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ミッション3 逃げる女

 ミッション3 逃げる女


 私は名乗るほどの者ではありませんが、外務省事務次官補、叶舞子女史の私設秘書をしております。叶女史には男性の秘書が複数いますが、私は主に公にはできない仕事を担当しています。

 そこで秘書の序列から言うと私は十番目くらいですが、私に内密の話をするときには、叶女史は人払いをいたします。

 今日もそのようにして私一人を残して全員退席するように手を振られました。

 第一秘書の木村は銀縁メガネの奥にある小さい目で私をにらむと、出すぎた腹をゆさゆさとゆすりながら部屋の外へ出て行きました。

 第九秘書の倉柳。こいつはいつも叶女史がタバコをくわえられるとライターで火をつける、ただそれだけの役目ですが、同じように敵意のこもった視線を私に向けて出てゆきました。

 残ったのは叶女史と私だけになりました。

「調査結果を報告して」

 叶女史は事務的な口調でおっしゃいました。この方はのろまはお嫌いです。私は報告書を読み上げました。

「コードネーム鈴木次郎。本名小山内健二。日本人。二十六歳。法務省公安調査庁第三部第一課所属。ただし身分上は永久派遣職員。実行班ストライカーとして数々の実績があり、特に強襲任務では傑出した才能を示す」

「そんなことは分かってるわ。それから?」

「一九八八年横浜生まれ。両親ともに既に死去。その後、叔父の小山内雄一郎に育てられるが十歳から二十歳頃までどこで何をしていたか不明。学歴、不明。小学校、中学校、高等学校、大学とも卒業記録なし」

「へえ」叶女史はちょっと驚いた表情をされました。

「じゃあ学校の友人とかはいないのね。その叔父というのは?」

「叔父の小山内雄一郎、およびその息子は既に死去。これは二人とも心臓病だったことが判明しています。現住所は東京都品川区。既婚。子供はなし」

「あら」叶女史が初めて笑顔を見せられました。白い歯が美しいです。

「そう。奥さんがいるのね」

 叶女史はなにかしばらく考え込んでいらっしゃいましたが、やおら足を組みかえると指示を出されました。

「内密に暴力の専門家を一人雇いなさい。後腐れないような外部の人間で……そうね……女にも容赦しないような。少し頭がおかしければなおいいわ。後で外務省うちとの関係を立証できないように。経費はいつものやつで」

「かしこまりました」

 私が一礼すると叶女史はうっすらと頬を桃色に染め、立ち上がられました。

「待ってらっしゃい」


    *


「どう? 履き心地」

「まあまあ。新しいから、まだ足に当たる感じがする」

 昨日は休日。一緒に行った買い物で夫は新しい靴を買ったのだ。夫が歩くたびに新しい靴はキュッキュッと革がこすれる音を立てた。

「じゃあ、かおるちゃん。行ってくるね」

 夫の健二は日焼けした顔をほころばせて手をあげた。白い歯が見える。私はその手にハイタッチした。


 さてと。

 主婦の朝は忙しい。夫が出勤した後、家を掃除して洗濯を済ませ、冷蔵庫をチェックして買い物リストを作っているうちに昼近くなった。

 突然、電話が鳴った。

 わたしはスリッパの音をぱたぱたと立てながら電話台へ行った。

「はい。小山内です」

『すみません。わたくし、品川港湾署の佐藤と申しますが、小山内健二さんの家族の方はいらっしゃいますか』

「はい。私が妻ですが」

『そうですか。実は健二さんがお仕事中、交通事故に遭われまして、いや生命に別状はないのですが、大事をとって今入院されています』

 わたしは受話器を持った手が冷たくなるのを感じた。

「ど、どんな容態ですか。本人に電話を代わってくださる?」

『申し訳ありませんが、今まだ意識が戻っていないので……』

 なにが生命に別状ない、よ。意識が戻っていないって……。

『今病院の住所を申し上げます。来ていただけますか』

「もちろん。もちろんです」

睡蓮会港湾病院すいれんかいこうわんびょういん。住所は品川区港湾一丁目……』

 わたしはあわててメモをした。

 それから急いでエプロンをはずし、洗面所で口紅だけ引いて、ハンドバッグをひっつかみ、靴箱からあまりヒールの高くない靴を出して履いているうちに寝室に携帯電話を置き忘れたことを思い出した。

