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ミッション5 ヒッピーの男

 ミッション5 ヒッピーの男


 朝から低気圧が近づいていた。

 バルコニーには輝く陽光が差しており、サッシを開けたすき間からはすがすがしい朝の空気が入って肉体を目ざめさせたが、家の中は今にも雷雨が始まりそうな気配だった。

 その低気圧は他でもないわが家の台所から発生していた。

「おっはよー、かおるちゃん」

 いつものように陽気なノリで挨拶したが妻はすっとスルーして沈黙を返した。横顔が白くこわばっている。おや、なにかあったかな。

 おれはそのままトイレに入るとさりげなくサニタリーボックスを開けてみた。ありました。緊急事態エマージェンシー色のコットン。お月様の到来だ。

 ふう。おれは抜歯治療前の患者のようなため息をついた。これはただでは済まない。

 トイレの中で覚悟を固めると出た。なにもなかったかのように手を洗い、ひげをそる。来るべき災厄へ備える儀式だ。

 決死の思いで台所へ進む。妻の後姿にできるだけさりげなく声をかけた。

「かおるちゃん、元気?」無言。

「どうかしたの?」わかってるけどね。

 おれはわざとひょうきんに後ろから肩越しに顔を見ようとしてひょいと頭を出した。

 ぶん。

 じゃんけんのグーが飛んでくる。それをかわすこともできたが、そうすることはもっと状況を複雑にする。おれはそのこぶしを顔で受けた。

「あ、い、たたた」

 おれは大げさに顔をおさえてよろめいた。冗談じゃない。まぐれだが女の指の細い骨の角が痛点にクリーンヒットし、本当に痛い。

「なにをするんだよう」口を尖らせて言う。

「邪魔よ」妻は爬虫類のように冷たい視線でおれを見る。おれはわざと小さくなって上目遣いをした。妻はふん、と鼻を鳴らして料理の続きを始めた。

 おれは朝食をもらおうと皿とさじを手に待っていたが、よく見ると妻が作っているのはケーキかなにかだった。

「かおるちゃん。おれ会社に行かなくちゃいけないんだ」

「それで」

「あさごはん」

「自分でやれば」

 くうー(泣)。

 ロスタイムを取り戻すためにおれはあわてて冷蔵庫を開け、なにか食べるものがないか探す。トマトをかじり、焼かない食パンをくわえていると妻が近づいてきた。来た!

「今日は早く帰ってきてね」

「ええ、どうして?」

 妻の険悪な目つきはさらに険悪になった。

「私たちの『出会い記念日』でしょ」

 そうだったっけ。結婚記念日なら覚えているが、出会った日まで覚えちゃいない。おれの間抜け面を見て妻の不機嫌は増した。

「忘れていたのね」

「いや」おれは真顔で言った。

「忘れていたんだわ」いきなり手にしたフライ返しがみぞおちに食い込む。

「ぐわ」

「夕方六時には帰ってきて、一緒にレストランへ行くの」

「待ってくれ。昨日言わなかったが、実は今日は残業なんだ」

「駄目よ」

「そうはいかない。大事な仕事だ」

「他の人に代わってもらって」

「無理だ。おれでしかできない」

 妻のこぶしが白くなった。フライ返しを乱打してくる。

「私との時間なんてどうでもいいのねー」

「そうじゃない。仕事の責任があるんだ。途中で放り出すわけにはいかない」

「どうせ何か悪いことをしてるんでしょう」

 そりゃ、まあ確かに他人に言える仕事じゃないが。

「ほら、答えられない。やっぱり何か隠しているんだわ」

 妻は勝手に涙を流しだした。

「ひどいわ。私に隠れてこそこそと。何をやっているのよ」

「いや。職業上の守秘義務があるんだ。答えられない。でもつまらない仕事だよ」

 実につまらない。日本政府のために悪党どもを撃ち殺す仕事だ。

「外に出たときにはキャバクラとかに寄るんでしょう。仕事だと言って」

 それは……たまにある。任務上の必要だ。

「いや、そんなことはない。おれが酔って帰ってきたことがあるかい」

「酒は飲まないで、女と遊んでいるのね」

「ま、さ、か」おれはここぞと両手を広げて肩をくすめてみせた。

「そんなジェスチャーには引っかからないわ。もう見飽きた。絶対に悪いことをやっているに決まっているわ。ひどい」

 妻はむしゃぶりつき、おれの胸をぼこぼこと殴った。おれはその肩をやさしく抱いて打撃を押しとどめた。

「かおるちゃん。分かってくれよ。おれも辛いんだよ。今度の週末はさ、一緒に買い物行こう」

「今夜も早く帰らなきゃいや」

「そう無理を言うなよ、仕事なんだ」

「そんな仕事ならやめれば」無茶苦茶だ。

 おれがため息をつくと妻は勝手に結論を出した。

「じゃあ、早く帰るのね」

 おれは黙って首を振った。フライ返しが飛んできておれの頭に当たった。

 そのまま妻は後ろを向いて寝室へ入ってしまった。おれはもう一度深いため息をつくと出勤の準備をした。


 作戦室にはすでに浅見課長のほか、太郎と三郎が集まっていた。おれはこほんと咳をし、みなの視線を集めてから一礼して席についた。

 いつものように白井係長が正面のディスプレイを示しながら説明する。

「今回の任務は反社会的宗教団体『救国イルミナーティ』が対象です」

 白井が手にしたリモコンのスイッチを操作するとモニターにビルが映った。普通のビジネスビルに見えるが、屋上にスカイツリーみたいなオブジェが立っている。

「赤坂にある『救国イルミナーティ』の本部ビルです。表向きは宗教団体を装っていますが、政治にも多大な関心を示しています。かねてから代表者、民田直人みんだなおとの発言が物議をかもしています。

 それは政治的な問題ですので、われわれには直接関係ないとして、以前から麻薬組織メデジン・カルテルとの黒い噂があります。どうやら非合法ドラッグを用いて信者をマインドコントロールしているようなのです。

 残念なことに警視庁につながる国会議員へ多額の政治献金を行っており、警視庁も手をこまねいておりました。

 そこでわれわれが独自の調査を行っておりましたところ」白井は画像を切り替えた。どことなく卑屈な表情をした灰色の背広を着た男がこちらを見ている。

「先週、われわれの潜入調査員「霧」からドラッグの流通に関する証拠資料を入手して脱出すると連絡がありました」

「脱出というと、もう戻らないのかい」三郎が質問する。

「はい」白井は頷いた。「証拠資料はクラスAのもので、もし公開されれば組織を壊滅できるほどインパクトがあります。しかし厳重に保管されており、入手した段階で「霧」の面が割れる――正体が露見します。

 現在「霧」は宗教道場の研修に参加しており、建物外には出られませんが、研修終了時のすきを狙って建物から脱出するそうです。脱出方法は本人が自力で行うとのことですが」白井はおれを見た。

「追っ手がかかる可能性があり、脱出後にセーフハウスまでの避難経路を確保する必要があります。そのバックアップを要請されました」

「警察に任せたほうがよくないか」三郎が口をとがらせる。

「そうだ。だが警視庁に頼むと計画が筒抜けになる可能性がある」浅見が初めて発言した。

「単なるカルトと思っていたが、「救国イルミナーティ」の影響力は政府や警視庁の要人にまで及んでいる。今までのところは破壊的行動はないが、潜在的脅威としてみなされる。今のうちに合法的につぶしておけば、禍根を残さない」

 おれたちの仕事はどう考えても合法的ではないのだが。ま、いいや。

「で、私はどうすればいいんですか」おれは聞いた。

「『救国イルミナーティ』本部ビルの裏で待機し、「霧」が出てきたらサポート。そのまま三郎たちの部隊が待機する区画まで警護・誘導。護送車に乗せたら任務終了だ」

「楽勝じゃん」三郎がおれの肩を叩いた。

「決行時刻は?」

「十三〇〇時から十六〇〇時の間」三時間か。薫とのデートに間に合うかな。


     *


 「霧」が脱出してくる予定時刻までまだ一時間以上あったが、おれはすでに到着した。

 準備班アシストたちがすでに周囲を調査し、全ての経路、監視できる位置、通信線と利用できるものを押さえているはずだ。例えば調査員が脱出するために、一時的に交通信号機を操作することすらできる。

 赤坂の表通りはひっきりなしに交通があるが、何本か通りを奥に入れば高級料亭や高級マンションが建ち並ぶ区画になる。そこは関係のない者は立ち入らないので、静かだった。

 おれは歩行者をよそおい、そのあたりを歩き回った。曲がり角に警備の警察官が立っており、おれが通りぎわに会釈すると敬礼を返した。おや。おれは同業者に見えるだろうか。表情を変えずに通り過ぎたが、自分の姿をどこかで確認したくなった。

 一ブロック先で角を曲がり、誰も見ていない場所でカーブミラーを使って自分の姿を確認した。

 かつてこの業界に入る前に自分の姿から漂っていたヒッピーのような雰囲気が消えているのに気づき、おれは舌打ちした。これじゃまるで私服刑事デカだ。

 いまさらながら「霧」のすごさに気がついた。「霧」は潜入捜査官だ。彼の有能さは彼が「目立たない一般人グレイ・リトル・マン」であるところにある。彼の容姿や仕草を見る者は彼のことを、自分に自信のない、どこにでもいるさえない中年のサラリーマンと思い込む。

 人は彼が極めて知能が高く、数ヶ国語を操り、暗号解読や解錠ピッキングの達人であること、雄弁であることなど決して気づかない。それを二十四時間完璧に演技し続けられるのが彼のすごさだった。

 人間は自分の職業のまさにそのものの顔をするという。

 おれが殺し屋のような仕事をしていながら殺し屋の顔にならなかったのはどこかで自分の職業を突き放して見ていたからだ。これはおれの天職でもなければ、やりたいことでもない。必要に迫られてこの道を選択したにすぎない。

 いくら庁内でヒット率を絶賛されても、おれには何の感慨もなかった。おれが本当に求めているものは名誉でも金でもない。それは……。

 おれの視界に『救国イルミナーティ』本部ビルが入ってきた。われに帰ったおれは任務を思い出してかっとなった。どうかしているぞ今日は。簡単な任務に気がゆるんでいるのかもしれない。危険な兆候だ。

 おれはビルの裏口が見える場所で待った。一般通行人に見えないなら、むしろ張り込み中の刑事に見えたほうがましかもしれない。サポート用の銃はまだ受け取っていない。あと三十分で待機態勢に入る。

 先ほど敬礼をした警察官がにこやかに近づいてきた。手に紙袋を持っている。近づくと「落し物ですよ」と言って紙袋を差し出した。手の動きから中身が重いのが分かる。彼が準備班アシストだったのか。おれは疑いもせずその袋を受け取った。

 手が袋からはじかれ身体に異変が起きた。

 警官はすばやく前に踏み込んでくると、おれの首に袋を押し付けた。スタンガンだ。

 反射的にかわそうとしたが、身体が思うように動かない。

 二撃、三撃と首への攻撃を受けた。

 全身に高電圧の衝撃が駆け巡り、おれの全身は硬直した。

 足を踏ん張ろうとするが、身体が意思とは別に動く。

 おれはゆっくりと倒れた。

 最後に目のはしに映ったのは青い空だった。


     *


 水の音がした。

 コンクリートの床を誰かが洗っている。

 意識をとりもどしたおれは顔がかゆくてかこうとし、自分の両手が天井から吊るされているのに気がついた。

 引っ張ると鎖の重さで腕が振れる。自分の体重を支え続けていたため、手首に手錠が食い込んで痛い。おれは自分の足で立って手首の負担を軽くした。気がつくと上半身に服をつけていなかった。もちろん武器の類はない。靴も履いていなかった。

 ふと自分の横に物体の存在を感じてぎくりと脇を見た。

 口の端からよだれがこぼれている。目は焦点を失い、虚空を見ている。おれと同じように上半身の服を脱がされ、天井から伸びる鎖につながれている男。

「霧」だった。

 霧の瞳に生命の兆候はない。どうやら最悪の事態になったようだ。

「気がついたか。政府の犬」

 突然、おれの後ろから声がした。鎖を軸に身体を回転させて振り返る。

 事務机の前に銀縁眼鏡をかけ白衣を着た男が座っていた。男はつまらなさそうに携帯ゲーム機を両手で持っている。ピー、終了音が鳴り、ゲームオーバーしたようだ。

 男はゲーム機をデスクに置いて立ち上がった。黒い革靴の底をコンクリートの床に打ち付けるようにして歩き、おれの近くへ来た。蹴飛ばされないようにきちんと間合いをとっている。

