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ミッション4 泣かない女

 ミッション4 泣かない女


 わたしはそのとき五つだった。

 普段から広い家が、その日はとても広く感じた。

 お手伝いの三田さんは何度も鼻をかんでいた。わたしは風邪なの、と聞いたけど三田さんは答えてくれなかった。ただ赤い目でわたしをじっと見た。

 庭に遊びに出てもいい? と聞いても許してくれなかった。わたしの手をぎゅっと握って、何かを待っているように黙っていた。

 その「何か」は白い服を着て現れた。白って怖い色だわ。その白い服のおじさんが近づくとソファーに座っていたお父さんが立ち上がった。

「先生。どうですか」

 白い服のおじさんは黙って頭を振った。お父さんはため息をもらしてわたしをちら、と見た。

 お父さんはわたしに近づくと、三田さんの手からわたしの手をもぎとって次の部屋へ引いていった。

 外では庭のウグイスが鳴いてわたしは思わず振り返って窓の方を見たけれども、お父さんはそのままどんどんわたしを引っ張って行った。

 隣の部屋にはベッドがあり、白い布が盛り上がっていた。いやだ。その白は嫌い。でも白い服を着た女の人が盛り上がった布をめくるとわたしはちょっと安心した。そこにはお母さんが眠っていたから。

 お母さんはよほど疲れているのか、天井からの強い明かりに照らされても全然目を覚まさなかった。

 お母さん。

 わたしはお父さんの手を振りほどき、お母さんに駆け寄ってその胸に抱きついたけれど、お母さんは返事をしなかった。いつもするようにわたしの頬をきれいな手で抱きかかえることもなかった。

「かおる。お母さんはね。もう起きないんだよ」

 お父さんが言った。

「いつまで眠ってるの」

「眠っているんじゃない。死んでしまったんだ。だからもうこれでお別れだ。最後のあいさつをしなさい」

「はい」

 わたしはよく分からず、お母さんにあいさつした。

「お母さん。お母さん。わたしこれからお庭に行くから。起きたら一緒にご飯を食べようね」

 お母さんは白い顔のまま黙っていた。まわりの大人たちも黙っていた。誰も笑わなかった。

 お父さんは再びわたしの手を引くと元の部屋へ戻り、わたしを三田さんに渡した。

 次の日、静かな家はとても忙しくなり、お祭りみたいになった。白や黒の旗で家をかざった。煙をたいて、ごちそうを作った。たくさんの訪問客が来た。

 三田さんたちもお父さんも忙しくて相手をしてくれず、わたしはつまらないので、一人抜け出して庭へ行った。大きな庭にはお池があって、そこには赤や黄色の大きな魚がたくさん泳いでいた。

 わたしが池のかたわらにある石の上に腰かけていると、ときどきやってくるしんちゃんが来た。

 しんちゃんのお父さんは休みの日によくわたしのお父さんの所へ来ていて、そのときにいつもしんちゃんを連れてきた。わたしたちは大人同士で長い話をしているのを待ちながらよく一緒に遊んだ。

 あるときわたしは退屈でなにか新しい遊びをしたいと、しんちゃんにねだった。その日、外は雨で庭では遊べなかった。家の中はどこもきちんと片づいていて、何かを動かすと怒られた。わたしはいつもの人形やお絵かきは飽きてしまった。

 わたしがたいくつよたいくつよ、と何度も文句を言うと突然、しんちゃんはブレザーの上下を着たまま縁側の長い廊下にねころんで背中をつけてすべる遊びをした。白い靴下がつるつるの床を蹴ると、しんちゃんの身体は前に進んだ。わたしも面白がって一緒に滑った。

 そうしているうちに突然ふすまが開き、わたしのお父さんと一緒にしんちゃんのお父さんが出てきた。

 しんちゃんのお父さんはわたしたちの姿を見るととても困った顔でわたしのお父さんに何度も頭を下げていた。わたしのお父さんは「子供のやることだから」と言っていたが、後でしんちゃんに聞くと家へ帰ってからたいそうお父さんに怒られたそうだ。

 わたしがごめんね、わたしがたいくつと言ったからしんちゃんが怒られた、と言うと、しんちゃんは大丈夫ぼくは男だから、と言った。男だから女の子を守るのは責任なんだ、と言った。大きくなったらぼくがかおるちゃんを守ってあげる。

 わたしはしんちゃんのお嫁さんになると約束した。庭の池の前でゆびきりげんまんした。

 丁度その夜は近所で花火大会があり、わたしの家の庭からも打ち上げられる花火がよく見えた。しんちゃんはわたしの手を握って、わたしたちは並んで花火を見上げた。


 母が死んでからしばらくして、父は再婚した。母よりずっと若い、きれいな人だった。わたしの母のほうが美しかったが、父の新しい妻は華のある人だった。いつも派手な服を着てお化粧し、素敵なアクセサリをいくつもつけていた。名前をよしえさん、といった。