 わたしは靴を蹴飛ばして寝室に戻り、再び玄関で靴を履いて外に飛び出した。

 幸い、道に出るとタクシーはすぐにつかまった。タクシーが走り出してから運転手は聞く。

「どちらまで」

 それでわたしは病院の住所を書いたメモを電話台の横に忘れてきたことを思い出した。でも大丈夫。覚えているわ。財布は忘れてないし……。

「睡蓮会港湾病院ですかぁ。あそこって確か立替中じゃなかったかなあ……」

 タクシーの運転手は自信なさげに言ったが、運転を続けた。

 タクシーはそのまますべるように走って行った。

 都内の道路はいつものように渋滞しており、わたしはいらいらしながら目的地に到着した。


 睡蓮会港湾病院は東京湾に流れ込む川べり、いわゆるウォーターフロントという場所に建っていた。人影は見当たらず、駐車場にも車は一台しかなかったが、正面玄関が開いており、照明はともっていた。

 わたしは運転手に料金を支払うと、そのまま自動ドアをくぐり、リノリウムの床を走って奥に見える受付まで行った。

 受付には誰もいなかった。

 そのときになってわたしは病院の雰囲気がおかしいことに気づいた。受付にも待合室にも人の気配がない。照明だけが煌々とともっている。わたしは左右を見回した。

「誰か! 誰かいませんか」

 突然、くぐもったような機械音が響くと、入り口や窓にシャッターが降り始めた。わたしはなにが起きたのか分からず、しばらく呆然としていた。

 ガシャーン。

 シャッターが閉まり、ロビーは蛍光灯の寒々とした灯りだけになった。

 胃がきゅっと締め付けられるような感じがした。


     *


「次郎。ちょっとこっちへ来てくれますか」

 太郎がおれを呼ぶ。

 ここは公安調査庁第三部の事務所だ。外務省の機密書類の一件以来、さしたる任務もなく、おれは日々の書類仕事をこなしていた。

「どうも調査庁の極秘データベースに進入したやつがいるようです」

「ふうん」

「他人事みたいに言わないで。アクセスされたのはお宅のプロファイルですよ」

 太郎は怒ったような口調で言ったが、こいつの表情は変わらないので本当に怒っているのかどうかよく分からない。

 おれは太郎のPC画面を覗き込みながら言った。

「おや、叶舞子デスクトップ画像はやめたのか」

 太郎は苦いものを噛んだような顔で言った。

「ええ、やめました。おれはストーカーですから、自分なりに色々と調べたんです。あのあま、とんでもない女狐ビッチですよ。事務次官補の地位を利用して、裏では汚いことをやり放題です」

 おれはなにも言わなかった。事務次官補の情事を他に漏らしてはいないが、人の口に戸はたてられず。そうしたことは隠していても自然にうわさになるものだ。

「話を戻します。侵入者のアクセス元はですね……」

「そんなことも分かるのか」

「なめないでください。おれは元々日本最強のクラッカーです。建前上、おれたちはお互いの素性を知らないということになってますが次郎、お宅の本名も家族構成も全部知ってますよ。今まで調査庁が陰でしてきたことも全部調べてあります」

「なんでそんなことを調べたんだ」

 太郎は軽く口をへの字にして見せた。

「保険ですよ。おれたちは永久派遣職員の身分ですが、もしおれをごみみたいにぽん、と使い捨てにしてみたら、調査庁は後悔しますよ」

 そんなものかな。

 おれはそれほどネガティブに考えたことがないので実感しなかったが、考えて見ればおれたちほど存在の危うい者はない。存在してはならない機関の非正規職員。生命も身分も全く保証されてはいない。

 太郎は真顔に戻って言った。

「ところで……。お宅、なにか恨みを買うようなことはありませんか」

 まあ、仕事の上のしがらみなら心当たりが多すぎて困るくらいだ。太郎はしばらくコンソールをにらみながらキーを叩いていたが、一言つぶやいた。

「やばいですね」

「なにが」

「調査庁のデータベースに進入したのと同じ発信元が、裏業界サイトを利用してろくでもないことを始めようとしているようです」

「具体的に言ってくれ」

「殺し屋を雇いました」

「おいおい」

「それもサイコキラーです。日本人ですが通称”テッド”。過去七件の殺人および死体遺棄。しかし逮捕されていない。こいつの特徴は、女が対象でないと請け負わないことです。今では「趣味」と実益を兼ねているわけですね」

「女を対象」

 おれの中で不安が爆発したように広がった。


 かおる?