 銀縁眼鏡はおれによく見えるように「霧」の顔を手でつかみこちらに向けた。その手つきがサディスティックだ。

「こいつはよく自分の正体を隠していた。完璧だったと言っていい。だが御光輝様ごこうきさまには全て筒抜けだ」

「お前たちは自分たちが随分賢いと思っているのだろうが、御光輝様は別だ。あのお方はは人の心が見抜ける。隠し事は通用しない」

「へえ。じゃあなんで薬を使う」おれは歯をむき出した

「その顔を見れば分かる。死因は薬物の打ちすぎによるショック症状だ。御光輝様とやらはなんでもお見通しじゃなかったのかい。知っていることを吐かせるためにわざわざ薬を使わなきゃならないようなら、もう馬脚を現したってことだな」

 銀縁眼鏡の目つきが鋭くなった。

「お前、調査庁じゃなくて警察の麻薬捜査官か。いや、それもしゃべってもらう。拷問や自白剤に耐えられる者などいない。だが私たちはもっと洗練されたやり方を使う。この男を見ろ。訓練されていたが、今日の午後に知っていることは全て吐き出したぞ」

「何をした」

「拷問と薬物の高度なコラボレーションさ」銀縁眼鏡はうれしそうに言った。

「まず拷問で苦痛を与える」銀縁眼鏡はデスクから刃が内側に曲がった刃物を取り上げると、無造作におれの左乳首をえぐった。

 無意識に身体を引いた。激痛が全身を走る。左乳首のあった場所から血が流れ出した。

「そこは神経が集まっているからな」銀縁眼鏡は刃物の先端についたおれの乳首の残骸をながめると軽く刃を振って床に落とした。

「この刃物は実用よりは被験者に恐怖を与えることを目的としている。強がっていても人間だ。そう長くはもたないぞ」

 映画なら主人公は拷問を受けても後まで残るような傷は受けない。しかしこれは現実だった。

 おれは強がりは言わなかった。ただ黙って銀縁眼鏡をにらんだ。額から流れた汗が目の中に入ってきた。

「さて、どこまでその態度が続くかな」銀縁眼鏡は刃物の曲がった先端をおれの上半身から下に向けてゆっくりと滑らせた。激痛に思わずのけぞる。

「うぐあ」

「ほれ、もう一本」さらに一筋の筋が胸につき、血が粒となって吹き出る。

「ぐぐぐ」おれは目を閉じ歯を食いしばった。額から汗がとめどなく吹き出し、目の両脇を伝う。

「さて、そろそろかな」

 銀縁眼鏡はおれの表情を楽しむように眺めた。こいつは真性のサディストだ。

「あまり傷をつけるな、と言われている。来週お前が江戸川で見つかったとき、新聞の見出しはこうだ。「法務省職員、麻薬で死亡」お前の上司も大変だな」

「「救国イルミナーティ教祖、麻薬で検挙」の間違いだろ」

「減らず口もそれくらいだ。これがなにか分かるか」銀縁眼鏡は透明な袋に入った白い粉を見せた。

「麻薬取締官なら知っているはずだ。薬物でハイになるには「セット」と「セッティング」が大事だってな」

「どんなに素敵な多幸感を与えてくれるはずのヤクでも、気分がダウナーなときに服用すれば逆効果になる。いわゆるバッドトリップってやつだ」

「今お前は拷問を受け死の恐怖にさらされている。最悪のセッティングさ。この状態でこの新型麻薬を注射するとどうなると思う? 最低の気分になるのさ。その悪夢にさらされるくらいなら、知っていることを何でもしゃべってしまいたくなるくらい……」

 薬物を見て初めておれはたじろいだ。そんなおれの様子を銀縁眼鏡が満足そうに眺める。

「生意気なお前もヤクは怖いか。はっ」

 ゆっくりとした手つきで袋を置くと注射器とバイアルを取り上げ、注射針をバイアルに突き立てた。透明な管にゆっくりと液体が昇っていくのをおれは絶望的な気分でながめた。

「それならたっぷりと注射してやる。発狂するのは構わんが簡単に死んでもらったら困る」

 銀縁眼鏡は後ろから近づき、おれの二の腕をつかんだ。おれは身をよじったが、痩せた体つきとは裏腹に銀縁眼鏡の握力は強かった。

 おれはかかとを蹴上げて金的を狙ったが、銀縁眼鏡はそれを予想していたかのようにひざの位置だけでそれをかわした。

「さあ、楽しい旅の始まりだあ」

 注射器の中の透明な薬液はおれの身体にゆっくりと注入された。ただちに脳の中に快感がほとばしる感覚が満ち、意識が圧倒された。

 銀縁眼鏡はおれの苦しみを増すために指で胸の傷をゆっくりとこじる。

 痛みとともに快感は異様なイメージに変容し、あたりは紫色と灰色が道路にこぼれた重油のように混ざる狂った虹色の背景へと変わった。

 黒い影が濃霧のようにゆっくりと形を変えながらおれの周りを包み込む。

 虹色の地獄のような色彩が後から後から波状攻撃を仕掛け、おれの理性をけずりとる。

 おれは全身に力を入れ、快感と苦痛に抗った。気がつくと全身が痙攣していた。止めることができない。

「うああああ」

 自分が絶叫していることにしばらく経ってから気がついた。銀縁眼鏡の声も聞こえる。

「まだ、気を失わないのか。しぶとい奴だ」

「サド野郎を簡単に満足させてはやらないのさ」

 発狂寸前で囚われの身の上のみじめさにも関わらずへらず口が口をついて出た。こういう奴を喜ばせたままにしておくのは好きじゃない。

 銀縁眼鏡の奥で目が大きく開かれる。

「きさま、薬物に対する耐久訓練を受けているな! そうでなければ考えられん。この投与量でまだ意識があるなど――」

 銀縁眼鏡は慎重な手つきでバイアルの蓋に注射針を突き刺し、麻薬を注射器に吸い取った。

「セッティングをもっと良くしてやろう」銀縁眼鏡はそう言うと、おれの胸の傷を左手の指でぐりぐりとえぐった。

「あぐっぐぐぐぐうううー」こらえようとしても声は自然にのどから漏れる。涙と鼻水が吹き出る。

「ほれほれどうだ」銀縁眼鏡は楽しそうだ。

「全てしゃべってしまえ。お前の正体と、後ろにいる連中の素性。どこまでつかんでいるか。全て話せばお仲間と同じように楽になるぞ」

 銀縁眼鏡が近づいて馬鹿にするようにおれの顎を指でつまもうとした瞬間を狙って、おれはやつの人差し指に噛み付いた。

「ぎゃっ」

 銀縁眼鏡は振りほどこうとしたが、おれの犬歯はちょうど奴の人差し指の第一関節を捕まえて引っ張ってもはずれない。

 やつはおれの顔を殴ったり、ひざで腹を蹴飛ばしたりしたが、おれは指を離さなかった。

 最後にやつはおれの頬に両方の靴底をあて、自分の指にぶら下がると渾身の力を込めて引き抜いた。

 ずぼっ

 物が引き抜けたにしては異様な音がして、銀縁眼鏡は尻から落ち、後ろに転がった。

 おれは口の中に残ったやつの人差し指第一関節から先をぶっと噴き出した。

 人差し指の残骸は濡れたコンクリートの床にねとっとした音をたてて転がった。

「これでおあいこだ。おれの乳首を削ってくれたからな」

「おれの、おれの指!」銀縁眼鏡は短くなった人差し指を天井に向けながらわめいた。酔っ払った踊り子のように白衣のすそをひるがえしてくるくると回る。

 突然銀縁眼鏡は回転を止めると、おれを三白眼でにらみつけた。

「私を本当に怒らせたな。慈悲をかけ、全てを吐いたら安楽死させてやるつもりだったが、気が変わった。うんと惨めに殺してやる。生まれてきたことを後悔させてやる」

「吠えなさんな。豚が吠えたところでちっとも怖くねえ」

「なに」

「おれは犬だが、死ぬときは誇り高く死んでやる。お前のような豚がいくら汚そうとしても無駄さ」

「両腕をつながれていなければ格好のいいセリフだな」

「相手の両腕をつないでなければ虚勢をはれないやつに何を言われても感じないね」

 銀縁眼鏡の顔が白くなった。

「ふ。ふ。ふ、ふふふ。おれがどう気が変わったか教えてやろう」

 銀縁眼鏡は替えの注射器に薬物を吸い取りながら言った。

「この新しい薬は色々な使い方ができる。信者たちを教化育成するのにも使えるし、相手にばら色の夢を見させたり、その反対に地獄を味わわせたり投与方法と分量で自在にできる。素晴らしいフレキシビリティだ」

「しかも習慣性・依存性が極めて高い。ヘロイン中毒患者が禁断症状でどんな体験をするか知っているか?」おれは黙っていた。

「これはそれに匹敵する。お前をゆっくりとこの薬の中毒患者にしてやる。この薬なしには生きられなくしてやる。そうして段々と廃人になるんだ。意識を明瞭に保ったままな。それがおれの指を食いちぎったお前に対する罰だ」

 おれは黙っていた。あごをひき、顔を真っ直ぐ上げ、うろたえた表情を見せないようにとりつくろったが、わきの下に冷たい汗が流れるのを感じた。

「虚勢を張っているな」銀縁眼鏡は満足そうに言った。

「それはお前が恐怖を感じていることの証拠だ」

 銀縁眼鏡はおれの腕をとった。おれは二の腕に力を込めたが、それで注射針が防げるはずもなかった。再び薬液が腕の静脈に流れ込む冷たい感覚に続いて、一瞬の多幸感、それに続く虹色の地獄に圧倒され、おれは絶叫するとそのまま気を失った。


     *


 十五年前。夏。

 お父さん《ダッド》。お母さん《マム》。

 ぼくの父は商人ビジネスパースンだった。


「健二、夏休みにアメリカへいかないか」

「ええっ! どこどこ?」

 パパは日焼けした顔から白い歯を大きく見せて言った。

「お父さんは今度シカゴに仕事で行くんだ。一か月もいるからお母さんと健二も連れて行こうと思う。丁度夏休みが終わる前に帰って来られるよ」

「行くー。絶対行くー」

「あなた、健二は学校の夏期講習が」

 ママはあまり心配そうでなく、たしなめるように言った。

「大丈夫。先生にはお父さんが手紙を書く。学校の勉強も大事だが、この年齢としで海外の経験をしておくのは大事なことだ。せっかく幼稚園から英語を習ってきたんだから、使ってみるいいチャンスだし」

「いつ行くの」

「あと三週間で出発する。健二のパスポートも作らなきゃ」

「ぼく夏休みの宿題はそれまでに全部やっておくよ」

 ぼくははりきった。旅慣れた両親はてきぱきと準備し、ぼくと両親はきっちり三週間後に機上の人となった。

 数十時間も飛行機に乗るのは苦痛で、着いたらホテルのエアコン温度が合わず、時差で頭は夢の中みたいだったけれども、テレビで見ていた異国を初めて生の目で見る感覚は格別だった。

 昼は父は仕事で外に出たままだから、母がぼくを連れ出してくれた。ぼくたちは歩いて近所の公園やショッピングに行った。

 父は夕方に戻ってくると、母とぼくを連れてレストランへ食事に出かけた。そして週末の計画を話すのだった。


 ある夜、いつものように夕食に出かけたぼくたち一家は道に迷い、普段踏み入れたことのない裏路地へ入った。

 父がでかいアメ車をターンさせるのに手間取っていると、道の向こうに黒い集団が現れた。父は車をバックさせようとしたが、今度は後ろにも別の集団が現れた。両集団は小山内一家ぼくたちの車は眼中にないようだった。彼らが互いにある距離まで近づいたとき、突然火ぶたが切られた。

 短機関銃サブ・マシンガンと銃声の乾いた音。爆発音。耳が聞こえなくなり、目が見えなくなった。

 気がついたぼくは起き上がろうとしたが、なにか重いものが上に乗っていて起き上がれなかった。

 必死にそれを押しのけて起き上がると、上に乗っていたそれは、母の形をした物体だった。

 運転席には父のスーツを着た物体がハンドルに突っ伏していて動かなかった。

 車内の床はぬるぬるした。ぼくは嗚咽を漏らしながら、ドアを開けて外に出た。

 外は街灯の明かりが照らしていた。遠くからサイレンの音が聞こえた。ずうっと向こうの明るい所から何人もの人がかけてくる。それを見てぼくは思った。

 また、やってくる。殺される!