 よしえさんは最初にわたしと会ったとき言った。

「よろしく。私はまだ若いからあなたのお母さんの役目はできないわ。でもこれからあなたと一緒に住むのだから仲良くしましょうね」

 そういって手を差し出した。わたしは別に嫌な気もせず、その手を握った。

 よしえさんが来てから父はしょっちゅうよしえさんと一緒に遊びに出かけ、夜遅く帰るようになった。ときには旅行に出かけ何日も帰宅しないときもあった。

 わたしはお手伝いと一緒に父なしに夕食をとることが多くなった。それでもたまに帰ってくるとお土産を忘れない父に会うのがうれしかった。


 ある晩、わたしが飲んでいた紅茶を入れたコップがなんの前触れもなしにぱきっと音を立てて割れた。湯気をたてた紅茶がブラウスにこぼれ、瀬戸物の破片が床に飛び散った。

 三田さんはあわててわたしのブラウスを拭くと床を掃除するまで食堂に入ってはいけないと言った。そこでわたしはブラウスを着替えるために自分の部屋へ戻った。

 二階の自分の部屋へ戻る途中、父の部屋の前を通ると中から声が聞こえた。いつの間にか父とよしえさんが帰っていたのだ。

 父とよしえさんが話す声はぼそぼそと聞こえた。いつものようによしえさんが父におねだりしているような声だった。

 わたしは急ぎ足に通り過ぎようとしたが、突然自分の名前が呼ばれた気がして立ち止まった。耳を澄ませると部屋の中でよしえさんが話をしている。かおるちゃん、という言葉が聞こえたので、わたしは彼らが自分のことについて話をしているのだと分かった。

 わたしは盗み聞きが悪いとは知りつつドアに耳をつけた。木のドアは分厚く耳が冷たかった。よしえさんの声が聞こえてきた。

「……でね、私やっぱりかおるちゃんは全寮制の学校へ入れた方がいいと思うの。だってこの広い家に一人でしょ。友達もいないし、かわいそうよ」

「そうかな」

「ええ。ほら、学校なら友達もたくさんできるし、きっともっと明るくなるわ」

 わたしは心の中で叫んだ。だめお父さん! うんと言わないで。わたしはお父さんと一緒の家がいい。このお母さんの思い出があるここがいい。学校には家から通うわ。

 でも、そうだな、そうするか、という父の声が聞こえた。

 わたしには大人の決めたことを覆す勇気はなかった。わたしは足早に廊下を進み、自分の部屋へ戻った。そのままブラウスも着替えずに三田さんが呼びに来るまでベッドで突っ伏していた。

 外で強い風の音が聞こえた。


 わたしは七歳の春、清慎女学院へ入学した。

 清慎女学院は、お金持ちや旧家のお嬢様たちばかりが集まる学校で、楽しい場所だった。けんかは全くなく、生徒はみなお上品で優しかった。

 わたしはそこで小学部、中学部と過ごした。幾たびも冬が過ぎ春が繰り返された。わたしが家へ帰るのは長期休暇のときだけになった。


 高等部に入ると、ときどき長期休みでもないのに学校から出てどこかへ行く生徒がちらほら見かけられた。黒塗りの大きな車が迎えにきて、数日いなくなり、再び黒塗りの車で送り届けられるのだ。

 わたしは仲良しの沙織さんに尋ねてみた。

「さおりさん。あの人たちはどこへ行かれるのかしら」

「あら、かおるさん。ご存じありませんの。彼女たちはお見合いですわ」

「え? もうお見合い?」

「珍しいことではなくてよ。財閥や政治家の御曹司とお見合いされて、高等部卒業と同時に結婚されるのですわ」

「そう」

「かおるさんにはそういうお話はないのかしら」

「ないですわねえ」わたしは首をかしげた。「父はたまにしか手紙をよこさないし」

「私も来週行かなくては」

「本当ですの?」

「本当ですわ。でも、気が進まないのですわ」沙織さんはため息をついた。

「なぜですの?」

「一度も会ったことのない人ですし、写真で見るとなんだか地味ですわ」

「いやですわ」わたしは手でお上品に口を覆った。

「かおるさんはどういう方と結婚されたいんですの」

「ええわたし?」わたしは思わず口ごもった。顔が熱くなる。

「ははーん」沙織さんは意地悪な笑顔になった。「やっぱり島田先生一筋なのかしら」

「やめてくださいな。お願い」

 島田先生は高等部の英語を担当している先生で、若くハンサムで背が高かった。きびきびとしたしゃべり方で、生徒たちのあこがれだった。

 全寮制の女学校である清慎女学院では男性教師が目にする唯一の男性なので、ハンサムで若い男性教師はみなの人気者で、高等部を卒業した女学生の一人と結婚するのが普通だった。

 わたしもなんとなくそんなことを夢見ていた。試験の最中、ふと目を上げると自分の方をじっと見つめていた島田先生と目が合ったりすると、その期待はますますふくらむのだった。

 少女たちはそういったことには目ざとく、たちまち「島田大輔・猪之垣薫」の関係が噂となった。かといって実際には何もなく、友達と一緒に職員室へ行き、島田先生を囲んでお茶を飲むくらいだった。