 おれは虚空を見つめた。


     *


 不安に押しつぶされそうになりながら、わたしは入り口までとんでいき、シャッターをゆすったが、鉄の板は無情に出入りをこばんだ。道具がなければ男でも開けることはできないだろう。

 わたしはシャッターのスイッチを探して狂おしく左右を見回したがなにも見つからなかった。

 カチッ

 なにかスイッチが切れるような音がして、ロビーの一番奥、わたしのいる所から一番遠い場所の照明が切れた。

 カチッ

 数秒後、再び同じ音がして、もう少しわたし寄りの場所の照明が切れた。

 カチッ

 また照明が切れた。残った照明はわたしの頭の上だけになった。

 カチッ

 一拍、間をおいてから最後の照明が消えた。闇の中に非常口を示す緑色のサインだけがおぼろげに光っている。


 クックックックックッ


 闇の奥から気味の悪い笑い声が聞こえてきた。わたしは無意識に自分の二の腕をつかんだ。鳥肌が立ってざらざらしている。

 わたしは怒鳴った。

「誰っ! 誰なの!」

 フフフフフ

 わたしをあざ笑うような男の声がした。

「これからゲームを始める」

「ふざけないで! 出てらっしゃい!」

 ばすっ

 返事の代わりに闇の奥から火薬の湿った爆竹のような音が聞こえると、わたしは足払いをかけられたように突然後ろに転んだ。固いフロアに叩きつけられる。

 痛い。

 わたしは足に手をやると、脱げそうになっていた靴のヒールがどこかへ行ってしまったことに気づいた。付け根から折れている。これって銃?

 よく考える前にわたしの身体は自然に逃げ出した。両方の靴を脱ぎ捨てる。足が床に触れると冷たい。

 わたしの後を男の声は笑いながらゆっくりと近づいてきた。

 誰か、誰かいないの?

 ばすっ

 再びくぐもった音と同時にわたしの前で消火ホース格納箱についた赤ランプが吹き飛んだ。やっぱり銃かしら。

 男は笑いながら追ってくる。顔は見えない。

「頼まれたのは脅すことだが、好きにしていいそうだ」

 頼まれた。誰に? なぜわたしが。

 ばすっ

 今度は身体をかすめた。一瞬後、その箇所が火箸を当てたように熱くなる。やっぱりなにか飛び道具だわ。

「助けて! 助けて、誰か!」

 わたしの叫びを聞いて後ろの声は満足そうに笑った。

 わたしは転びそうになりながら走った。

 今ではこれがなにかの冗談ではないことが分かった。

 足がもつれる。ストッキングで床が滑る。

 追いつかれたら殺される!

 死にたくない!

 わたしは非常口サインのわずかな明かりを頼りに廊下の角を曲がった。

 十メートルほど先に手術室のサインが見えた。わたしはよく考えず、その部屋に飛び込んだ。ドアを音がしないようにそっと閉める。

 どうか気づかれませんようにと祈りながら、わたしはあとしざった。背中が手術台にあたる。

 手術台からシーツが垂れ下がっており、わたしはしゃがんでその後ろに身を隠した。

 追っ手の靴音がかすかに聞こえる。

 お願い。お願いだから気づかないで。

 じっとしていると、靴音は廊下を進み、徐々に遠ざかって行った。

 わたしはそれでもじっとしていた。

 部屋には手術用具を洗う流し台の上に小さな非常灯が赤くともっているきりだった。赤い光で部屋全体が赤く染まっている。


 だんだん落ち着いてくると、わたしは妙な臭いが気になりだした。これはなにかしら。

 ヤニだわ。煙草のヤニくさい。

 手術室に煙草? あり得ないわ。

 わたしは好奇心に負けて手術台の下から這い出て立ち上がった。びくびくと入り口に目を向けたまま臭いの元を探す。ふと手術台の上に視線が向いた。

 警備員の死体だった。

 目をかっと見開き、口から舌がだらしなくはみ出ている。

 キャアアアアアア!

 わたしは手のひらで口を押さえたが、遅かった。全身の毛が立ち上がり、思わず壁際まで跳びのいた。背中が器具類の台にあたり物がばらばらと床に落ちて大きな音を立てた。

 奴が来るわ!