 ぼくはあわてて裏路地の暗い所へ逃げた。ビルとビルの間に、子供しか通れないくらいの狭い隙間がある。ぼくは急いでそこに入り込んだ。

 駆けて駆けて、人声が聞こえなくなるところまで行き、巨大なごみ箱の後ろに隠れた。

 銃声はいつしか止み、遠くでサイレンの音がしばらく鳴り響いた後、静かになった。

 ぼくはゴミ箱の陰から転がりでると、どこへともなく歩き出した。

 空が暗くなった。いつの間にか空を覆っていた入道雲が稲妻を呼んだが、ぼくは気づかなかった。

 大粒の雨が降り出し、ぼくの頭から下着まで濡らした。

 ぼくはそのままふらふらと通りを歩いていったが、人声が近づくとびくっとして路地に隠れた。人声はぼくが隠れている路地の前をそのまま通り過ぎたが、ぼくは動かなかった。

 雨足はやがて静かになったが、ぼくはそのままだった。

 遠くからゆっくりとした靴音が聞こえてきた。

 靴音はやがてぼくの前で止まった。

 ぼくは目を上げた。褐色の肌の目の大きな女性がぼくを眺めていた。

「今晩わ子猫ちゃん」

 女性は声をかけたがぼくは返事をしなかった。

「なにか悲しいことがあったのね」

 ぼくは黙ったままだったが、女性は続けた。

「私もなの。誰かに慰めてもらいたいと思っていたのよ。でもあなたと私の違いは、私には暖かい部屋があるってこと」

 女性はぼくの濡れた体を抱きしめると立たせた。

「いらっしゃい。私の名前はデイジー」


 デイジーの部屋は暖かかった。ぼくは黙っていたが、デイジーはなにも聞かず、ぼくの身体を拭き、大きなマグカップを握らせた。手がかじかんでなかなかカップがつかめなかった。ココアの香りが立ち上った。

 ぼくはカップの端に唇をつけ、ココアをすすり始めた。いったんすすり始めると止まらなかった。ココアを飲み終わるとデイジーはぼくにだぶだぶのパジャマを着せ、ベッドに寝かせた。

 身体が温かくなると、涙があふれ出て、嗚咽が止まらなくなった。優しく背中をなで続けるデイジーの手を感じながら、ぼくはそのまま眠りに落ちた。


 デイジーはギャングの情婦だった。幼い子供をはしかで亡くしたばかりだった。デイジーの”夫”はときどきやってきて、日本人ジャップのガキを育てている変な趣味についてコメントしたが、デイジーはスペイン語で激しく抗弁し、ぼくを追い出させなかった。

 ほとんど口を利かないぼくは二人の邪魔もせず、そのプエルトリコ系の男は最初のうちぶつぶつ言っていたが、ぼくを追い出すことはなかった。

 ぼくのパスポートは母のハンドバッグに入っており、警察への捜索願いが出ているはずだったが、男の所属するグループの絡んだ抗争だったせいか、それともデイジーの意志によるものか、二人はぼくのことを秘密にしていた。

 もっとも、そういった色々なことが分かったのは大分後になってからである。


 翌日、鏡に映った顔を見ると目は腫れていたが、ぼくの首はしっかりと頭を支えていた。デイジーは朝食を作り、食べるぼくに色々と話しかけた。ぼくが答えないのを英語が分からないのだと思ったらしく、身振り手振りで話しかけた。

「大丈夫よ。私の旦那も米国ここに来た頃はほとんどしゃべれなかったものね」

 デイジーは赤ん坊に教えるようにゆっくりと話しかけてくれた。


 そのままぼくは数年間、デイジーに育てられた。

 デイジーの”夫”はたまに酔って機嫌が悪いとデイジーを殴った。デイジーもやり返し、騒ぎは狭いアパートの住人が苦情を言ってくるまで続いた。

 ある日、”夫”を追い出し、顔を腫らしてベッドに腰かけたデイジーにぬれタオルをわたしてぼくは聞いた。

「デイジー。もうフィルと別れたの?」フィルというのはデイジーの相手の名だ。

 デイジーは腫れたまぶたの下からぼくを見てにっこりと笑うと言った。

「違うさ」

「今日のはすごかったよ。もう死んじゃうかと思った」

「そうだったね」

「なんであんなことするの?」

 デイジーはじっとぼくを見つめた。あんたは賢いねえ、とつぶやくように言った。

「よく分かったね。あたしの方がしかけていったことを」

 ぼくはつばを呑んで言った。

「だ、だって……ぼくはデイジーをよく見てるから。ぼくは……デイジーのこと……」

 ぼくは言葉につまった。

 そんなぼくをデイジーは優しくだきしめて言った。

「あたしもあんたのことを愛してるよ」

 デイジーはぼくの頭をなでながら言った。

「口先で愛をささやくことは気の利いた男ならだれでもやるのさ。でも本当の愛かどうかはわからない。本当の愛はためされて初めてわかるのさ。だからあたしはときどきちょっとためしてみる。フィルだってあたしが必要じゃなきゃ、ここへは戻ってこないさ」

 デイジーはちょっと髪をかきあげた。

「大切なだれかがいるってことはいちばん大事なことさ。一人で生きることには耐えられない。愛することは自分にとって必要なのさ。だから愛するに値するひとを見つけたら、じぶんのすべてをかけてそれを大事にしなさい」

 ぼくは黙っていた。フィルがデイジーが愛するに値する男にはとても思えなかったが、大人の世界は不思議なものだ。

 デイジーは大事なことを言うときいつもそうするようにぼくの目をみつめて言った。

「人間はね。運命ってものがあるんだよ。あたしの最初の旦那は自分のことを『不死身のホセ』と呼んでいたけど、流れ弾一発の当たり所が悪くて死んじまった。人間が生きるか死ぬかは神様が決めることなのさ。だから生きている間は愛する者がそばにいることを慈しみなさい。それはテレビが停電で消えるように、ある日突然消えてしまうかもしれないから」

「デイジーもいつか消えちゃうの?」

「そうかもしれないね」

「ぼく、デイジーが消えたら嫌だな」

「あんたは男の子だろ。もうすぐあたしが必要なくなるよ」


     *


 デイジーの家での生活に慣れたぼくの遊び仲間はみなギャングの舎弟だった。店先から品物をくすねたり、なまいきなやつを”しめあげる”のが遊びだった。殴られて歯が折れても胸をはって堂々としていなければならなかった。

 一つだけいいことがあった。ぼくがどこから来たか、何民族か、学校はどこか、誰も聞かなかった。みなぼくを「ケンジ」という個人としてのみ扱ってくれた。グループの掟を守る限り、ぼくは仲間だった。

 中でもチャップというプエルトリコ系の兄貴分はぼくを可愛がってくれた。他の少年たちより年下の中でぼくだけが自分より幼いので兄貴風を吹かせたがったのかもしれない。

 ある日、チャップはぼくだけを脇に呼んで言った。

「おれの肩に刺青タトゥーを入れてくれ」

 チャップが従っているロナウドという筋肉質のギャングは、全身に複雑な模様の刺青を入れており、チャップはロナウドをいたく尊敬していた。チャップの夢はロナウドみたいになることだった。

 チャップはシャツを脱ぐとぼくにバタフライナイフを渡して言った。

「右肩に「R」と刻んでくれ。よく目立つようにな」

 チンピラの少年には、刺青を入れてもらう金もなかったのだ。

 ぼくがためらっているとチャップはうながした。

「早くしなケンジ。よく見えるように大きな字でな」

 ぼくは両腕を固く組んだチャップの右肩にナイフの刃を入れた。血が染みだした。チャップは額には汗をかきながら平気そうな顔で一言もしゃべらなかった。Rの文字はへたくそだったが、チャップは満足そうだった。

 即席の刺青は数か月で見えなくなるくらいうっすらしたが、その間チャップはTシャツのそでを肩までまくって得意そうにその”刺青”を見せていた。


 ぼくが十三歳になると、それまで一緒に遊んでいたギャングの少年たちが集まってぼくを一人前と認める”儀式”をした。

 一人で車を盗んでこい、というものだった。どんなに兄貴分の言いつけを聞いても、一人で仕事ができないようでは使いっ走りに過ぎない。一人でやって初めて一人前だ。集まったみなの前でそうチャップは宣言した。

「そうだよな」少年たちのボス、ジタンの顔色を見ながらチャップは言った。ジタンは黙ってうなずいた。

「ケンジ、来な」チャップはあごをしゃくった。二人は裏通りを歩き回り”獲物”を物色した。突然チャップが立ち止まった。

 チャップは言った。

「いいかケンジ。まずおれがやり方を見せるからお前も同じようにやるんだ」

 ぼくは神妙にうなづいた。チャップはストリートを見回すと、さりげなく濃緑のエルドラドへ近づいた。

 ズボンの尻ポケットから特殊工具を取り出す。うっかりしたオーナーが鍵をさしたままドアをロックしてしまったときにガソリンスタンドの連中が使うやつだ。チャップはその工具をドアフレームと窓のすきまから差し込み、先端をロックレバーにひっかけて引き上げた。

 耳をつんざくようなアラーム音が鳴り響いた。

「ちっ、逃げろ!」

 チャップは駆けだした。ぼくもあわてて後を追った。後ろから怒鳴り声と複数の大人の駆け足が聞こえる。ちら、と後ろを振り向くと、縦縞のスーツにハバナ帽をかぶった黒人が、仲間と一緒に走ってくるのが見えた。

 チャップは路地を左右に縫い、落ちている冷蔵庫を飛び越え、雨樋のパイプをよじ登ってストリートを駆けた。ぼくも置いていかれないように必死で走った。

 途中、ゴミ収集箱の下から流れ出ている黒い染みを踏んですべった。

 大人の足音が近づいてくる。

 チャップが気づいて戻ってきた。

 ぼくの手を引いて立たせ、別の方角へ引っぱった。

 そこは行き止まりだった。波うつトタンの壁が、無情に前をふさいでいる。チャップはすかさず壁際の箱に飛びのった。

「来い!」

 まごついたぼくに向けてシャウトする。

「来いったら、早く!」

 続いてぼくが箱に飛びのると、チャップは壁に手をついて言った。

「早く。おれの肩に乗ってここを越えろ」

「ええっ!」

「早くしろ、早く!」

 後ろからは追っ手がせまっている。ぼくは言われるままにチャップの背中をよじ登り、両肩の上にのった。

 チャップはぼくの両足首をつかみ、そのまま押しあげた。

 両手の指がようやく壁の上端にかかった。トタンが指に食い込む痛さも忘れて、ぼくは身体を引っ張りあげた。バスケットシューズが壁をひっかき、自分でもどうやったか分からないが、とにかく上体を持ちあげ、右足をかけて壁を乗りこえた。

 そのまま向こうに落ちた。どすん。目が回り、しばらく動けなかったが、どこもけがはなかった。壁の向こうではチャップを捕まえた大人の罵る声が聞こえる。

「このガキ。ふてえ奴だ」

 殴る音とうめき声をぼくは締めつけられる思いで聞いた。

 大人たちが去ってずいぶん時間がたってから、ぼくは壁を叩いた。

「チャップ。チャップ。大丈夫?」

 しばらくしてからうめき声が聞こえた。

「うう、あいつら。鼻の骨を折りやがった」

 ぼくは急いで回り道をし、袋小路へたどり着いた。チャップはそこに倒れたままだった。

「あいつら殴っただけで満足したようだ。警察サツには突き出さなかった」

「ごめんよ。ごめんよ」

「心配するな。ちょっとおれの腕や足を引っぱってくれるか」

 チャップは首だけぼくに向けて言った。顔が血だらけだ。ぼくがそっと足を引っぱると、チャップはうめき声をあげたが、うれしそうに言った。

「手足はどこも折れていない。内蔵も大丈夫そうだ。ハリーを、呼んできてくれ」

 ぼくはうなずくと、酒屋のハリーを呼びに立ちあがった。チャップはにやりとした。

「ケンジ。お前聞いていただろ。おれは”歌わ”なかったぜ」

「うん。ありがとう。どうしてぼくを逃がしてくれたんだ」

「そりゃお前」チャップは片目をつむった。「おれの親父は永住権を持っているが、お前は超過滞在オーバーステイだろ。捕まったら強制送還されちまうじゃないか」

「チャップ」

「これがFOLKSフォークスの掟だ。仲間は決して売らない。よく覚えておけ」


 さらに五年が過ぎた。

 チャップはおれの兄だった。二人ともそのまま成長し、ギャングとなった。

 シカゴギャングにはFOLKSフォークスPEOPLEピープルというグループがおり、チャップとおれはFOLKSフォークスの側だった。

 両グループとも仲良くシマを分け合ってヘロインやコカインの販売、自動車泥棒、酒場やカジノの用心棒などの仕事をつとめていた。

 たまに抗争があり、そのときは銃やナイフを必要としたため、おれもその使い方に習熟しなければならなかった。十八歳になったおれの仕事はヘロインの売人だった。

 よれよれのジーンズにTシャツという姿で縄張り《シマ》の通り《ストリート》を歩いていると、たまに警察官の職質を受けた。職質というのはなんということはない。汚い言葉でののしられながら乱暴に身体検査を受けることだった。ゲイの警官がゆっくりと尻をなで回すこともあった。