 ある放課後、わたしは会計の仕事で生徒会室に残っていた。生徒会費の決算がどうしても合わなくて、何度も計算をやり直していた。

 突然、がらりと扉が開いた。振り向くとびっくりしたような顔をした島田先生が立っていた。

「猪之垣さん。こんなに遅くまで残っていたのかい」

「島田先生」わたしは初めて部屋が薄暗くなっていたのに気づいた。

「す、すみません」そんなつもりはなかったが、言葉がつかえた。

 わたしは手早く帳簿を片付けるとかばんを取り上げた。初夏のことで日が長く、すでに七時を回っていた。早く寮に戻らなければ。

 あわてて書類ばさみを持ち上げると、留め金をかけ忘れた書類ばさみが開いて書類が床に散らばった。急いで床にかがんだわたしを手伝おうと、島田先生も一緒に書類を拾ってくれ……

 書類をつかんだわたしの手の上を島田先生の手が優しく押さえた。

 一瞬わたしの身体が硬直する。

 島田先生の吐息がわたしの髪にかかった。

 おそるおそる目を上げると、島田先生はにっこりと笑った。

「手伝おう」

 なにか期待したわたしが間違っていたのか。それにしてはわたしの手の上に手が重なった時間が長いような気がした。

 書類を片付けると、島田先生はわたしのかばんを手にして待っていた。

「猪之垣さん。遅くまでご苦労さん。学生食堂は込んでいるだろうから、今晩はお礼を兼ねてぼくがおごるよ」

 おごられるような理由ではなかったが、そのままわたしはついていった。

 職員専用食堂で何でも好きなものを頼んでいいと言われたが、わたしはなるべく控えめなものを注文した。職員食堂は学生食堂と異なり有料だから遠慮したのではなく、島田先生に食いしん坊だと思われたくなかったからだ。

 食事中も島田先生は笑ったり、勉強のことクラブ活動のことなどを聞いてきた。わたしは上の空で自分が何を言ったか覚えていなかったが、島田先生との時間をできるだけ長く持ちたくてとりとめもなく話し続けた。

 それからわたしは週に一度はわざと明かりをともした生徒会室に居残って島田先生を待った。そうして島田先生もわたしの期待を知っているかのように必ず迎えに来てくれた。

 そうして半年が過ぎた。少女たちの噂から始まった「島田大輔・猪之垣薫」の関係は本当になった。


 その日、島田先生は普段のカジュアルなスーツでなく、きちんと背広を着てネクタイをしめていた。冬休みで帰省していたわたしは先生を玄関先で迎えた。

 わたしもフリルのついた白いブラウスに紺のスカートを着ていた。

 島田先生は緊張した面持ちだったが、わたしの顔をみるとぱっと顔を輝かせた。わたしもぎこちない笑みを浮べた。

 今日何のために島田先生が父に会いに来たか知っていたから。

 わたしは先生を和室へ案内すると、お茶を用意するために台所へ行った。

 三田さんは意味深な視線を私に送った。わたしはうつむいた。お湯の沸く時間が長く感じられた。

 三田さんがお菓子とお茶を用意してくれたのでわたしはお盆を持っていった。

 廊下を歩いていると緊張した声が聞こえた。普段とは異なる父の声だった。

 突然わたしの持ったお盆の前で障子がからりと開き、真っ青な顔の島田先生がよろめいて出てきた。島田先生はわたしの方をちらりと見たがそのまま目を合わせないようにしてわたしの横を通り過ぎた。

「せっ!……」

 わたしは声をかけようとしたが、背中に拒絶された。島田先生はそのまま早足で玄関へ去った。

 振り返ると気むずかしい顔で正座している父がいた。紺の着物の上に乗った赤ら顔が普段よりもっと赤かった。

「お父様」

 わたしが尋ねる前に父は答えた。

「わしが何者か教えてやっただけだ。そうしたら恐れをなして逃げて行きおった」

 父はふん、と鼻を鳴らした。

「薫。お前にはもっとふさわしい男を見つけてやろう。あんな貧乏教師ではなく」

 わたしはそんなはずはないと思って島田先生に何度も電話をかけたが、先生はとらなかった。

 休みが終わり、学校に行くと先生はいたが、二度とわたしに特別の視線を送ることはなかった。そうしてわたしたちが卒業する前に島田先生は別のお嬢様と結婚してしまった。


 わたしは卒業するとしばらく家でぶらぶらしていた。学問にはあまり興味がなかったので、大学へは行かないつもりでいた。三田さんに料理を習ったり、広い家を掃除したりしていた。