 わたしは狂おしげになにか武器になるものはないか探した。手術用のメスが見つかった。それを一旦手にしたが、こんなもので銃を持った男になにができるだろう。

 それからわずかな明かりを頼りに手術室を探し回った。プラスチックの薬品ボトルがいくつもあった。その蓋を片っ端から開けていった。揮発性の薬品の臭いが鼻をついた。


 あんまり急いでごっつんこ

 ありさんとありさんがごっつんこ


 扉の外から歌声が聞こえてきた。わたしは身を固くして振り返った。

 わたしは手術台の下に駆け込んだ。

 同時にゆっくりと扉が開いた。

 手術台のシーツの陰からは、入ってきた男のズボンと靴しか見えなかった。しかしその足取りから相手が自信ありげなのが分かった。

 男はゆっくりと手術室の扉を閉めた。

「ハロー、うさちゃん。ハーイ、隠れても無駄だよー」

 男は迷わずわたしの隠れている場所に近づくとゆっくりとシーツをめくった。

 わたしは精一杯男をにらみつけた。

 男は昆虫の目のようなゴーグルをかけていたが、それを引き下げてわたしを見た。野卑な顔立ち。危険な目。

 男の満面に笑みが浮かんだ。

「これはこれは。実物は写真よりずっと可愛いよ、うさぎちゃん」

 男は右手に銃を構え、手袋をした左手でわたしの前髪をつかんだ。

「痛い! やめて」

 わたしは引っ張られてそのまま立たされた。男はわたしの顔をもっとよく見ようと、わずかな明かりの方へわたしの顔をねじまげた。

 バシャッ

 わたしが後ろに隠していたボトルに入った薬液を顔に浴びて、男は顔をおおった。辺り一面に揮発性の薬品のにおいが立ち込める。

 一瞬の間を置いて獣の声で咆哮した。

「うおおおおおおおおお!」

 わたしは男を突き飛ばしてそのまま扉へ走った。

 ばん

 扉を叩きつけるように開け、そのまま廊下にダイビングする。

 ばすっ、ばすっ

 男がでたらめに撃った弾が廊下の天井に当たった。わたしは起き上がってそのまま走る。

 暗闇の中で病院の廊下は悪夢の迷路だった。進んでも進んでも出口がない。

 わたしは各部屋のドアを次々に開けたが、隠れられそうな場所は見つからなかった。

 わたしは階段を登り、また降りた。どこに隠れても見つかってしまう気がした。

 とうとう入り口のロビーまで戻ってきてしまった。

 わたしはあたりを見回し、とりあえず受付カウンターの後ろに身を隠した。

 しばらくじっとしてウサギのように耳を澄ます。今は肉食獣に追われる小動物の気持ちがよく分かった。

 今、外は昼。だけど館内は真っ暗。ここはウォーターフロントだから、この病院に備えられたシャッターは津波に備えてのものだろう。そんなことを新聞で読んだ覚えがある。

 津波用のシャッターなら、棒かなんかで叩いても壊れるはずがない。

 さっきの男は奥の暗闇で何かを操作してシャッターを閉めたり照明を消したりした。だからその操作盤? にたどり着きさえすれば、再びシャッターを開けることができるに違いない。

 わたしは闇の中でできるだけ姿勢を低くして奥に進んだ。非常口サインの照明だけでは、数メートル先しか見えない。

 わたしは一番最初に男の声が聞こえてきたおおよその場所をつきとめようとした。

 数歩進むごとに耳をすませて、男が迫っていないことを確かめる。

 闇に目をこらすと、少し先に警備室のようなものが見えた。ドアが開いている。

 わたしは用心しながら中に入った。

 やはりそこに配電盤があった。

 スイッチやランプが何列にも並んでいる。

 わたしは近づいてランプの明かりで文字を読み取ろうとした。これは……照明のスイッチ。今つけるのはまずい。わたしがここにいるのが分かってしまう。

 目を凝らしているとようやくシャッターの開閉スイッチが並んでいる列が見つかった。

 わたしはそっと周りを見回してから、開閉スイッチを押した。

 