 もちろんブツを携帯しているわけはないので、何も見つからなかった。

 ブツも武器もストリートの担当が持っている。彼らは普通に新聞の屋台を開いているおじさんだったり、バルコニーの花に水をやっている老婆だったりする。彼らは普通に暮らしている。ただ、おれが危険を感じて合図すればすぐに植木鉢の下から拳銃が現れて渡されるのだった。

 自分の縄張りにいる限り、おれが危険を感じることはほとんどなかった。


 あの年の聖パトリックの祝日セント・パトリックスデー、シカゴの街はお祭り気分だった。

 ブラスバンドを先頭に行列がウエスト・セルマック通りをローワー・ウエストサイド地区から東に向けて進んでいた。

 シカゴ川は祭りの染料が流され、緑色に染まっていた。

 今日はシカゴ市警も祭りの警備で忙しい。

 おれたちはべつの意味で忙しかった。

 チャップが先に進み、油断なく周囲に目を配る。おれはゼロ・ハリーバートンのブリーフケースを下げ、チャップの歩く後ろを距離をおいてついていた。

 プラスバンドのつんざくような管楽器の音と人々の喧騒でほとんど何も聞こえない。気をつけずに歩いている人がおれにぶつかってよろめいたが、誰も気にしなかった。

 チャップとおれはまとまったブツを運んでいたのだ。急ぎの取引があり、あるプール場所から別のプール場所へ品物を届けなければならない。大通りは通行止めか渋滞だ。二人が指名され、徒歩で運んでいる最中だった。

 二人はパレードと共に歩いた。パレードはじきに橋へ差し掛かった。目の下に緑色に染められたシカゴ川が見える。橋の途中でチャップが立ち止まった。正面をにらんで背筋を伸ばしている。

「とうしたチャップ」

 声をかけようとしたとたんにおれも気がついた。新興のチャイナ・ギャングの連中だ。のし上がろうとしているやつらにはPEOPLEピープルと結んでいるような協定はない。

 チャップが後ろを振り返る。おれも後ろを振り向いた。

「走れっ!」

 おれは走り出した。チャイナ・ギャングの連中も追ってくる。おれはゼロ・ハリを両手で抱え込んだ。突然正面から銃弾が来た。

「ぱん、ぱん」

 乾いた音が鳴り響くが、どこかくすんでいる。消音器サイレンサーをつけているのだろう。ゼロ・ハリの表面に金属がぶつかってはじける衝撃があった。

「はさまれた。ケンジ。こっち来い」チャップがおれの腕をつかんで引っ張る。おれたち二人は欄干をよじ登り、上に立った。

 下まで二十ヤード。ものすごく高く見えるがぐずぐずしている暇はない。欄干から水面へ向かって飛び降りた。弾丸が身体をかすめた。早く水面へ!

 とても長い一瞬の後、おれたちはシカゴ川の水面を割って入った。おれは水を呑んだ。思わずもがきながら水面へ出る。とたんに上からの銃撃にさらされた。

「なにやってる!」チャップも浮き上がる。

「ゲフ」おれが水を吐いた。

「馬鹿野郎! 潜れ! 仕事はきっちりやれよ。頼んだぞ」

 チャップは大きく手を振ると、西に向かってクロールで泳ぎ始めた。目立つ動きに銃撃が集中する。

 おれは水に潜った。重いゼロ・ハリを抱えていると、深く潜るのはわりと容易だった。シカゴ川は川底では流れが逆に流れている。そのことをチャイナの連中が知っていなければいいが。おれは東に向かって泳ぎ始めた。


 荷物ブツの届け先には見張りのベンが待っていた。

「チャップは」おれは息せき切ってたずねた。ベンは黙って肩をすくめた。

 おれは荷物を渡すと長い間待っていた。三月でずぶ濡れの身体は冷え込んだが、毛布一枚を身体に巻いたまま、おれはチャップの帰りを待ち続けた。一時間ほど先ほどの出来事を頭の中で反すうしていた。


 仕事はきっちりやれよ。頼んだぞ。


 どこかで聞いた台詞だと思った。混乱していて思い出せない。

 仕事はきっちりやれよ。

 あの状きょうでチャップがわざわざ言うにしてはおかしなセリフだ。

 頼んだぞ。

 思い出した! 映画の台詞だ。

 先週チャップと一緒に見に行った。アクション映画で、登場する軍曹が自分を犠牲にして仲間を救うシーンだ。最後の言葉だった。

 ばか! おれは思わず立ち上がった。外に出ようとして見張りに身体を抱きかかえられる。

 チャップは本当に格好つけたがりで、チンピラのロナウドや映画のヒーローなどにすぐ影響されて、自分もそれを真似しようとして……

 ……本当はギャングはそんな格好のいいものじゃない。自己中心的で強欲で、他人のために自己犠牲を払うなんて映画の中だけのことで、やっていることは陽のあたる場所ではできないけちなことで……

 ……それはそれでチャップはチンピラだったけどいいやつで、おれの兄貴みたいだった。

 もし荷物ブツを奪われれば、チャップとおれが組織の制裁を受けるのは間違いないことで、荷物を守りきったのはギャングとしては正しいことだが、自分を囮にしておれを助けたなんてのはどうしたって間違ってる……

 おれはぐるぐると回る考えに頭を占有されながら見張りの腕の中で力なく暴れていた。


 夜、幹部になっていたジタンが来た。おれはジタンの顔を見て、チャップの運命を知った。

 一緒に警察病院へ行った。遺体安置室には冷たく固くなったチャップがいた。白いシャツが川に流された緑の染料に染まり、腹の真ん中だけ黒く染まっていた。

 前から打たれたんだ。欄干を乗りこえたとき、すでに致命傷をおっていたに違いない。だから死ぬときは格好よく決めたかったんだ。

 おれは頭を垂れた。そのままアパートへ戻った。チャップと共同で借りていたアパートへ。


 その晩、自室のベッドでおれは何度も寝返りをうった。胸の奥が焼けつくようで、のどが渇いて起きあがっては水を飲み、顔を洗った。

 ふと部屋の壁を見ると、壁には何の色もなかった。

 となりの部屋は今はからっぽで、昨日まで笑っていた同居人はいない。

アパートのくすんだ壁を見ているのがどうにも辛くて、おれは外へ出た。

 自分がどこを歩いているのかよく分からないまま、いつしかおれはデイジーの住んでいる通りへやってきた。

 デイジー。デイジー。会いたいよ。

 しかしデイジーはいなかった。呼び鈴を押すとチェーンをかけたまま用心深く扉が奥へ向けて開き、中には疑い深そうな目をした白人のおやじがいた。

「あの……ここに前住んでいた女性がどこに引っ越したか知っていますか」

 おやじは油断のない目をおれに向けたまま無言で首を振ると扉を閉じた。


 そんなはずはない。

 そんなはずは……

 デイジーが、あのデイジーがおれにだまって去ってしまうなんて。

 確かに成人したおれが”夫”をさし置いてデイジーの世話になるのはおかしい。

 だから割と早い時期からおれはデイジーのところを飛び出した。

 飛び出したときもデイジーは暖かく笑って送りだしてくれた。

 おれはその後ギャング修業でいそがしく、たまにしかデイジーの所に顔を出さなかったが、毎日お天道さまが登るのと同じように、デイジーがそこにいることが当たり前だと思っていた。

 でもそれはちがった。

 デイジーはテレビが停電で消えるようにとつ然おれの前から姿を消してしまった。

 ドラマは途中だったし、続きを見ていたかったが、二度とそれを見ることはなかった。

 愛するものがいて当然だと思っていたのは間違いだった。

 愛するものがいる間、全力でそれをいつくしまなければならなかったのに。


 おれはそのまま長い間デイジーの家の扉の前で座り込んでいた。

 雨が降り出し、道路を黒く染めていった。おれはぼんやりとそれを見ていた。

 そう言えば、デイジーと会ったときも雨だった。デイジーのことを思い出そうとしたが、今はなぜかよく思い出せなかった。

 いつの間に自宅へ帰りついたのか思い出せなかったが、慣れで機械的にシャワーを浴びて着替えを済ませた。

 デイジーがそうしてくれたように、自分でココアを作って飲んだ。腹の中は暖まったが、気分は晴れなかった。

 ふと見ると小売用の白いパケがサイドテーブルに置いてあった。濡れた服から取り出して置いてあったものだ。

 不用心な。

 隠し場所にしまおうとしてふと手を止めた。

 これをやったやつはやめることができなくなる。なぜなら気持ちよくてこの上ない幸せな気分になるからだ。その内やめられなくなり、つらくなり、ぼろぼろになっていくのだ。

 自分が売っているものだから商品知識はあった。少し試したこともある。付き合い方さえわきまえれば大麻グラスなどのソフトドラッグと同じだった。

 おれはパケを開けるとなめてみた。経口摂取ではその効果を本当に味わうことはできない。でも今はなにか気をそらしてくれるものが必要だった。

 おれはその白い粉を二度、三度、歯茎に塗りつけた。脳がしびれるような快感が体中に広がっていった。


 数週間後、ギャング仲間が異変に気付いた。おれは普通を装っていたが、目の下にはくまができ、動作は緩慢になった。視線は焦点が合わない。簡単な言葉を何度も言い間違えたりした。

 つらいことを忘れるために立て続けにヘロインを服用し、今では皮下注射にまで進んでいた。

 ある時、車を運転していた。交差点を曲がろうとした時、急にハンドルがぐにゃりと曲がったように見えた。おれは思わずハンドルを切った。がしゃり、と音を立ててボンネットは街灯の柱にぶつかって止まった。おれはしばらく目を押さえていた。後ろからクラクションが鳴った。

 まずい。警察が来る。

 おれはあわてて車をバックさせた。もう幻覚は止まっていた。おれはそそくさと裏通りに逃げ込んだ。


     *


 『シカゴ市立薬物&アルコール更生病院』という看板を過ぎて待合室へたどり着いたおれは待合室のブロンドが診察申込書を渡すときに必要以上に胸を近づけてきたことにも、ウインクしたこともどうでもよかった。

 ナニカシナクチャ。

 心の底にある声が懸命に叫んでいたので、やっと身体が動いているような状態で、目の前を過ぎる何物にも興味を覚えなかった。

 しかし言われた通りに書き込んだ甲斐があり、おれの番が来て名前を呼ばれた。おれは足がふらついたが診察室に入った。

 診察室には黒人の医師がいた。黒縁眼鏡の奥に理知的な目が光り、わずかにひげの伸びたあごが意志の強さを示すかのように尖っていた。医師はおれの目を見つめて尋ねた。

「一人で決めて来たのかね」

 おれは答えるのもおっくうだったが、心の声がソウダソウダと叫ぶので答えた。

「はい」

「大したものだ」医師は軽い笑みを浮かべておれの手首を握った。脈を取る。

「見ればわかる。君は重度のヘロイン依存症になっている。君くらいひどければ普通、自分で歩いて入院しには来ないものだ。だが」

 医師はぎゅっとおれの手を握った。

「君の中の何かが君を更生へと駆り立てた。私はそう信ずる。その勇気を褒めたたえよう」

 おれは腑に落ちなかった。これは新たな患者の治療法だろうか。どこの世界に重度のヤク中を褒めたたえるやつがいるもんか。

 おれは立ち上がって帰ろうとした。だが、医師は握った手を離さなかった。

「ヘロインに限らず、薬物中毒は適切な治療を受ければ完治する。患者は再び健康体になり、肉体は薬物に依存する必要はなくなる。しかし」

 医師は目を閉じて頭を振った。

「ほとんどの重度の患者はここを出ると再び依存者の生活に逆戻りする。それは精神の戦いに敗れたからだ」

「薬物との戦いは自分の心との戦いなのだ。ただ、君はそれを一人でやってはいけない。私が今日から君の戦友となる。いいか」

 医師はおれの目を真っすぐ見、顔を近づけてきた。

「私は君の担当医、イスマイール・トゥモロー。ドクター・モローと呼んでくれ。君を更生させるためにできる限り努力する。だから君も一緒に戦うと約束してくれ」

 モロー博士は手続きをし、おれの入院を許可した。


 鉄格子のはまったドアを見上げ、おれは今日千回めの寝返りをうった。

 病室内のベッドも椅子も床にボルトで留められている。室内には鉛筆や花瓶にいたるまで、患者が自傷行為を行えるような器具は一切ない。さすがに拘束衣は着せられなかったが、外には出してもらえなかった。