 あるときいつものように庭の池で鯉にえさをやっていると、後ろから声をかけられた。

「かおるちゃん」

 わたしをかおるちゃんと呼ぶ人はそういない。わたしは後ろを振り向いた。目の細い、色白の青年が笑っていた。

「かおるちゃん。ぼくを覚えているかい」

 わたしはしばらく彼の笑顔を注視したが、どうしても思い出せなかった。

「久しぶりだね。東堂新之介だよ」

「しんちゃん!?」

 しんちゃんはすっかりと変わっていた。背がぐんとのび、肩幅も大きく、たくましくなっていた。

 思わずわたしは昔のようにしんちゃんの胸に飛び込んだ。汗のにおいがした。

 しんちゃんは私の肩を両手でつかむとゆっくりと押し返した。それからもじもじとスーツの中の大きな体を小さくした。

「かおるちゃん。君は変わっていないねえ。まるで子供の時みたいだ」

 そんな風に大人くさく言われて今度はわたしのほおが熱くなった。

「こんなことするの、良くないかしら」

「うれしかったよ。でもまずいね」

「今どうしているの」

「大学に通いながら、親父の仕事を手伝っている。今日も……」家の方を振り返った。「親父の用事で君のお父さんに会いにきたんだ」

「そう。用事が終わったらゆっくりできる?」

「努力するよ」

 その晩、しんちゃんはわたしの家で夕食をとった。

 父は珍しく笑顔を見せた。夕食中、わたしはしんちゃんの方をちらちらと見たが、しんちゃんはにこやかに距離を置いた態度を崩さなかった。

 夕食後、父は自室に引き取った。

 わたしはしんちゃんと庭に出た。空はよく晴れており、月はなかったが、星空がほのかに庭を照らしていた。

「本当に久しぶりね」

「ああ」

「ここに来ると色々と思い出すわ」

「ぼくもだ」

「あっ」偶然、近所の子供が打ち上げたロケット花火が目の前を飛翔し、気の抜けた音で炸裂した。わたしはそれを見て沈黙した。お互いに何を考えているか分かるようだった。

 わたしは池の水面を見たままつぶやいた。

「覚えてる? この池の前で約束したこと」

「ああ、覚えているよ」

 しんちゃんは口ごもった。

「それだけ? その続きはないの?」

 しんちゃんはまゆをしかめ首を傾げた。

「かおるちゃん、おれ。来月アメリカに行くんだ」

「そうなの」

「おれたちは子供だった。そうだよな」

「ええ」

「おれも大人になったんだ」

「どういう意味かしら」

 しんちゃんはむしろびっくりしたような顔をした」

「ごめん。遠回しすぎたかもしれないけれど、おれは自分と君の立場、いやおれの親父と君のお父さんの立場が分かる年齢になったのさ」

 わたしはしんちゃんが何を言っているかわからなかった。首を大きく振った。

「分からないわ。あなたがなにを言っているのか分からない」

 しんちゃんは本当に不思議そうな顔をした。

「君は本当に自分のお父さんが何者か知らないのかい」

「父は高級官僚でしょう。知っているわ」

「いや、それだけじゃない。猪之垣大三郎と言えば、政界・財界に影の影響力を及ぼす大物フィクサーとして知られている。おれたちの業界では常識だ。猪之垣に逆らったら政界では生きてはいけない」

「それで?」

「おれの親父は昔から猪之垣チルドレンとして猪之垣家に取り入ろうとしていたが、いくつか大きな失敗をして、今では猪之垣派の中での影響力は小さい」

「だから?」

「昔は親父はおれのことを猪之垣家の婿にするつもりだったらしいが、今の状況ではそんなことはあり得ない。かおるちゃん。ぼくたちが結婚する計画は流れたんだよ」

 しんちゃんの言葉が遠くに聞こえた。話している言葉は日本語のはずだったが、外国語、いや異星人の言葉を聞いているように思えた。言葉の意味は分かったが、何を言っているのか、どうしてそんなものの見方ができるのか理解できなかった。

「しんちゃん。あなたわたしをずっと守ってくれるって言ったじゃない」

「そりゃま、そうだけど。子供のときの約束なんて」

「分かるわよ。わたしにだって子供のときの約束を今まで信じ続けているほど無邪気じゃない。でもわたしたち幼なじみで、仲良しで……

……あなたと会ったら昔の思い出が次々に浮かんできて、そのことをおしゃべりしたいと思ったの。あのときからそれぞれどんな生活をしてきたのか話したっていいじゃない。今どんなことを考えているのか、どんな夢があるのか……

……なぜそんなわけの分からない話をするの? しんちゃんどうしちゃったの」

 しんちゃんは、ばつが悪そうにうつむいた。

「本当はおれ……君のお父さんが怖いんだ。ここでこう君と二人で話をしていることだって、後でとがめられて親父に累が及ぶかもしれないと思うと」

「ばかっ」

 思わず手が出た。わたしの手のひらはしんちゃんの頬に当たってぱちんと音を立てた。

 しんちゃんはその痛さにはお構いなく、このいさかいが母屋の方に聞こえていないかを恐れるように後ろを見た。そんな態度にわたしは我慢できず叫んだ。

「あなた、それでも男なの。政界が、影響力がなによ! 自分の気持ちはどうなのよ。自分はなにが欲しいの。なにがしたいのよ。はっきりしなさい!」

「ごめんよ」

 しんちゃんは負け犬のような目をした。それを見て、わたしの力が抜けた。こんなやつ、やっつけたってちっとも面白くない。わたしは彼をおいて歩き去った。


     *


 じきに私のお見合いが始まった。

 わたしの父に命じられて息子を連れてくる政界や財界の関係者ばかりだった。

 わたしは来る者来る者に難題を吹っかけて追い払った。そのうち、わたしのことは”かぐや姫”というあだ名になり、求婚者はめっきり少なくなった。


 ある日、いつものようにお見合いがあった。相手はよくプレスのきいた染み一つないワイシャツを着、苦しくはないのかと思うほどきっちりとネクタイをしめていた。

 スーツの上に卵のようにのっぺりとした顔が乗っていた。顔はハンサムでも不細工でもない。ただすました顔にわけもなくわたしはいらついた。

 でも自分の内心をそのまま顔に表すほど子供じゃない。わたしは優雅に笑みを浮かべておじぎした。

 着慣れない着物の帯がこの部屋の雰囲気に増して窮屈だった。

 長引かなければいいのに。

 正座は苦手だったので、なるべく手早く済ませたかった。どうせ断るつもりだったので、相手の履歴も読んでいない。

 相手の両親は父に挨拶すると少し後ろに下がり、ほとんど口を利かなかった。一緒に来た仲人だという中年女が一人でべらべらとしゃべっていた。東大卒で、物理学を専攻し、優秀で、将来を嘱望され、うんぬん。