 何もおきない。


 そんな馬鹿な。わたしは狂おしく、シャッターのスイッチを片っ端から押していった。どのスイッチも無言だった。

「どうして、どうして動いてくれないの」

 わたしは泣きそうになった。顔がひきつる。

「それはね。これがないからだよぉ」

 突然後ろから聞こえた声で、わたしは飛び上がった。振り向くと男が警備室のドア枠にもたれている。人差し指に鍵をぶら下げていた。

 男はゆったりと笑みを作った。

「主電源スイッチの鍵さ。これは警備員が持っていた。今はこの鍵一つしかない。この病院は開業直前だからね。だから、ほら」

 男はわたしによく見えるように鍵をかかげると、ぽとりと口の中に落とした。

 ごくり。

 呑んでしまった。

 それからにたり、と笑った。

「さあ、これで君はここから出られない。ゆっくりと鬼ごっこを楽しもう」

 男は再び昆虫の目型のゴーグルをかけた。

「その絶望の表情がたまらないよ。でもまだ足りない。きみはまだ屈していない。きちんと絶望してもらわないと」

 男は警備室の真ん中に置いてある机を回り込んできた。

 わたしはとっさに反対側に回り込み、机の上にあるものを手当たり次第につかんで投げつけた。

 セロテープの台やボールペンが顔に当たったが、男は動じなかった。

 机を回り込むうちに、わたしと男の位置は逆になった。わたしがドアの近く。わたしはそのまま開いたドアがら外へ走り出した。

 男は銃を撃たなかった。追いかけても来なかった。わざといたぶるかのようにゆっくりと後をついてきた。

「逃げても無駄だよー、うさぎちゃん。もっと走って。さあ、もっと」

 再び歌いだした。


 こげこげこげよ、もっとこげよ

 ラ、ラ、ラ、ラ、川くだり


 わたしはどうすればいいのか分からなくなった。

 とりあえず再びロビーに戻ってソファーの陰に隠れた。身体を横にしてぴったりとソファーにくっつける。回り込んで覗き込まなければ見えない位置だ。

 わたしは息を殺し、全身を耳にした。

 男はしばらく歌を歌っていたが、その歌声はふっとやんだ。

 後には静寂と闇。

 わたしは時間を見ようとしたが、女性用の腕時計は文字盤が小さくてよく分からない。

 そのとき、携帯電話のことを思い出した。

 あれはどこ? ハンドバッグの中。最初に撃たれたとき、ハンドバックごと床に落としたのだわ。じゃあ、ロビーのどこかにあるはず。あれがあれば外に連絡できる。

 わたしはソファーの陰から出ようか迷った。男の気配はないが、どこで待ち伏せしているか分からない。


 ブブブブブブ、ブブブブブブ


 なにか振動音が聞こえる。丁度今考えていた携帯電話だわ! マナーモードにしているから着信音が鳴らずにバイブレーターだけが振動している。ハンドバックの中にあるから音はこもっている。誰かが電話してきたんだ。助けが呼べる!

 この振動音はあの男にも聞こえるかしら。

 わたしは迷った。もしこの音があいつにも聞こえるのなら、電話機を取りに行くのは自殺行為だ。でも、あいつにも分かっているはず。わたしが携帯電話を手に入れたら助けを呼べる。

 だから着信音が聞こえたら、携帯電話を取り上げるか壊すためにすぐやってくるに違いない。

 すぐに来ないということは、まだ気づいていないということ?

 そんな思いとは関係なく着信音はいったん切れてから再び鳴り出した。


 ブブブブブブ、ブブブブブブ


 チャンスは今しかないかもしれない。わたしはためらってからソファーの陰からそっと出て、振動音のする方へはって行った。


 ブブブブブブ、ブブブブブブ


 早く! 早く! 気づかれる前に。

 わたしはハンドバッグをつかむと、携帯電話を取り出し、受話ボタンを押した。

「もしもし! もしもし! すみません。助けてください」

 落ち着いた声が聞こえた。

『こんにちわ。どうしましたか』

「お願い! お願いです。警察を呼んでください! 場所は……品川区……」

『まってください。どうしたんですか。状況をよく説明してください』

「殺されそうなんです。助けて! 早く警察を! 銃を持った男に追われているんです」

『ふむ。それであなたの名前は?』

「わたしの名前? だってあなたが電話してきたじゃない」

 突然、わたしは悟った。この電話の相手はだれ?