 ときどきおれはドアの鉄格子をつかんでねだった。

「悪いけどさあ、ちょっと出してくれよ。すぐ戻るからさ」

 たまに相手をしてくれる看護婦は全く気の毒そうな様子をせずに首を振るだけだった。

 波のように周期的に苦痛はやってきた。全身の血管の内部をゴキブリが這い回るような気分。背筋に悪寒が走り、頭が割れるように痛んだ。身体をかきむしっても駄目。叫んでも駄目だった。

 もっともギャングの矜持プライドがあったのでみっともなく叫ぶことはしなかった。叫び声を口の中でかみ殺し、こぶしを白くなるまで握ったり、全身の筋肉を突っ張ったりした。そうしているうちに波は去っていった。眠っている間は苦痛を忘れたが、起きると再び悪夢が始まるのだった。

 最初の十日間はそうして過ぎた。次の十日間はもう少しましだった。苦痛の程度が減り、波のやってくる回数も減った。禁断症状の苦痛には耐えることができた。

 問題はその後だった。余ゆうが出てくるとまずおれが考えたのは「これならまたヤクができる」だった。これだけ我まんしたのだから、ごほう美に少しやったって構わないだろう。

 モロー博士は毎日やってきた。屈強な看護士が自分の義務を果たさずにはいないような顔つきで側に付き添っていた。おれが突然飛びかかるとでも思っているようだ。

 それに引きかえおれを診察する博士は完全にリラックスし、警戒心のかけらも見せなかった。

 二十日が過ぎたとき、博士はおれとカウンセリングの場を持った。

「博士」

「どうだね」

「まだ苦痛が止まりません。発狂しそうです」

「君はよく耐えた。これからが本番だが、最初の苦痛は去ったはずだ」

「博士」

「なんだね」

「薬物をいきなりやめると反動でショック症状を起こすこともあると読みました。なにかそのう……別の弱いドラッグで苦痛を軽減するなどしてもらえないでしょうか」

 モロー博士は静かにおれを見た。眼鏡の奥にある優しい眼がまたたいた。

「残念だが、ちまたに広まっているその手の療法を私は全く信用していない。確かに効果の軽い別のドラッグで気をそらすことはできる。しかしそんなものはまやかしだ。引越し先のドラッグに中毒になり、再び苦痛を伴う試練を通過しなければならない。いや、私は絶対にそんな方法はとらないよ」

 おれはがっかりして手を揉んだ。

「博士。それではちょっと病院の庭を散歩してもいいでしょうか。部屋の中にいると息が詰まります」

 博士はちょっと面白そうにおれを見た。

「そうだな。そろそろ禁断症状も軽くなってきたし、外の空気を吸うのもいいかもしれない。私も一緒に行こう」

 おれはけっこうです、という言葉を呑みこんだ。もし逆らって散歩を禁止されたら水の泡だ。

 外の空気はまずかった。太陽の光はまぶしすぎ、おれはいらいらした。今のおれに必要なのは新鮮な空気でもなく健康的な生活でもない――ヤクだ。

 おれは膝の力を抜いてよろよろしてみせた。モロー博士が肩を貸した。おれはそれを丁重に断って自分で立った。

「あそこに芝生がある。あそこに行こう」

 モロー博士は中庭の真ん中を指差した。車椅子に座るパジャマ姿の患者や行きかう薄ピンク色の看護服を着たナースなどから少し離れて、ぽっかりと空いた場所にモロー博士とおれは座った。

 モロー博士は何か世間話を始めたが、おれの耳には何も入らなかった。おれは膝を抱いて座り、話を聞いているふりをしていたが、なにげなく、本当になにげなく言った。

「博士。しばらくお日様に当たっていなかったので、日陰で慣らすことにします。ちょっとあそこの木陰に行きますね」

 おれは返事を聞く前に立ち上がって歩き出した。木陰のある茂みのさらに向こうには病院の裏門が見えていた。

 おれは最初はさりげなく、それからだんだん早足で歩き出した。あと少しで芝生が切れるところでおれは走り出した。道を歩く松葉杖の男を突き飛ばし、走った。あと少しで門だ。外に出られる。

 突然天地が逆になり、おれとモロー博士は種を植えたばかりの花壇に突っ込んだ。黒い土が口の中に入り、石灰の味がした。

「残念だったな。ケンジ。私は高校時代、陸上の選手だったんだ。二百メートル走者だった」

 博士はおれの腰をしっかりと捕らえて言った。それから、まだぜいぜいと息を切らしているおれの手を引っ張って立たせた。

「そうなんですか。間違いなくアメフトをやっていたと思いましたね」

 おれは息を切らせて両手を膝についた。博士がおれの手首を離した。チャンスだ。

 おれは右のこぶしを固めて博士の顔面に叩きこんだ――はずだったが、どういうわけか、おれのこぶしは宙を切った。青い空が目の前を横切り、おれは再び背中を黒土につけていた。

 博士は息も切らさずに言った。

「それから今は週に二回、合気道を習っている。君の国の武道はなかなかすばらしい」

「そうですか」

 おれはがっかりしたふりをして座った。息が切れるのは本当だった。ヤクと運動不足で体が参っている。

 それを見てモロー博士はちょっと安心した様子で眼鏡をはずし、シャツで拭いた。

 びしゅっ

 おれの投げた土の塊が見事に博士の目に当たった。思わず博士は手で眼を覆う。そのすきにおれは立ち上がった。

 まっしぐらに駆け出そうとしたが、博士のスライディングしてきた足につまずいて転んだ。

 博士は涙を流しながら土まみれの顔の真ん中でかっと眼を見開き、おれの脚を抱きかかえた。

 おれはそれを蹴飛ばそうともがいたが、博士の腕は鉄のようにおれの脚を締め付けた。

「薬物依存者はみんなそうだ」博士は言った。

「肉体的には薬物が抜けてからが本当の戦いになる。精神が薬物の奴隷になっているからだ。薬物を手に入れるために知能と肉体の全てを駆使して努力する。嘘、裏切り、暴力と破壊、何でもありだ。しかしケンジ。君が戦わなくてはならないのはまさにそういった君自身なのだ」

「頼む。ちょっとでいいんだ。ヤクをくれ。ヤクをくれよう!」おれは叫んだ。

「駄目だ。我慢しろ」

「ちくしょう! 人でなし!」

「なんと言われても駄目なものは駄目だ。君の肉体は薬物を必要としていない。子供がキャンディを我慢できないのと同じように薬物が我慢できないだけだ」

「くそ。親父みたいなこと言いやがって」

「私を父親と思ってくれてもいい」

「ふざけるな。おれの親父は死んじまった。ギャングに撃たれてな」

「私の親父も死んだ。警察に撃たれて」

 おれは思わずもがくのをやめた。

「なん……なんだって?」

「とにかくこっちへ来い」

 モロー博士はおれを万引きをして捕まった中学生を補導するように連れて行った。

 博士の診察室の後ろにあるカウンセリングルームのソファーに腰かけておれはふてくされた。出入り口には看護士が立っており、今度こそ逃げ出すのは不可能のようだった。

 顔を洗ってきたモロー博士は顔を拭いたタオルでシャツをはたき、手を洗うとコーヒーメーカーからコーヒーをついでおれに差し出した。おれは手を振ってことわった。すると博士はそのマグカップを手にしたままおれの前の椅子に座った。

「さて、私の話の続きだ」モロー博士は口をきった。

 おれは「たずねちゃいないぜ」と反抗しようと思ったが、やめた。この人は肉体的にも精神的にもおれなんかよりはるかに立派な人だ。屈服するのが悔しいとさえ感じなかった。

「私は九人兄弟の六番目に生まれた。貧しかったが父と母は一生懸命働き、私たち兄弟を育ててくれた」

「上の二人の兄は早くから働き、家計を助けた。私は奨学金をもらうために勉強に忙しかった。しかし幸せだった」

 モロー博士は言葉を切るとコーヒーをすすった。

「父が従軍し、そこで薬物を覚えて来るまでは」


「兵役から戻った父はいつも落ち着かなくなり、家の金を持ち出すようになった。生活費は全て薬物を買う金に変わり、家の中は毎日けんかで荒れた

 ある日、禁断症状に耐えられなくなった父は、兄たちの給料を持ち出そうとし、止めた母と兄たちを拳銃で撃ち殺した。警察が建物を包囲し、父は警官隊に撃ち殺された

 私の家族はそれぞれの親戚に引き取られ、ばらばらになった。私は叔父に引き取られ、大学を出るまで面倒を見てもらった。

 在学中に私の弟二人がやはり薬物のために崩壊してしまったことを知った。家族のいない寂しさに耐えられなかったのか。私の家系には薬物に抗しきれない血が流れているのかもしれない」

 博士は頭を後ろに倒した。湿った前髪が後ろになびいた。

「私は両親の墓前で決心した。一生を薬物との戦いに費やす、と。私は暴力はきらいだ。銃は見るのも嫌だし、人を傷つけることは耐えられない。だから薬物を供給する組織との戦いは警察に任せることにした。ただ、医者として、依存者と一緒に薬物と戦う仕事はできる」

 博士は椅子に座りなおした。おれの目を真っ直ぐに見据える。

「これは戦争なのだ。「薬物」という人間を狂わせるもの、その周辺で稼ぐ者たち、その影響から逃れられない者たち全てを巻き込んでの全面戦争だ」

 博士はおれの膝に手を置いた。暖かい手だった。

「ケンジ。君はその犠牲者だ。……と同時に戦士でもある」

「戦うんだ。自分に負けるな。自分の弱さと戦い、薬物の誘惑に屈するな。その強さを身に着けろ。誘惑は一生ついて回る。肉体が薬物から完全に自由になっても心を鍛えていなければ、辛いことがあるたびにまた薬物に逃げたくなるだろう。それが一度依存者になった者の宿命だ。だから一生戦うんだ」

 おれは疑問を口にした。

「博士。一つ聞いていいですか」

「なんだね」

「なぜ、そんなに強くなれるんです。おれにはとてもできそうにない。おれはあなたみたいに強い人間じゃない。おれは……けちなギャングです。拳銃を撃ったり、カーチェイスはできるけど、一生誘惑と戦うなんてできそうもない」

「私は特別な人間じゃない。強くもない」博士は目を閉じて首を振った。

「ただ私は家族を愛している。だから勇気を出せるのだ」


 退院してもいいと言われてから、おれはモロー博士のもとにさらに四ヶ月いた。

 その間、もっぱらおれは博士の手伝いをしたり病院の掃除をしたりした。

 博士の可愛い息子をだかせてもらったりもした。

 家族と一緒の時の博士の表情は、仕事の時とはちがって優しさに満ちあふれていた。

 おれはそれにあこがれながら自分とのあまりのちがいになやんでいた。

 博士はれっきとした米国市民で高い教育を受け、社会的地位を築いている。

 それに対し自分は超過滞在オーバーステイでギャングで、教育も受けていない。家族もいないし、今さら日本に帰ったところでどこにい場所があるだろうか。

 博士の厚意で病院にいるが、本来おれがいていい場所じゃない。

 博士にこれ以上迷わくをかけるのはいやだった。

 そこである日、おれは今度こそ本当に退院した。


 おれはジタンのところへ行って、ギャング仕事を辞めたい、と言った。ジタンは何も聞かなかった。ただこう言った。

「FOLKSを『辞める』、ということはないんだぜ。俺たちは家族ファミリーだからな。仲間の秘密を漏らすな。それだけだ。いつか戻って来たけりゃまた来な」

 おれはギャング仲間に用意してもらった偽のグリーンカードや運転免許証、社会保険証を返却すると、アパートを引き払ってシカゴを出た。


     *


 アイオワ州の州道は見渡す限りのトウモロコシ畑だった。

 おれは照りつける太陽の下、遠くに逃げ水の光る直線道を歩いていた。時々後ろから来る車に段ボールの切れ端を掲げて見せたが、誰も止まってくれなかった。おれの着ているよれよれのTシャツ、ぼさぼさの長髪。そしてドラッグ・カルチャーで身につけた全身に漂うヒッピーの雰囲気が反感を買ったのかもしれない。