 仲人の声をバックグラウンドに聞きながら、わたしはこれが終わったら買い物に行こう、と考えていた。わたしの空想を女の声がさえぎった。

「かおるさんは、ご趣味は何でございますの」

「はい、乗馬を」

「ほほう、これはこれは」

「乗馬は貴族のたしなみですね」だからなに。わたしは馬という動物と、風を切って走ることが好きなの。

 わたしがあんまり無口なので、彼らは勝手にわたしがシャイだと勘違いした。

「それでは、そろそろ私たちはおいとまして」

「そうそう、若い人たちの邪魔になってはいけませんから。ホホホホホ」

 彼らはわたしと卵顔を残して去った。

 急に静寂の訪れた和室に重苦しい沈黙がただよった。ことわるにしても何か言わなくちゃまずいかしら。

「あの」

「なんでしょう」卵顔はくそ真面目な顔つきで答える。

 わたしは尋ねた。「あなたは結婚というものをどうお考えですか。例えばこのお見合いを」

「そうですねえ。私の両親ももう歳ですし」卵顔は会計報告をするような調子で言った。

「特に私の母が亡くなると、私も女手がなくなって大変困ります」

「はあ」どう困るんだ。

「現在、私の身の回りの世話は全て母がやってくれています。朝起きる前には私のその日着る服を準備し、きちんと枕元に畳んでおいてくれます。あなたもそれと同じことをやってくれますか」

 こりゃ、マザコンだ。

 わたしは思わず額を押さえて言ってしまった。

「家政婦でも雇えばいかがでしょう」

「は、それは考えませんでした。しかしですね。妻がそういうことをやってこそ、お互いの愛情も深まると思うのですが」

「残念ながら、わたしの意見は違います。むろん、愛情があれば自発的にやるでしょうけれど」

「そうですね」卵顔は大きく頷いた。「やはり私たちは相性がいいみたいですね」

 なにを聞いているんだろう、こいつ。

「で、あなたは家庭を大事にしますか、それとも仕事」わたしったら、なんでこんなやつにこんなことを聞いているんだろう。

「オンラインゲームです」

「はあ?」

「会社の仕事などというものは、座っていれば片が付きます。私はもはや名誉職ですから、出世も決まっているし、冒険は何もありません。仮想世界の探求こそ、現代の男のロマンです。限りない世界で命を賭けて戦うのです。私が今はまっているのは第二次世界大戦のヨーロッパを舞台にした『スコード・リーダー』というやつでですね、良かったら今度一緒にやりませんか」

「いえ、遠慮させていただきます」わたしは努めて平静に答えた。

 すると卵顔は調子に乗って話を続けた。

「私は旧独軍が好きで、何というかあのストイックな軍服がいいですね。特にあの長いブーツが。私の部屋にはコレクションがあります。本物の親衛隊のブーツですよ、本物。さらに……」卵顔は声をひそめた。

「私は本物の鉄十字勲章も持っています。しかも、裏にヒットラーのサイン入りです。ヒットラーのサインですよ。今度見せてあげましょう。見たいでしょう、ね」

「い、いいえ。結構ですわ」おたくの毒気に当てられて、なんと言うべきかわたしの頭は混乱した。「でも、たまには外の空気を吸わなければ毒ではありませんこと」

「外は嫌いです。寒いし、暑いし、トイレに入るのも面倒くさいし。人間の優れている所は動物や野蛮人と異なり、環境を制御するところです。エアコンが良く効いていつも快適で、すぐ手の届く場所に飲み物やおやつがあり、コントローラがソファーの上に置いてある。これ以上の幸せがあるでしょうか。そう思いませんか」

 卵顔はぐい、と顔を近づけた。わたしは思わず後ずさった。ちょっと臭った。数週間も風呂に入らず、今日のために慌てて身体を洗ったが染みついた臭いが取れないような。

「かおるさん。あなたは美しい。あなたのような方を横にはべらせてゲームをするというのは、私にとって至上の喜びです。結婚したら素敵な服やアクセサリーをたくさん買ってあげます。私の趣味はですね。そう、黒いフリルも鮮やかなですね、ちょっと、いやあくまでちょっと緊縛スタイルの服装で」

 変態かっ。

 わたしの身体が震えだした。止めようとしたが、止まらない。生理的な嫌悪感が限界まで来ていた。

 この男は伴侶のことを人格のある人間ではなく人形かなにかのように思っているのだ。これは塩をまいたくらいでは収まらない。わたしの表情はこわばっているはずだが、卵顔には何の効果もないらしい。

「いや、これはつい口が滑りました。あなたが余りに美しいので。これはあくまでも冗談です。いやあ、はっはっはっ」はっはっはっじゃないわよ!