「『どうしたんですかあ。もしもし、もしもしい』」


 わたしのすぐ後ろと電話の中で同時に同じ声がしゃべった。

 わたしは振り向くのが怖かったがそうするしかなかった。


 男は自分の携帯電話を切るとポケットにしまい、わたしの手首を握った。

 痛い! 手首が折れそう。

 私の携帯電話が床に落ち、男の靴がそれを踏みにじった。ぺき、という音を立てて携帯は壊れた。

「うさぎちゃん。電話は相手をよく確かめてから話そうね」

 男のダメ押しでわたしは崩れ落ちそうになった。もうだめ。足が震えて立ってられない。涙で目がよく見えない。口がからから。手足は冷たくなっている。

「うさぎちゃんがどこにいるのかぼくには最初から全部見えてたんだよお」

 男は自慢そうに昆虫眼鏡をかけなおした。

「この眼鏡はね、暗闇でも熱が見えるんだ。人間は体温があるから人間の形はよく見えるよ」

 再び歌いだす。


 どんなに上手に隠れても、しーろいあんよが見えてるよ


「はっはっはっはっはっ」男は笑い出した。

「さあ、これからきみを閉じ込めなくちゃならないんだ。一緒に病室においで」

 笑いやんだと思ったら、男は打って変わって生真面目な口調で言う。

「大丈夫だ。抵抗しなければ危害は加えない」

 嘘。

 わたしには嘘がなんとなくわかる。どんなに芝居していても、嘘をついている人はなにか違う。

 わたしを殺すつもりだわ!

 どこかこの男にとってやりやすい場所まで連れて行ってから殺すんだわ。

 女をだます汚い、卑怯なやつ。

 恐怖にも関わらず、わたしの中で怒りが湧き上がるのを感じた。

 許せない! こんなやつにむざむざ殺されてたまるもんですか!

 わたしは自分の乳房の谷間に隠した手術用メスに意識をむけた。

 さっき警備員が死んでいた手術室で手に入れたもの。こんなもので戦えるかしら? もしどうしようもなければ自殺するかもと思って持ってきたけれど、こんな小さな刃物でなにができるかしら。

