ時、相応しい文章が思いつかなかった時、膝の上で鳴る彼女の喉の音と指で触れるハチワレ柄の滑らかな毛皮に何度、救われたか分からない。
話を元に戻そう。共同執筆者の彼女はこんな体調でも仕事をした。その日のノルマ分は一瞬で書き上がった。内容は最近の中でも特にコメディ色の強い部分で、死に行く彼女を抱えながらのタイピングは心がグチャグチャに引き裂かれそうな気分だったが、驚くほど早く指が動いた。やはり彼女の貢献としか言いようがない。
そこで余った時間で、僕は彼女と話をした。思い出話だ。初めて彼女が家に来た時――スーパーの袋に入れて駐車場に捨てられていたのを昔のバイトの後輩君が拾って、職場の事務所に連れてきた。そこへたまたま僕が遊びにきて、すぐさま引き取ることになった――の話、獣医さんで性別を間違われて数ヶ月のあいだ雄猫と信じて育てた話、夜中でも起きて三時間毎にミルクを飲ませた話、結婚式の為に初めて実家にお泊まりした話、産まれて初めて猫用の食事以外のモノ――それがバニラアイスクリームで、彼女は「こんな美味しいものがこの世にあったなんて!」て顔をした。以降ずっとバニラアイスは彼女のお気に入りだ――を食べた時の話、妻の実家である遙か遠くの網野までドライブした話、弟の白猫が来た時の話、今のマンションへ引っ越した時の話……。
面白可笑しく楽しい思い出ばかりだが、話している間ずっと涙が止まらなかった。そして不思議な事に
「疲れたやろ? こっちで寝て」
とストーブの前に寝かせた時、彼女も涙を落とした。目の構造上、涙が良く出る種類はいる。排泄の気持ちよさで落涙する子猫もいる。しかしそれ以外で猫が涙を流す所を僕は見たことがなかった。
今でも、彼女の涙の理由が僕には分からない。
動揺しつつも僕は家事を始めた。彼女の体調が悪くなってから、誓った事があった。なるべく前向きに考える。投げやりにならない。仕事も家事もちゃんとする。
特に掃除については――家が綺麗だと運気も上がると言うし、ヨタヨタ歩きをする彼女が動き易くもなるし――頑張った。彼女が粗相してしまった毛布を洗濯し、部屋を片づけ、昼ご飯の準備をする。
自分の分を済まし弟猫へご飯を上げても、彼女はやはり何も口にできなかった。
食べ残しというか食べなかった残しを弟猫に回し、食器を食洗機へ入れた所で……ベランダの日差しに気付いた。
彼女は猫の例に漏れず日光浴が大好きだった。マンションのウチの部屋は殆どの部分で満点に近いが、唯一日光の入りだけが悪かった。それでも彼女は僅かな日光を求めて窓際の猫タワーに登り、日に当たりながら外を眺めるのが好きだった。
「ちょっとお日さん浴びとく?」
僕はそう話しかけ、彼女と外へ出た。その日は良く晴れていたがとんでもなく寒い日で、皮と骨ばかりになった彼女が凍えないよう丁寧に毛布をかけてからだった。
空は残酷なほど青く、日光は神々しかった。彼女に青空と太陽を見せられて僕は嬉しかった。
「アレが僕らの部屋やで」
そのままマンションの駐車場まで歩いて、僕は彼女にそう示した。彼女は100%のイエネコで、外に出た事がほぼ無い。最長外出距離は同じマンションの一つ上の廊下まで――妻の隙を見てドアから飛び出した時の記録――だ。自分の住んでいた部屋を外から見た事なんてなかっただろう。
「あの窓からここらへんを見てたんやな」
そう言って抱く角度を変える。それを彼女が理解していたのか意味があったのかは分からないが、しばらく見せて、最後に廊下から近くの公園の山へ向けた。
「もしかしたらあの山に眠って貰うかもやからね」
そんな事を考えたくもなかったが、告げずにはいられなかった。眠って貰うと言っても遺体はちゃんと火葬するつもりだ。毛とか髭とかその辺りを少しだけ埋めるつもりだった。
「近くで見下ろしててな?」
その山は、ウチの部屋の前の廊下から見える位置にあった。毎日、玄関から出る度に目に入る筈である。あそこに彼女がいる……と思えば少しは慰めになるかと思ったのだ。
そんな事を話しながら、僕らは部屋の中へ戻った。
午後もジリジリと時が過ぎ、妻から
「晩ご飯、何か買って帰ろうか?」
と訊ねるメールが届いた。僕は
「いや。準備しているので普通に帰ってきて」
と返した。
文面ではいっさい触れていないが、不安げに探る気配が漂ってくるメールだった。普通に帰ってきて、と返せることが僕は嬉しかった。
妻が帰ってきて泣きそうなほっとしたような顔で彼女と対面し、夕食を取った。だが彼女はまだ何も口にしなかった。
「せめて水分だけでも」
と僕はもう一度、彼女に点滴をした。
帰宅後は妻がずっと彼女と一緒にいた。僕は両者が揃った写真をとり、少しだけ外へ出て散歩をした。
帰ったら交互に入浴し、床についた。腰痛持ちの僕はハンモック、妻が猫と添い寝する形だ。
「よく頑張ったね。ありがとう。もう休んで良いよ。寝てる間にいってしまっても大丈夫だからね? もちろん、二回目の点滴が効いて元気になって生き続けるなら、いくらでもつきあうから!」
最後、彼女の身体に額をつけてそう告げて、電気を消した。
たくさんの方にご覧いただき、ありがとうございます。
このエッセイに宣伝をぶら下げるのも不粋の極みですが、本文中にある「サッカーコメディ小説」とは
以下の
「DAZNとYOUTUBEとウイイレでしかサッカーを知らない俺が女子エルフ代表の監督に就任した訳だが」
https://ncode.syosetu.com/n9777gr/
になります。こちらもご覧頂ければ幸いです。