 時々水筒代わりのペットボトルから水を飲んだが、それも終わりに近づいた。おれはあちこちへこんで白くなったペットボトルを大事そうにバックパックに入れ、段ボールの切れはしを手にして再び立ち上がった。

 遠くからトラックが近づいてきた。おれは片手に段ボールを掲げながら、目に入る汗を止めようと額を拭って前髪をかきあげた。

 通り過ぎたトラックがブレーキのきしむ音を響かせて止まった。運転席の窓から中年の白人が頭を出して怒鳴った。

中国人チャイニーズか?」

 おれはゆるく答えた。

人類ヒューマンビーイングだ」

 その白人は窓から首を引っ込めた」

日本人ジャパニーズだ!」

 おれはあわてて怒鳴った。

 男は再び頭を出し、トラックをバックさせて前まで来るとおれの顔をまじまじと見つめた。

「本当か。本当に日本人だな」

「メイド・イン・ジャパンだ。最も米国こっちがちょっと長いがね」

 白人男はあごをしゃくった。

「乗りな」

 おれは助手席に乗り込んだ。

「ふーん、ヒッピーかと思ったが、やっぱりジャパニーズだ。風呂にはちゃんと入っているようだな」

「まあ、ヒッピーみたいなもんさ」

「どこまで行くつもりだ」

「とりあえず、西海岸まで」

「なぜ」

「そこに何かがあると思って」

「若いの」白人はハンドルを握りながら太った腹をゆすった。「あてがないのなら、しばらくおれの農場で働かないか。今は農繁期なんだ。人手はいくらでも欲しい」

「いいよ。でもいいのかい。おれみたいなのでも」

「日本人なら真面目だろう」

「ヘイ。テレビの見すぎじゃないか。日本人にも色々いるだろう」

 白人は笑わなかった。正面を見ながら言った。

「おれは以前日本人を雇っていたことがあるんだ。だから信用する」

 トラックは途中で右へ曲がった。トウモロコシの真ん中に古びた白い建物があった。ガレージの前にトラックをつけると、白人は右手を差し出した。

「おれの名前はボブ・マーリン」

「ボブ・マーリー?」

 白人は露骨に嫌な顔をした。ドラッグ・カルチャーで有名なジャマイカ人音楽家と少なくとも百回以上間違われたのだろう。

「おれを葉っぱを吸ってふらふらしている連中と一緒にしないでくれ。おれは真面目な働き者の中産階級さ。もしお前が日本人でなく、ヒッピーだったら、おれの農場へは入れさせない」

「わかったよミスター・マーリン。おれの名はケンジ・オサナイ」

「ボブでいい。じゃあケンジ、中に入ってビールでもやらないか。それから条件についてゆっくり話し合おう」

「おれは酔うものはやらない。砂糖水コークか、それがなけりゃ水でもいい」

「じゃあ入りな。豚の品評会で当てたドクター・ペッパーが山ほどある」

 おれはそこで三ヶ月働くことになった。

 ボブは正直で親切だったが、自分の意見と異なることには絶対に譲らず、それでよく他の連中とけんかしていた。おれがいなければ他に誰も働き手がいなかったのは、それが理由だった。

 妻はすでに亡く、子供はいなかった。ときどきリュウマチでひざが痛み、歯を食いしばってしばらく動けずに立ち尽くしていた。細かいことは気にしない性質だったので、おれが運転免許を持っているかなど、確認しなかった。

 おれはその日からボブの農場で働いた。


「ケンジ、ケンジ!」

 ボブが叫ぶ。

「このトラクターだが、人間で言えばおれのじいさん位の年齢としだな。運転するにはちょっとコツがいる」

 見るとデフロック・レバーと安全柵の間にゴムチューブがかかっている。ボブは両手でチューブをつかんで張りを確認した。

「こいつを引っ掛けておかないと、左へ左へ曲がっちまう。ハンドルだけでは制御できない。だから、曲がるときだけいったん停まって、こいつをこう……」

 ボブは両手で引っ張ってチューブをはずした。

「はずすんだ。向きを変えたらまた引っ掛けるのさ」

「オーケー」

「それから停まるときだが……」ボブはおれをトラクターの運転台へ招いた。

「ブレーキが甘いから、フットブレーキだけでは止まらない。同時にハンドブレーキもこうやって……」

 大きな動作でサイドレバーを引いた。

「力一杯引けば停まる。なに、今度トウモロコシを売ったら修理するさ」

「オーケー」

 トラクターの前にはトウモロコシ自動取り入れコーン・ピッカーが接続されており、トラクターの進路にあるトウモロコシの木は次々になぎ倒されて裸にされ、コーンのみがベルトコンベアで放り上げられて後ろに接続したトレーラーに積まれる。

 おれはトラクターを運転しさえすればいい。

 仕事は大変ではなく、単に暑いのと面倒くさいだけだった。しかし、足の悪いボブには辛い仕事だろう。

 その日は無事終了した。トレーラーに山積みのトウモロコシを見て、ボブは目を細めた。

「やっぱり、日本人は働き者だぜ。おれの目に狂いはなかった」

 ご機嫌のボブは清潔な部屋をあてがってくれた。ボブの作った夕食を済ませて、おれは気持ちよく寝た。


 何日か後、ボブは家の中で銃の手入れを、おれは表で豚にやる飼料を運んでいた。

 突然、遠くでトラクターのエンジン音が聞こえた。昼間なので、キーをつけたままだったのだ。ボブは舌打ちした。

「また隣のジェンキンスとこのくそガキどもがいたずらしに来たな」

 ボブは表へ出ようとドアの前まで来たところで顔をしかめて立ち止まった。膝の痛みが再発したのだ。そのまま大声でわめいた。

「こらー! このくそガキども。ただじゃおかねえぞ!」

 言いざま手にしたライフルを空に向けて撃った。

 ぱんっ。

 ティーンになったばかりの子供が数人、走るトラクターにまたがっていたが、銃声を聞いて、間違って森から飛び出してしまった兎のように逃げだした。

 一人がトラクターを止めようとしたが止まらない。逃げた子供の一人がくぐりぬけようとした鉄条網にひっかかった。シャツとズボンを取られ、もがくとますます絡まっていく。

 トラクターを操作している子供が悲鳴を上げた。

 トラクターはじわじわと鉄条網にからまった子供に向けて進んでいく。

 トラクターの上の子供は飛び降りたが、トラクターはそのままゆっくりと進んでいく。トウモロコシをなぎ倒し、進路にある全ての立ったものを砕いていく。

 時間がなかった。おれたちのいる場所からはおよそ百ヤード。トウモロコシの林をかき分けて走っていく時間はない。おれはボブに怒鳴った。

「ボブ、ライフルをくれ!」

 ボブは一瞬試すようにおれを見たが、ライフルを放った。おれは空中でその小ぶりのライフルを受け取った。SKSカービン。ボブが「他のロシア製品がこいつ位ましだったら、買ってやるんだが」と言っていた小口径の銃だ。

 おれは銃身を杭の上に乗せトラクターに向けた。

 照準エイミングにかけられる時間は数秒。三、二、一……

「そんなものでトラクター《あれ》が止まるか!」ボブが叫ぶ。

 SKSの連射音が響いた。反動の少ない小口径ライフルではあるが、おれは発射時の反動を抑え、微妙に銃口を上下させてデフロックの操作レバーにかかっているゴムバンドを断ち切った。

 がちゃん、と音を立ててトラクターが左に旋回し始めた。そして刃の回転する採取口が今まさにおどりかかろうとしていた少年を逸れ、鉄条網をかけている杭に突っこんだ。

 が、ぎ、ぎ、ぎ。

 トラクターはしばらくもがくような音を立てていたが、障害物に負け、突然エンストして止まった。

 おれが駆けつけると、少年は真っ青な顔で鉄条網にぶらさがっていた。

 おれは一本一本針をはずすと少年を家へ連れ帰り、手当てをした。暴れたためにシャツはぼろくずのようになり、体中引っかき傷だらけだったが、命に別条はなかった。

 しょんぼりした少年をどやしながらボブがトラックで一キロ離れた隣家へ送って行ってから、おれはトラクターの修理を始めた。トラクターは主要な所は壊れていなかった。コーン・ピッカーの前部が少し曲がっただけだった。

 しばらくするとボブが思案深げに帰ってきた。

「ケンジ。今日の仕事は終いにしよう」

 トラクターの下部を調べていたおれはボブを物問いたげに見上げた。

「まあ、中に入んな」

 ボブは中に入ると手を洗い、ビールを一本出すとコップに注ぎ、おれに勧めた。おれはそれを手を振って断った。ボブはビールをコップ一杯飲みほしてから、おれをまじまじと見つめた。

「ケンジ。お前が銃を撃てるとは知らなかったぜ」

 おれは黙っていた。ボブには良くしてもらったが、ギャングだったことも薬物中毒の過去も話していない。それを見通すかのようにボブは言った。

「おっと、お前がどうやって銃の撃ち方を習ったか、なんて聞きたいんじゃないんだ。あんなものはこの国じゃボーイスカウトでも教えてる」

 ボブはさらにビールをあおってから、言った。

「だが、お前さんのは大したもんだ。暴れる銃口を抑え、連射をうまくコントロールした。ああいう撃ち方ができるやつはそういねえ」

 ボブは首をかしげておれを見つめた。

「なあケンジ。お前、早撃ち《クイックドロー》をやってみねえか」

 ボブは大儀そうに立ち上がると、壁際にあるガンロッカーを開けた。一番下の引き出しを開けると、銀色に鈍く光る拳銃が入っていた。

 コルト・シングルアクション・アーミー。通称ピースメーカー。

 西部劇に必ず出てくる前時代の遺物とも言える銃だ。引き金を引くたびに次々に弾の出る現代の拳銃と異なり、いちいち撃鉄ハンマーを上げなければ次弾が発射できないシングルアクション。

 回転式拳銃リボルバーですら、弾倉がスイングアウトし、全弾一度に排莢・再装填リロードできる時代に、一発ずつ穴から空薬莢を取り出し、また一発ずつ装填しなければならない。

 つまり、六発全弾打ち尽くした後は、物陰にでも隠れなければ無防備な拳銃。

 一対一のガンマン同士の決闘がお約束ごとだった西部劇の時代ならともかく、現代で実用拳銃としてこれを使う者はいない。ただ一つの例外は早撃ち競技だった。

 ボブは美しい唐草模様を刻んだブラウンのガンベルトをビール腹に巻くと、シングルアクション・アーミーに一発一発丁寧に弾を込め、中庭へ出た。

 五本の杭の上にドクターペッパーの缶を五つ並べる。それぞれの杭の間は一ヤード以上離れている。

「見てな」

 約七ヤード離れてから指を折りたたむように慣らし、いったん目を閉じて集中する。長くは待たせなかった。目を開けたボブの右手が銃把にかかったとたん、銃声がした。

 だだん。

 銃声は二発にしか聞こえなかったが、ドクターペッパーの缶は五つとも吹っ飛んだ。ボブの分厚い左手は扇のように開かれたまま、シングルアクション・アーミーの撃鉄の上に乗っている。

「すげえ《Great》」

 おれは思わずつぶやいた。ボブは構えの姿勢を崩すと西部劇でよくあるように拳銃をひとさし指でくるくると回してからホルスターに戻した。拳銃が体の一部のようなもの慣れた動作だった。

 空薬莢を抜いてから鉛弾の代わりに蝋を詰めた空砲を装填し、おれにガンベルトごと渡す。

「クイックドローは危険だからな。自分の足を打ち抜かないように最初はこれで練習するんだ」

 おれはボブのシングルアクション・アーミーを抜いて眺めた。銃身にも銃把にも美しい浮き彫りが施されている。ガンオイルが染みており、良く手入れされている。持ち主の愛情が見て取れる。

「いいのかい」

「ああ」

「でもボブ。なぜおれに教える気になったんだ」

「お前には才能がある。お前を見ていたら、ある奴のことを思い出してな」

 ボブは悲しげな顔になった。

「ま、いい。やってみろ」

 おれはボブがやったように構えて、一呼吸してから抜いた。

 ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん。

 とてもボブのようなわけにはいかない。銃身の長いライフルと異なり、発射時の反動で銃口が跳ね上がるのを抑えるのが一苦労だ。

 そんなおれをボブは鋭い目で見ていた。

「なかなかスジがいいぞ。姿勢がいい。一発ずつ撃つんじゃなくて、一度になぎ払うイメージで狙うんだ。左手ファニングは練習すれば段々速くなる。サムライは一瞬で刀を抜いて切る技があるそうじゃないか、それをイメージしろ」