 わたしはかなり皮肉を込めて言った。

「戦場ではたいそうご活躍なんでしょうね」

 卵顔には含みは全く通用しなかった。再び身を乗り出して来る。

「そうなんです、そうなんですよ。私のことはオンラインでは『東洋のランボー』なんて呼ばれています。私の最も得意なのは、単身落下傘で敵陣へ降下し、敵の武器弾薬を奪うと右へ左へ敵をなぎ払い、手榴弾を空高く投げて空中爆発させて惑乱し、そのすきに立ち上がってこう、ばばばばば、と突撃銃を撃ちまくり」

 卵顔はついに立ち上がって機関銃を撃ちまくるまねを始めた。わたしは正座してなるべく卵顔を見ないようにして耐えていたが、とうとうわたしの中で何かがぷちんと切れた。

 わたしは立ち上がった。

「ごめんあそばせ。しばらくお待ちくださいね」

 わたしはそう言ってその場に卵顔を待たせると奥の部屋へ入った。

 父の部屋の横にガンロッカーがある。鍵がかかっているが、鍵は床の間の袋棚にあることを知っていた。

 わたしは鍵を使ってガンロッカーを開けた。鈍く黒光りする散弾銃がかけてあった。銃身が左右に二本並んでおり、木製の銃床がついている。父がクレー射撃に使うものだ。

 わたしは銃に興味はないが、父の趣味につき合わされたことがあり、使い方くらいは知っていた。

 わたしは銃を二つ折りにして散弾を二発込めるとがちゃりと戻した。そのまますり足で見合いの部屋へ戻った。着物のすそが邪魔で歩きにくい。

 開け放しのふすまをくぐると卵顔はまだ立ちつくしたままどきゅーん、ばばば、とか言いながら模擬演習をやっていた。

 わたしが散弾銃を向けるとぽかん、とした顔でわたしを見た。

「わたしと結婚したければ、わたしと戦って勝ちなさい!」

 そう言いざま、わたしは天井へ向けて腰だめに構えた散弾銃を撃った。どかん、という銃声で耳が聞こえなくなった。

 卵顔の反応は早かった。靴下をはいているのに、畳の上を滑ってよろけながらものすごい速さで縁側の方へ逃げ出した。

 わたしは卵顔へ銃口を向けた。

 やつは一瞬わたしに顔を向けると、廊下を這ったまま、見つかったゴキブリのような速度で進んだ。

 どかん。

 縁側のサッシガラスが砕け散った。家人がいつの間にか集まってきた。銃声で耳鳴りがしてみなが何か怒鳴っていたが、なにも聞こえなかった。

 わたしはごろん、と散弾銃を畳の上に転がした。

 突然胸の奥から笑いがついて出て、止まらなくなった。わたしは天井を見上げながら笑い続けた。涙があふれてきた。痛快さとやるせなさが入り交じった気持ちで、わたしはヒステリックに笑い続けた。


     *


 その日、わたしは父に連れられてレストランへ来ていた。

 ホテルの最上階にある展望台のレストランで、最初はまたお見合いかと警戒していたが、夜景が素晴らしくてじきに気が晴れた。

 丁度わたしたちのテーブルのすぐ後ろに、やに下がった感じの若い男がいて、それがわたしにちらちらと色目をつかっていたので気にしていたが、その男は近づいてこなかった。

 そこでわたしも食事が進むにつれて気分がほぐれてきた。前菜が終わり、ワインを頼もうというときだった。

 突然入り口付近でもみ合う音が聞こえた。思わず振り返るとトレンチコートに濃いサングラスをかけた二人の男がわたしたちのテーブルに走ってくるところだった。

「猪之垣! てめえ」

 二人組みはわたしたちに近づくと二手に分かれ、一人が父に拳銃を向け、もう一人がわたしの腕をつかんで立たせ銃口をわたしののどに突きつけた。

「動くんじゃねえ! 猪之垣。おめえの娘は預かっていくぜ」

 わたしは男の手を振りほどこうとしたが、男の手は万力のようで、かなわなかった。わたしはおとなしくした。

 レストラン中が静まり返っていた。男はわたしを盾にしたまま少しずつ出口へ後ずさった。

 先ほどのにやけた男が真剣な顔で立ち上がり、なにか言おうとした。

「ま……て」

 ぱりんという音がして首筋に液体がかかった。同時にわたしの腕をつかむ手がゆるむ。

 後ろを向くと割れたワインボトルを手にしたボーイが倒れた男を見ている。日に焼けた顔が引き締まっている。

「や、野郎。撃つぞ」

 もう一人の暴漢が父に向けていた拳銃をこちらに向けようとしたとき、ボーイの身体が跳んだ。わたしの視界は天地がひっくり返った。

 ぱんっ、ぱんっ。

 銃声がし、客の悲鳴が聞こえた。

 ボーイの身体が倒れたわたしの上に乗り、銃声の方に背中を向けている。

 わたしをかばっている?