 男はわたしの右手を自分の左手でつかんで引いてゆく。すっかり余裕を見せている。

 どうしよう。チャンスは一度きりだわ。

 わたしはわざと足取りを遅くした。男はそれにすぐ気づいてこちらを見た。表情が変わっている。

「おい、もっと速く歩け」

「こめんなさい。さっき足をくじいたみたいで、痛いの。あ、胸が、苦しい……」

 わたしはしゃがみこみ、胸に手をやった。男に見えないように背中を向けて、メスをしっかりと握った。しばらく息を整える振りをする。

「おい、もういいか」

 男はいらいらしてわたしの手を引っ張って起こそうとする。

 そのタイミングでわたしはメスを振りかぶった。

 ぐさっ。

 男の体を狙ったが、メスの刃はとっさにかばった男の銃を持った方の腕に突き刺さった。

 ぐああああああ

 男はわたしを突き飛ばし、拳銃が床に落ちる。男はそのままよろよろと数歩後に下がった。血が床に滴り落ちる。

 わたしは床に転がった拳銃に飛びついた。

 震える手でしっかりとつかみ、銃口を男に向けて引き金を引く。男が身を固くした。

 カチ

 何もおきない。

 カチ、カチ

 わたしは数度引き金を引いたが、弾は出なかった。

 わたしは銃を男の顔に投げつけ、そのまま後ろへ走り出した。後ろで男の狂ったような哄笑が聞こえた。

 わたしが廊下を走る。自分では走っているつもりなのかもしれないけれど、水の中を歩いているみたいに先に進まない。

 ばすっ

 再びくぐもった音がして、わたしの横の壁から破片が飛び散った。後ろを向く。男は左手で銃を持ってこちらに狙いをつけている。それに気づくとわたしは横に跳んだ。

 ばすっ

 再びどこかに弾の当たる音。利き腕ではないから狙いは不正確だけど、近くから撃てばいくらなんでも当たるはず。わたしは逃げた。

 再び男の哄笑。

「うさぎちゃーん。もう駄目駄目。拳銃にはねー、安全装置ってものがついてるんだよー。せっかく逆転のチャンスだったのに、もう終わりだねー」

 許せない。

 ばすっ。壁が砕ける。

 許せない。

 わたしは廊下を走りながら考えた。なにか、なにかないかしら。さっきまでの記憶がフラッシュのように頭の中を流れる。

 建物は電動式のシャッターで閉ざされている。

 主電源スイッチの鍵は男が呑んでしまった。

 非常灯は点いている。全ての機能が止まっているわけじゃない。

 男の眼鏡は暗闇でも熱を見ることのできる特殊なもの。

 なら、熱があれば、もっと大きい熱が。


 わたしは向きを変えた。暗い廊下を進む。

 わたしは先ほどの手術室へ入った。隅の薬品棚へ行き、プラスチックのボトルを片っ端から持ち上げてラベルを確認する。あった。消毒用アルコール。

 わたしは重いボトルを持ち上げると一旦床に置いた。

 手術台の上の顔をなるべく見ないようにしながら、死体のポケットを探る。喫煙者なら持っているはず。あった! ライター。

 シーツをはぎとって自分の首の周りに巻きつけると、わたしはボトルをかついで廊下を引き返した。


 わたしは再びロビーにいた。固く冷たい床が続く病院中で、この待合所の区画だけにはじゅうたんが敷いてある。テレビとソファーが並べてある。

 わたしはボトルを傾け、アルコールをじゅうたんの上に撒いた。ソファーにはシーツをかぶせ、そこも入念にアルコール漬けにする。

 かちり。

 ライターは一回で着火した。これは希望の灯のようにも地獄の火のようにも見える。

 シーツはあっという間に燃え上がった。すぐに炎は床を伝って燃え広がる。

 現在のじゅうたんは難燃性の素材でできているはずだけれど、アルコールランプの芯にはなる。

 ソファーが燃え始めると、真っ黒な煙が出てきた。ゴム臭い黒煙はあっという間にホール中をけぶくする。

 ごほっごほっ。

 わたしは口をふさいだ。煙が目にしみる。のどが痛い。


 カアアアアアアアアアアアアアッ


 怪鳥のような雄たけびが聞こえた。

「このアマっ、なにをするっ!」

 炎の明かりに照らされて、男の姿が見えた。拳銃を持った左手で右腕を押さえている。右腕は血でぐっしょりと濡れている。

「ふざけやがって。なぶり殺しにしてやる!」

 わたしは後すざった。早く。早くして。


 ジリリリリリリリリリリリリリリリ。


 警報機が鳴り始めた。

 そうよ。そのまま警備会社に通報が行きますように。でも間に合うかしら。

 男が迫る。

 わたしは後すざる。

 男の目が殺意を持っているのが見える。


 プシュウ、シャアアアアアア


 スプリンクラーが作動し、わたしたちの頭に水を振りまいた。

 だめ! 消えないで!

 わたしの心の叫びもむなしく、スプリンクラーの水でたちまち炎は勢いを失った。

「いーい、シャワーだ」

 男が満足そうに顔で水を受ける。

 ついに炎は消えてしまった。

 わたしの希望も炎とともに潰えた。わたしはがっくりと力を失ったひざを床に落とした。うつむいてもう顔を上げる気力もない。

 男はゆっくりと近づいて来た。

「うさぎちゃんに噛まれてけーがしちゃった。この落とし前、どうやってつけようかなあ」

 男はわたしの髪をつかんで顔を引き上げた。痛みと煙で涙があふれた。わたし、今きっとひどい顔してる。

「どうしようかなあ。皮をゆっくりとはいでいこうか。それとも指を一本一本切り落とすというのはどう?」

 嗚咽が漏れそうになるのを必死でこらえる。こんなやつに屈服したくない。

「おやあ、まだ反抗的な目をしているねえ」


 ばしっ

 いきなり顔を張られた。痛い!

「絶望だよ、絶望。だーれも助けにこないんだ。もっと終わった表情をしろよ」

 男がわたしの顔をつかんで上を向けさせたとき……


 ギリギリギリギリ


 なにか機械音が聞こえた。男もはっと顔を上げる。

 なにかを無理やり動かすような音とともに、正面入り口の床からさっと一条の光が入ってきた。

 津波対策の重いシャッターをなにかの機械がこじ開けている。

 シャッターは確実に上がり、それに伴って光の面積はどんどん大きくなった。

 わたしもひざをついたまま後ろを振り返ったが、闇になれた目がくらみ、あふれるばかりの陽光以外、なにも見えなかった。

「なんだ、てめえ!」男が怒鳴る。

 眩しい光をバックに、わたしは黒いシルエットを見た。妙なことにそのとき思ったのは「夕陽のガンマンみたい」ということだった。

 キュッキュッキュッ

 靴を鳴らしながらガンマンは近づく。

「てめえ、近づくと女を殺すぞ」

 男の声が震えている。ガンマンの影に威圧されている。

「殺すと言ってんだよ!」

 男が銃口をわたしのほおにこじったとき、轟音が聞こえた。同時に男の持っていた拳銃が吹き飛ばされたのを感じた。


 ガンッ、ガンッ、ガンッ

 がっ、ぐえっ、げぶっ


 轟音が続くたびに妙な声をあげて男の身体はがくがくと痙攣した。そうしてわたしの目の前で倒れた。

 助かった!