 「居合い」のことだろうと思った。

 その日は暗くなるまで抜き・構え・撃ち、の動作を練習させられた。

 次の日から抜き撃ちの練習は日課になった。

 毎日何かを修練するのはモロー博士の元にいた時以来だが、おれは嫌いではなかったし、教えているときのボブはとても楽しそうで、恩義を感じていたこの偏屈で不器用な白人を喜ばせることができるのはうれしいことだった。

 型がしっかりしてくると、ボブは実弾で練習させた。

 おれの抜き撃ちは段々速くなり、正確になった。十ヤードなら腰だめで百発百中でドクターペッパーの缶を打ち抜いた。連射による標的も上下左右を難なく一連の動作で撃ち抜けるようになった。

 ある日、いつものようにビールでほろ酔い加減のボブは、ご機嫌で言った。

「ケンジ、お前はいい。数ヶ月でよくやったな」

「いや、ボブ。あんたには敵わないよ」

「そうか、おれも歳をとったが、まだ衰えちゃあいない。だが、今よりも速くなるのは無理だ。ケンジ。お前は磨けばもっと速くなる。おれを超えて、世界一のガンマンになれる」

「ボブ。あんたは世界一だったのかい」

「そうさ。非公式だがな」

 ボブは嘘を言っているようには見えなかった。だが拳銃に興味のある人間なら世界一のガンマンの名前くらい聞いたことがある。残念ながらボブの名前は聞いたこともなかった。

 おれの顔つきを見て、ボブは勝手に理解した。

「おれの名前なんか聞いたこともない、って顔をしているな。そうさ。おれは以前、全米早撃ち協会《U.S.Q.D.A》と揉めたから、奴らはおれの記録を公式と認めやがらないんだ」

 ボブはゆらっと立ち上がった。グラスを天井に掲げる。

「おれは世界一だー」


 ボブの所に来てから三ヶ月がそろそろ終わりに近づいてきた。ある日曜日。久々にぽっかりと空いた時間があった。ボブは教会へも行かず、ソファーでビールを飲んでいた。

 テレビで野球の中継が始まった。マリナーズとヤンキースの試合だ。ボブが怒鳴った。

「ケンジ。テレビを消してくれ。いや野球中継以外なら何でもいい。変えてくれ」

「ちょっと待って」

 あのおんぼろトラクターを整備していたおれの手はオイルでべとべとだった。

「まず手を洗うから」

 その内、アナウンサーが叫びだした。

「今季絶好調のマリナーズのバッターは東洋のサムライ、イチロー」

「早くしろ!」

 ボブが叫ぶ。おれが手を拭って家に入る前にボブは足を引きずりながらカウンターの上に転がっているリモコンまでたどり着くとスイッチに分厚い手を叩きつけた。テレビは沈黙した。

 おれが近づくと、ボブは充血した目でおれを見上げた。

「ごめんよボブ」おれはなぐさめた。「野球が嫌いだったんだね」

 ボブは頭を振りながらソファーに戻り、どっかと腰を下ろした。

「いや。別に野球が嫌いなわけじゃない」

「じゃあ、どうして」

 返事の代わりにボブは長い間おれの顔を見つめていた。それからゆっくりと立ち上がると、寝室へ入って行った。

 しばらくすると、手に小さな写真の入った額縁を持ってきておれに渡した。おれは見た。農場をバックにボブと東洋人の青年が肩を組んで笑っている。二人とも腰にガンベルトをつけている。

「そいつはイチローといった」ボブがあきらめたようにつぶやいた。

「お前と同じ日本人だ。ガンマンになりたいとおれを訪ねてきた。あいつも才能があった。ここで働いているうちに、一人前になって、地方大会を総なめにして、いつかクイックドローの世界記録を出せると思っていた」

「どこか遠慮深いやつだった。ガンマンになるため、ずっと米国アメリカにいたいと……条件付永住者カード《グリーンカード》を取りたいと……おれに一言いってくれりゃなんとかはからってやったのに。あいつがここにいられるようにするためならお安い御用だったさ」

 ボブは鼻をすすった。

「しかしおれに遠慮して、内緒で陸軍に入りやがった。グリーンカードのためだぜ」

「ちょうどイラクに送られて、そのまま帰って来なかった。馬鹿なやつだ。命を粗末にしやがって」

 沈黙が支配した。おれはなにも言えなかった。ボブは鼻をすすった。

「ケンジ。お前もじきに行ってしまうんだろうな」

 鼻をすする音が部屋に響いた。

「おれは……」

「もうすぐ三ヶ月が過ぎる。いったん帰国しなけりゃ駄目だろう。おれのような農場じゃ、労働査証ワーキングビザが出るとは思えねえから、いったん日本に帰って、気が向いたらまた来てくれ。あっちでも早撃ちの練習を忘れるなよ。練習しないとなまるからな」

「ボブ」

「ああそうだ。日本じゃガンはご法度だったな。イチローが言ってた。おもちゃ《トイ》しか所持許可が出ないんだと」

「ボブ!」

「なんだ」

「おれ実は……」

「なんだよ、水臭えな。言ってみな。日本人は遠慮しすぎだぜ」

「おれ、超過滞在オーバーステイなんだ」

「はあ《What》?」

 ボブは細い目を丸くした。ビールがひざにこぼれたが、気がつかない。

「おれ、十一歳のとき両親が死んで、そのまま米国こっちにいるんだ。パスポートはなくした。警察に行ったら捕まる。強制送還されて、たぶん当分は米国こっちに来られないだろう」

「ふん」ボブは目をごしごしとこすった。「そりゃあ、余程のわけがあったんだろう。だがな、そいつはきちんとしておいた方がいいぜ」

「分かってるよ」

「いいや、分かってねえ。こういったことはすぐにやるもんだ。先送りにするな。それじゃだらしのねえ連中と一緒になっちまう」

 ボブはおれの顔をにらんだ。

「ケンジ。お前を見ているからわかる。お前は外見と違ってしっかりしたやつだ。働き方や拳銃ガンを握るときの姿でそれがわかる。薬物ヤクをやってふらふらしているようなやつには、ああは拳銃は扱えねえよ」

 おれは面映かったので黙っていた。

「荷物をまとめな。明日入国管理事務所へ送っていってやる。きれいなビザでまた会おうぜ」

 ボブの鼻をすする音だけが部屋に響いた。

「いいか。お前はちゃんとしたやつだ。ちゃんとしたやつらしく、筋を通しな」


     *


 眼が覚めると、苦痛がやってきた。

 まぶたがごつごつと眼にかぶさり、よく見ることができない。それでもシャツが破れ、胸が血だらけなのは見える。血をどけて見ればもっとひどい状態だろう。

 首を回そうとして激痛をかみ殺した。両手に手錠がはめられ、天井から吊り下げられている。

 ここは地下室だろうか。壁も床もコンクリートで、床には排水口があり、とぐろの崩れたホースがのたくっている。

 叫んでも誰にも聞こえないだろう。

 おれは過去から戻り、ようやく自分が今いる場所を思い出した。

 銀縁眼鏡のサディストと薬物のことも。やつはおれと隣にぶら下げられている「霧」を残して姿を消していた。後でまたやってくるに違いない。おれを少しずつ中毒にするために。

「また中毒者に戻るのか――」

 絶望が胃を締め付け、下腹部が収縮する。

 おれは頭を振った。まだ死ぬわけにはいかない。両手の指を伸ばしてみる。動く。やつら、ガンマンの命である指の骨は折らなかった。必ず殺すつもりだからだろう。

 状況はかなり、というか極めて厳しい。

 おれたちからの連絡がないことを第三部の仲間たちは気づいているだろうが、よもやこんな風に地下でつながれているとは知るまい。建物を取り囲んだまま手をこまねいているのではないだろうか。

 仲間による救助は期待できない。

 ならば自力で脱出するしかない。

 頭はまだくらくらした。濃縮された過去がいっぺんにのしかかってきて、重さにつぶれそうだった。喜びも悲しみも時間にろ過されて、その濃い味が感情を突き動かす。

 耳の奥で過ぎ去った人々の言葉がこだました。


 ――人間が生きるか死ぬかは神様が決めることなのさ。

 ――誇りを持て。おれたちゃFOLKSだ。

 ――ケンジ。お前はちゃんとしたやつだ。

 ――愛する者がいるから生きている甲斐がある。


 かおる!

 おれは頭の中で叫んだ。

 お前がいるのだから、おれには生きる甲斐がある。

 お前がいるのだから、おれは必ず生きて帰る。


 おれは脱出する決意をした。

 手をできるだけちぢめてみたが、手錠はしっかりと手首に食い込み、はずせそうになかった。

 ――自分と戦え、恐怖は判断を誤らせる。

 おれは五感を全て使って周りを調べた。何か利用できそうなものはないか。足が届くところにはなにもなかった。

 さっき銀縁眼鏡が使っていたあの机。机の上にあるものを利用できないか。

 おれは足でズボンのベルトをはずし、足の親指を引っ掛けてズボンを脱いだ。

 汗に加え濡れた床をこすってズボンをできるだけ濡らす。

 両足を使ってベルト通しにベルトを通してからループを作り、引き絞った。ベルトとズボンを足した長さのロープができた。

 おれは銀縁眼鏡が使っていたデスクを向き、ベルトを足の親指と人差し指ではさむとズボンを投げた。

 駄目だ。ズボンはデスクまで届かずに落ちた。しかし長さは足りているようだ。

 もう一度、もう一度ズボンを鞭のように投げる。ズボンのすそがデスクの脚に絡まった。

 今だ。ベルトを引く。濡れた生地は一瞬だけくっつくと再び離れた。

 濡れた生地の吸着力は一瞬だけだが強力だ。これを知っている囚人が濡れ手ぬぐい一本で刑務所の壁をよじ登ったこともある。おれはあきらめなかった。

 もう一度。ズボンを投げた。かかった。反射的にベルトを引く。しかし汗で滑って足の指で持っていたベルトはすり抜けてしまった。あわてて拾おうとしたが、もはや足の届かない距離に落ちている。

 おれはがっくりとしたが、再び気を取り直した。

 なんとかこの手錠をはずせないか。手の関節をはずして手錠を抜く技術があるそうだ。もちろん、初めてやるときはすごく痛いはずだが、殺されるよりはましだ。

 おれは右手で左手を色々とねじった。どうやったら関節がはずれるのか分からない。くそっ。おれは鎖を引っ張りもがいた。

 なにか道具があれば。手錠の鍵をはずすような。

 そう考えたとき、なにかがひらめいた。

 そうだ。「霧」はピッキングの達人だった。「霧」ほどの工作員なら、道具を携帯しているかもしれない。

 おれは足をのばして「霧」の体をまさぐった。ズボンのベルトやポケットを足の指ではさんだりねじったりしたが、工具のようなものは感じられない。

 死者に悪いとは思ったが、おれは足を使って「霧」のズボンを脱がせると、皮膚の表面を探った。すねの骨の所がちょっとだけ不自然に膨らんでいる。

 おれは自分の足の爪をコンクリートの床でといだ。

 指が痛くなったが、足の親指の爪は薄く鋭くなった。

 おれはその爪で「霧」のすねの膨らんだ部分を切開した。

 あった!