 誰かが警察だ! と叫んだ。男が畜生、お前ら動くなと言うのが聞こえた。

 その直後、あっ、という声がした。もみ合う音が聞こえる。

 しばらくして音はやんだ。

「薫。薫。大丈夫か」

 落ち着いた父の声が聞こえた。

 わたしはさすがに震えながら座りなおした。

 わたしをかばったボーイが立ち上がって手を差し伸べた。わたしはその手にすがり、立ち上がった。

 見ると先ほどのにやけ男が拳銃を持ち、下に向けている。父を脅していた男は床に倒れ、手を後ろに回されていた。ねじれた腕の下に、にやけ男の足が入り、男の背中を踏んで動きを封じているのが見えた。にやけ男はわたしを見るとウインクした。

「お嬢さん。もう大丈夫ですよ」

 わたしはそれに取り合わず、わたしの盾となってくれたボーイが無事か確かめた。

「だ、大丈夫ですか」

 そのボーイは世にも奇妙な表情をした。あきれた、という顔つきをして両手を左右に広げ、肩をすくめたのだ。

 それは日本人というよりはアメリカ黒人のような仕草だった。

 たった今生死の境を潜り抜けた人の表情とは思えなかった。わたしはそれにあっけにとられた。それでしばらくそのボーイの顔に見とれていた。

 じきに警察が来て、二人組みは連行されて行った。

 にやけ男はわたしに近づいて話しかけたが、わたしは上の空だった。わたしは簡単な礼を言い、ドレスが汚れているからと言い訳して帰宅のタクシーに乗った。


 次の日の夕方、わたしは一人であのレストランへ行った。あんな事件があった後だというのに、レストランは営業していた。

 支配人が出てきてしきりにお詫びを述べた。わたしがあのボーイのことを聞くと、さんざん口ごもってからクビにしましたと言った。

「はあ? なぜまた」

 以前から素行が悪かったと言ったが、なにか隠し事をしているような様子だった。わたしは渋る支配人を散々追及してあのボーイの住所を聞き出した。彼にお礼を言わなくちゃ。


 わたしはみやげ物の菓子折りを抱えて下町を歩いていた。街灯は暗く、住居表示はないところもたくさんあった。わたしは散々苦労して彼のすみかを見つけた。

 小さなアパートだった。プラスチックに手書きの表札がポストについているきりだった。給湯器の音が鳴り、ガスの燃えた後の臭いがした。部屋にいるようだ。

  『OSANAI』。「小山内」かしら。

 わたしがブザーを押すとしばらくたってからドアが開いた。彼はちょっと驚いた顔をした。

「なんだ。あんたか」

「夜分失礼します。猪之垣と申します。昨日は危ないところを助けていただき、ありがとうございました」

 彼の反応はまたまた変わっていた。一瞬あっけにとられたような顔をしてから、はははははと笑い出したのだ。わたしは混乱し、少しむっとしてたずねた。

「笑うようなことではないと思いますけど」

 彼は涙を手のひらでぬぐいながら笑い続けた。

「いや、すまない。じゃああんたは何にも知らないんだね」

「なんのことでしょう」わたしはいぶかしんだが、命の恩人に対する礼儀が先だと思い直した。

「これはつまらないものですが、お収めください。あのう、お怪我はありませんか」

 その言葉に彼は再び爆笑した。さすがにわたしはむっとした。なにこの男。

「怪我はないよ」

「そうですか。それは良かった。でももし病院へ行くことがあれば費用は持たせていただきます」

「行く必要はない」

「それでは」わたしはもじもじした。少しおせっかいすぎるかしら。

「なにかできることはありませんか。レストランをお辞めになられたとか」さすがに解雇されたのでしょうとは言いづらかった。

「う、うん」彼は別に気にしない風に言った。「クビになった。いやあのワインのせいだ」

「はあ」わたしは理解できないまま相槌をうった。

「あのサングラスを殴ったあれさ。あれが年代物で数百万円もするとは知らなかった」

「ええ?」

「あれを割ったからクビになったんだ」

「だって、そんな」わたしは信じられなかった。あんな大騒ぎがあったのに、ワインボトル一本を壊したからクビ?

「全て狂言さ」

「あの」

「あの二人組みの暴漢はただの役者だ。へたくそな。夜にサングラス。拳銃は空砲。だからあれだけ撃ってもレストランには穴一つ開いていない。全部仕組まれていたんだ」

「誰がそんな」

「それは……分からない」彼は宙を見上げた。「なぜそんなことをしたんだろうな。おれの見るところ、あの若い男も一枚噛んでいるぜ。でなきゃ、拳銃を持った相手を素手で取り押さえるなんて普通のやつにはできない」