 ガンマンの影が駆け寄ってくるのが見えた。

 同時にわたしの意識も遠くなった。


     *


 のどが痛い。

 目がのりでくっつけたようにふさがっている。

 ドアの外で誰かが歩き回っている。きゅっきゅっという靴の音が耳障り。

 わたしは薬品の臭いに一瞬身体をこわばらせた。まだ病院にいるのかしら。

 しかしドアの外から聞こえる雑音、まぶたを通して感じられる陽光にわたしは自分が病室に寝ていることに気づいた。

 目を開ける。

 清潔な病室に看護婦が一人、点滴の容器を調べていた。わたしが目覚めたのに気づくとにっこりと微笑んだ。

 看護婦に呼ばれて部屋に駆け込んできた人がいる。

「かおる!」

 日に焼けていなければ蒼白だとわかる顔。

「あなた」言ったのどが痛い。

 夫は床にひざまづいてわたしの手を取った。なにも言わなくてもその手の握り方でどれだけ心配してくれたかが分かる。

「わたし……生きてるのね」

「もう、大丈夫だ。犯人は死んだ」

 夫は安心させるように言ったが、わたしはそれであの悪夢のような一件を思い出して身震いした。

 そんなわたしの頭を抱き寄せて夫はなんども背中をさすってくれた。

 ずいぶん経ってから、わたしはぽつりと疑問を口にした。

「なぜわたしが狙われたのかしら」

「犯人は異常な犯罪者で、これまで何人もの女性が被害に遭ったそうだ」

「頼まれた、と言ってたわ。誰かに頼まれたって」

 夫はしばらく沈黙した。それからかすれるような声で言った。

「そうか。もしかしたら君の父さんの関係かもしれないな」

 後ろめたそうな声。わたしにはすぐ嘘だと分かった。でもなぜそんなことで嘘をつくの?

「もう休んで。眠られるまでずっとそばにいるから」

 夫の手を握ったまま、わたしは眠りについた。うとうとしたとき、なにかがひっかかって気になった。


 あのシルエットのガンマンは誰だったの? いいえ、あのガンマンが病院のロビーに入ってきたとき、なぜ夫と同じ新しい靴のこすれる音がしたのかしら?


 疑問を胸にしまったまま、わたしは眠りに落ちた。


    *


 私は名乗るほどの者ではありませんが、外務省事務次官補、叶舞子女史の私設秘書をしております。

 今日は叶女史を老人が訪れました。枯れ木のようにやせてはいるものの、眼光ばかりやたらと鋭い老人です。私には名前を教えてもらえませんでした。しかし非常に重要な人物であることは叶女史の態度で分かりました。

 いつものように人払いをし、部屋には叶女史と老人、私と老人の付き人の四人のみでした。

 老人はぼそぼそと低い声で話しましたが、それに対して叶女史は一言も発されませんでした。しかし彼女の美しい顔は紙のように白くなりました。こんな様子の叶女史を見るのは初めてです。

「あれが猪之垣大三郎の娘と知っておったのか」

 老人の声が漏れ聞こえました。

「この世界には裏の力がある。お前も知っているように大臣や議員は数年ごとに替わる。官僚は長くその座について彼らを裏で操っておる。しかし……」

「……お前たち官僚すら知らない力が日本にはある。猪之垣大三郎が亡き後でも猪之垣チルドレンたちは網の目のようにその「根」をわが国の根底に下ろしておる……」

「……政界を泳ぎたいのであれば、もうあの女には手を出すな、よいな」

 老人の目が射るようににらむと叶女史はがっくりと頭を垂れられました。髪は乱れ、額には汗が浮き出ています。

 やっとのことで声を搾り出されました。

「わかりました」


 老人が立ち上がって出てゆくまで、叶女史は身動き一つされませんでした。






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