 予想した通り、すねの皮膚のすぐ下に小さな金属棒が隠されていた。おれはそれを注意深く足の指ではさんで取り出した。

 腰を大きく曲げて足を上に上げ、金属棒を手に渡した。

 そのまま手探りで手錠の鍵をはずそうとする。

 おれはピッキングはそれほど得意ではない。ギャングのときも専らそれはチャップの役目だった。

 上に吊られたままの手は血液が足りなく、感覚が鈍っている。おれは焦りながらもなんとか手錠に挑戦した。この程度の鍵がはずせないはずがない。

 カチャ

 苦労の甲斐あって、ついに手錠がはずれた。おれは両手を下ろすとそのまま床に座り込んでしまった。目まいがする。全身に薬物によるけんたい感が残っていた。


「私のもついでにはずしてくれるかな」


 落ち着いた声におれは飛び上がりそうになった。

 きっ、と入り口を見るが、別に監視されていたわけではない。まさか! そんなことが。

「私はまだゲームを降りてないんでね」

 声の主は「霧」だった。

「そんな! さっきは確かにあんたは死んでいたのに」

 「霧」の体はぐったりとぶら下がっていたが、さっきと異なり目には知性の光が宿っていた。

「さほど驚くことはない。『ロミオとジュリエット』を使っただけだ」

『ロミオとジュリエット』

 名前は聞いたことがある。日本の公安組織が秘密裏に開発した仮死薬「K-150」。通称『ロミオとジュリエット』名前の由来は言うまでもない。

 これを服用すると心臓や呼吸が停止し、数時間の間、全く死人と同様に見える。しかし副作用などの問題で実用化はされなかったと聞いている。

「私はこいつを奥歯の中に仕込んでいた。拷問によって全てを話しそうになったとき、こいつを使った。本来なら七時間ほど仮死状態になるはずだが、別の麻薬を注射されていたため、効果が変わったようだ」

 「霧」の額から汗が流れ出た。

「精神と首から上は回復してきたが、手足が全く自由にならない。すまんが手錠をはずして床に下ろしてもらえないか」

 おれは「霧」に飛びつくようにして手錠をはずし、そっと床に寝かせた。「霧」の身体は死体のように重く、ゴム人形のように力がない。

「駄目だな。やはり『ロミオとジュリエット』には不確定要素が多すぎる」

 「霧」は淡々と言った。

 おれは言った。

「そんな臨床試験も完全でない薬をよく使ったな、あんた」

「任務を果たすために役立つものならなんでも使うさ」

 「霧」は明日の天気を話題にしているような口調で言った。

「とりあえず、君に遭えたのでよしとしよう。やつらが戻って来る前に頼みがある」

「なんです」

「私のもう一方の奥歯をはずしてくれ。その中にウルトラ・マイクロSDカードが入っている。一年間のやつらの行動の動画、首領の発言の音声、機密書類の写真が収められている。やつらを壊滅させるには十分な資料だ。君はこれを持って脱出しろ」

「あんたは?」

「私はこのとおり動けん。足手まといになる。置いてゆけ」


 おれはしばらく声が出なかった。

 やっとのことでたずねた。

「あんた……死ぬつもりか?」

「任務を果たすと結果的にはそうなるかもしれん」

「分からんね」おれは首を振った。

「あんたもおれと同じでどうせ非正規職員だろう。任務を達成したらまあまあ。失敗しても調査庁は無関係を貫く。名誉も出世もない。なんでそこまでするんだ」

 「霧」は小さな目をぐるりと回した。

「強いて言うのならプロフェッショナリズムかな」

「プロフェッショナリズム」

「私はこの仕事を選んだ。そこで、そこに名誉や出世があろうとなかろうと任務を達成すること、それができるということが私の誇りだ」


 おれは黙って自分のズボンをはくと、ベルトで「霧」の両手首を縛った。

 彼の腕を自分の首にかけて立ち上がろうとしたところ、おれが何をしようとしているのか察した「霧」がちょっと焦ったような声で言った。

「聞こえただろう。私を置いてゆけ。君一人なら確実に脱出できる。私を連れてゆくことで脱出そのものが失敗に終わる可能性が高くなる」

 おれはいったん彼の腕を下におろして言った。

「悪いが、あんたはおれの上司じゃないぜ。あんたの任務はここの機密情報を持ち出すこと。おれの任務は外に出るまであんたをサポートすることだ。オーケー?」

 おれはもう一度輪にした腕を自分の首にかけた。

 おれの断固とした動作に「霧」の息遣いだけが荒くなった。

「待ってくれ」「霧」が言った。「どうしても私を連れて行くつもりか」

「そのつもりさ」

「なぜだ」

「その前に質問に答えてくれ」

「なにか」

「あんた家族はいるか?」

 「霧」はしばらく黙っていた。

「いる」

「当然、あんたの任務のことは知らないが、帰りを待ってるよな」

「おい、私の家族のために自分を危険にさらそうと言うのなら……」

「いや、むしろこれはおれの自己満足かもしれない。でも、あんたを無事に連れて脱出する。これがおれの存在意義であり誇りなんだろう」

 おれは「霧」の足を自分の腰に回し、もう一本のベルトで縛ろうとした。

「待ってくれ」「霧」が言った。「強行突破するのなら、私にも手伝わせてくれ」

「あんたはおれの耳の後ろで指示を出してくれればいい。右、左、真っ直ぐ、ってな」

「いや、それよりましなことができるよ。私も工作員のはしくれだからな」

 おれは「霧」の頼みに応じて一旦彼を下に下ろし、彼が要求するとおりのものを用意した。


 出発だ。

 おれは「霧」を背負って彼が落ちないように手足をベルトで縛りつけた。両手は自由だ。

 ホースを三メートルくらいの長さに二本切り、それを両手に持った。

 身体は薬の効果でけだるいが、奥のほうはじんじん燃えている。

 さあ、いくぜ!


 地下室のドアを破って階段を駆け上ると、道場着を着た信者たちがうようよといる廊下に出た。ほとんどの信者は薬か栄養失調のせいでのろのろと跳びかかってくる。

 パシッ!

 おれは両手に持ったゴムホースを鞭のように振り回した。

 パシッ!

 鋭く繰り出されるゴムホースが顔に当たり、一番前に出てきた男がわっと顔を覆って下がる。

 病人のような動きで後から後からやってくる信者たち。

 おれは拳とゴムホースの鞭を使って血路を切り開いた。

「脱走者を逃がすな! かかれ!」

 遠くで信者たちを叱咤する怒鳴り声が聞こえる。

 一階の廊下まで来た。出口まであと五十メートル。

 突然、信者たちの人垣が割れ、銀縁眼鏡が現れた。チェーンソーを手にしている。

 グオン!

 チェーンソーのエンジンを入れた。クラッチがカタカタと鳴る。

 銀縁眼鏡はチェーンソーを斜に構え前へ進み出る。

 おれがゴムホースの鞭をふるうと、やつはチェーンソーをちょっと傾けてタイミングを合わせた。回転する鋸にふれた瞬間、ゴムホースは切れる。

 それを数度くり返すとあっという間にゴムホースは短くなった。

 「霧」を背負っているおれは素早く動けない。

 たちまち壁際に追いつめられた。両側から信者が腕を捕まえる。

「離せ!」

 身動きが取れない。

 銀縁眼鏡はにやり、と笑った。

「実験用モルモットが二匹、逃げ出した」

「……が、これで終わりだ」

 銀縁眼鏡がチェーンソーを振りかぶったとき、何かが飛んで銀縁眼鏡の口の中に突き刺さった。

 あ……ぐ、ごあっ……

 銀縁眼鏡はそのまま息を詰まらせる。

 飛んで行ったのは、「霧」の放った吹き矢だった。

 首から上だけが動かせる「霧」に頼まれておれがあり合わせの道具で作ったものだが、矢として麻薬をたっぷりと吸わせた注射針を使っている。

 口の中と中枢神経の集まっている延髄は近い。麻薬は即座に効いてきたようだった。

 あぐっ……あごっ……く

 銀縁眼鏡は出し抜けに振りかぶったチェーンソーを振り回した。

 ぎゃっ

 左右にいた信者二人の身体から血が吹き出た。

 ぐああー

 銀縁眼鏡の異様な興奮状態に新型麻薬がどのような影響をおよぼしたか、想像するしかできない。

 バッドトリップ。

 銀縁眼鏡はチェーンソーを振りかぶるとふらふらと身体を揺らし、突然天井近くに配管している鉄のダクトにチェーンソーの回転すのこ歯を当てた。

 ガシュッ

 キックバックによってチェーンソーは勢いよくもどり、銀縁眼鏡の首筋にのこが触れた。

 血が噴水のように吹き出す。

 そのまま銀縁眼鏡の身体は麻痺したようにがくがくと揺れた。

 そして荷物のように倒れた。


 おれはそのまま廊下を走った。殴り、目を突き、迫りくる信者たちを突破して中央玄関まで走った。

 おれたちの全身は返り血で真っ赤に染まっていた。

 赤い鬼のようになっておれたち二人は外に走り出た。

 玄関の外には三郎たちのチームが待機していた。

 すぐにおれたちを囲んで保護する。

「任務完了」

 そう言って三郎の腕に倒れこむとおれは意識を失った。


     *


 目が覚めたら病院だった。

 天井の模様を信じられないような思いでしばらく眺めた後、室内を見回そうとした。首が痛んだので、目だけぎょろぎょろと回した。

 めまいがしたが、見ることを抑えられなかった。今、どこにいるのだろう。

「気がついたか」

 浅見課長が隅に置いてある椅子から立ち上がり、おれの顔を覗き込んだ。

「任務ご苦労様。大変だったな。致命的な傷はない。一ヶ月もすれば復帰できるだろう。家族には連絡済みだ。勤務中、交通事故に遭ったということにしてある」

「ありがとうございます」

「すまなかった」

「「霧」は?」

「無事だ。意識ははっきりしているが、身体はまだ動かない。薬の副作用らしい」

「そう……ですか」

 今気がついたら浅見課長の横には太郎と三郎がいた。無表情な太郎。三郎のいたずらそうな目は変わらないのは、安堵によるものなのか。助かった。おれはため息をついた。


 病室の扉が開いた。髪の毛を振り乱した薫が駆け込んできた。公安の三人を見るとはっと息を呑み、一瞬棒立ちになったが、ベッドに近づくと包帯でぐるぐると巻かれたおれの頭を抱きかかえ、おれの顔色を調べるように見た。

 おれは微笑もうとしたが、笑顔がひきつった。

 薫は突然無言で大粒の涙をぼろぼろと流した。

「じゃあ私たちはこれで」

 気を利かせた浅見課長が二人をうながして出てゆく。扉がばたんと閉まると薫は嗚咽を漏らした。

「あなた。あなたぁ。心配したのよ」

「いててて。そんなに強く抱きしめないでくれ」

「ごめんなさい」薫は手をゆるめるとおれの頭を優しくまくらに置いた。

「でも良かった。無事みたいで。本当に……死んじゃうかと思った」

 右手のひとさし指で涙をぬぐう。

「ああ。死ぬかと思った。でももう一度会えて本当によかった」

「健二!」薫は優しく掛け布団を直してからもう一度抱きついてきた。

 ああ、このままずっとこうしていられたら。

 身体は痛かったが幸せな気分だった。


 とんとん。

 扉がノックされ、作り声で看護婦が入ってきた。

「検温でーす。お具合はいかがですか」

 ピンクの看護服の襟ぐりに巨大な胸の谷間が見えた。頬にピンクのファウンデーションをつけ髪の毛は茶色。こってりとマスカラを盛っている。薫とは違う意味の美人だ。

 看護婦はさも当然のように掛け布団をはがし、おれの浴衣の胸をはだけると長い指で胸に触れ体温計をわきの下に差し込んだ。指に触れられたおれの身体は痛さだけではなく、おれの意思を無視してびくっと震えた。

 看護婦はそのままベッドの下をチェックしていたが、掛け布団をすべて引っぺがした。

「ちょっとお小水がうまく出ていませんねー」

 そう言うと看護婦はおれの浴衣の前を全部めくった。

 おれは何も着ていなかった。

 おれの下腹部の……その……小便をする器官の先端からゴムのパイプが伸びており、ベッド下のしびんへつながっていた。

「差し込み過ぎたのかしら」

 そう言いながら看護婦はパイプをきゅっきゅっと引っ張った。それにつれておれの器官もぴんぴんと伸びた。

 うわ! 頼むからやめてくれー!

 そんなおれの心の声にまるで気がつかないように、その看護婦は丁寧にパイプを「直す」と浴衣と掛け布団をもとに戻し、ウインクして病室を出て行った。

 沈黙が支配した。

 おれは部屋のすみへ目を向けるのが怖かった。

「そーう。そういうことをやっていたの」

「い、いや、ぼくは何にも知らない。気を失っていた間にやられたらしいんだ」

 おれはしどろもどろになった。薫には論理や弁解は通用しない。

「へえ、ずいぶんうれしそうだったじゃない」

「いや、そんなことはな……」

 目の前を星が飛んだ。薫のこぶしがおれの目にめりこんだ。

「痛ええええー!」

「このエロ男ー!」

 おれは両手を前に掲げて攻撃を防ごうとしたが、薫のこぶしはおれの防御を軽くかわし、胸の傷にめり込んだ。

「ぐああああー!」

「この浮気者ー!」

 点滴の針が引き抜かれ、見舞いのメロンがおれの頭の上で破裂した。オレンジ色の果肉が飛び散った。

 そのままフルーツバスケットでおれの頭を連打しながら、薫は涙をぼろぼろこぼしていた。おれは痛みで気が遠くなりそうになりながら、別の冷めた意識の中でこれがおれたちの愛情表現なのだと考えていた。


     了


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