 わたしは黙った。筋書きが見えてきた。わたしはお人よしのお嬢様だが馬鹿ではない。

「お父様だわ……わたしを騙して……窮地を白馬の王子様……いえ、あのにやけた男が救って……わたしが夢中になる……とんでもない話だわ。わたしの心をもてあそんで」

 わたしは自分の肩がわなわなと震えるのを止めることができなかった。はっと気がつくとみやげ物はわたしの手の中でひしゃげていた。

「父が仕組んだのです。わたしがいつまでも結婚しないものですから」

「け、けっこんのため?」彼が爆笑した。

 彼はしばらくの間、壁に手をついて自分の身体を支えるほど笑っていたが、わたしが涙をこらえて立っているのを見ると黙った。

「ふうん。あんたも大変だな」口では大変だなと言いつつ、彼の目は面白そうに輝いていた。

「まさか。あなたは最初から知っていらしたの」わたしは詰問口調になった。

「いや。最初は変だと思ったが本物だと信じていた。あんたをかばって床に伏せたときに芝居だと分かった」

 わたしの視線による問いに対し彼は答えた。

「実弾を撃てば火薬の爆発音と一緒に弾が空気を切り裂く音が聞こえるものさ。空砲にはそれがない。だから倒れてすぐに変だと気づいた」

「じゃあ、わたしをかばったのは本当だったのですね」

「ま、自分の弁護をさせてもらえればね」

「ありがとうございます」

 わたしはしばらく黙って考え事をしていた。ふと、目を上げると彼がわたしの顔をじっと見ていた。わたしはちょっとたじろぎ、自分の顔が熱くなるのを感じた。

「ねえ、ちょっとお願いがありますの」

「なんだい」

「わたしたち二人ともだまされて悔しいじゃないですか」

「おれは別に」

「しかもそのとばっちりであなたはクビになるし。仕返ししてやりませんこと」

「へえ」

「わたしが責任とりますわ。計画は……」


 翌日わたしは自分を救ってくれた「素敵な男性(にやけ男)」にぜひお会いしてお礼が言いたい、と父に言った。父は全く表情を変えなかったが、わたしは父が喜んでいるのを感じた。

 早速連絡を取り、夕食の日取りを決めた。あの事件が起きたのとは別のレストランだった。

 にやけ男がバラの巨大な花束を持って現れた。紹介を受けるとやはりどこそこの財閥の子息だった。

 にやけ男は盛んにわたしに対するお追従を言った。わたしはにこやかに相槌を打ち、彼に惹かれている演技をしていた。

 トイレに立ったとき、わたしはもらった名刺をボーイに渡し、あることを頼んだ。

 食事が進んで適当な頃、小山内が現れた。トレンチコートにサングラス。無言でわたしたちのテーブルに近づくとにやけ男のえりがみをつかみ、拳銃を抜いて突きつけた。

「住田財閥の住田翔すみだしょうだな」

 にやけ男は笑顔をまだ顔に張り付かせたままちらと父の顔を見た。思わぬ事態に驚く父の顔を見ると、これが誘拐狂言の続きでないことを悟ったようだ。

「だだ誰だ」

 にやけ男はシナリオにない事態に震えた。先日のヒーロー振りとはうって変わっていた。構わず小山内は銃口をこじる。

「恨みのあるモンだ。覚悟しな」

「たたた唯では済まないぞ。ボクのパパは」パパと来たか。

「その親父を殺してやりたいんだよ! 親父はボディーガードが取り巻いているから、警備の薄いお前を殺す」

「たたたた頼む。待ってくれ」


 ぱんっ。銃声。


「うわあ」にやけ男は頭を抱えてしゃがみこんだ。

 銃口からは万国旗がつながって出てきた。紙ふぶきがゆっくりと舞う。

 小山内は一歩下がってかしこまった礼をするとサングラスをとった。

「失礼しました。これは当店の余興でございます」

 わたしは席を立って小山内の後ろに回った。にこやかに笑い仰々しく会釈する。

「ごめんあそばせ。あなたが本物の男か試させてもらったのですわ。わたくし、強い男が好きなのです」

 わたしは小山内の目をじっと見つめた。客やウェイターがあっけにとられている中、小山内はわたしの手を取って悠々とレストランの出口へ歩いた。

「それでは失礼いたします」

 わたしは芝居がかった礼をすると呆然と立っているにやけ男と頭を抱えた父を後にし、小山内と手をつないで夜の街へ走り出た。

 手をつないで笑いながら走った。走った。

 公園まで来るとわたしはクロークにコートを預けたままにしてきたのに気づいた。

 ドレスから露出した肩が寒くて震えた。小山内はトレンチコートを脱ぐと、そっとわたしの肩にまわした。わたしはその手を押さえた。

「ありがとう。これですっきりしました」

「おれは腹が減った」

「じゃあ別のレストランへ」

「いや、レストランはしばらくこりごりだ。お嬢さんはハンバーガーを食ったことはあるかい」

「あります」

「じゃあ、おれがおごるよ。お嬢さん」

「わたしの名前は薫です。猪之垣薫」

「おれは健二だ。小山内健二」

 わたしたちは歩きだした。都会の照明が肩を抱き合って歩くわたしたちを照らした。

 そうして、わたしは再び恋に落ちた。


   *


 思い出にふけっていたわたしは休日の午前の陽光でふとわれに返った。テーブルの上に紅茶カップが湯気を立てている。夫は遠い目をして庭のバラを眺めている。

 わたしはカップを置いて立ち上がると夫の首に両腕を回した。

「かお……」

 わたしは彼の口を自分の唇でふさいだ。


 サラリーマンっぽいこの人は見てていらいらするけど、時々この人、殺し屋みたいな表情をするのよね。そこがたまらなく好き。






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