ミッション1 公安の男
ガンストライカー
プロローグ
黒い波止場に波のぶつかる音がする。
コンテナ群の陰に体をもたせた男は身動きせずに待っていた。これが天気の良い昼間ならはた目には道に迷った観光客が一休みしているように見えただろう。
高所からにらみつける夜間照明のオレンジ色を横切って闇から闇へカモメが飛んだ。
男は閉じていた目を開いた。携帯用受令機から伸びて耳に刺さっているイヤホンをはずす。立ち上がると体に巻いていたショールを落とし、その上に携帯用受令機を放った。地面にとぐろを巻いたショールは携帯用受令機を音もなく受け止めた。
男の痩せた姿がとがった鉛筆のような影となってコンクリートの路面にのびた。真っ黒な長袖シャツと長ズボンの間に太いガンベルトが境界線を引いている。
男がコンテナの陰から歩みだすと同時に、長い防波堤に沿った道のかなたからヘッドライトが近づいてきた。車は巨大なコンテナクレーンのかたわらまで来ると止まった。同時に四つのドアが開き、中から四人の男たちが出てきた。
四人のうち一人だけ黒いスーツを着、にぶく光るジュラルミンのブリーフケースを提げている。あとの三人は筋肉隆々の肉体をTシャツと作業ズボンに包んでいた。
「ユーリはどうした」
スーツの男が開いたドアをかわし前へ進み出て言った。ガンベルトをちらりと見たが臆した様子はない。残りの三人は開けたドアの背後に立ったまま短機関銃のボルトを引いた。
「ユーリは来ない」ガンベルトの男は言った。「取引は中止だ」
スーツの男はひどく顔をゆがめた。それが彼の笑い顔のようだった。
「そうか。邪魔したな」
スーツの男はブリーフケースの取っ手を握りなおすと後ろを向いた。
「それは置いていってもらう」
ガンベルトの男は静かに言った。
「なに」
スーツの男はゆっくりと向き直った。本来の凶暴さがむき出しになる。
「てめえ、冗談を言っているのか。カウボーイさんよお」
「手間は取らせない。それを置いて黙って去ってくれ」
スーツの男は薄笑いした。
「いやだといったら」
「仕方ない。撃つ」
闇の中に暗黙の了解が交わされた。スーツの男は獲物を捕える猛禽の目つきでガンベルトの顔をにらんだ。ふとその顔にためらいが浮かぶ。
「お前。まさか、第三部の……」
それが開始の合図だった。Tシャツの三人は短機関銃の照準を向けた。
乾いた連続音が潮混じりの空に響いた。
ミッション1 公安の男
おれは紺色のスーツに身を包み、リーガルの靴底の音をほとんどさせないで歩いてきたが、自宅近くまで来ると理容店の前で立ち止まった。近ごろ改装したばかりの理容店は前面が総ガラス張りで、アップライトによって閉店後のこの時間でも正面が明るく輝いている。
おれは手にしていたゼロ・ハリーバートンのブリーフケースをいったん地面に置くと、ガラスを鏡がわりにしてもう一度身だしなみを点検した。ネクタイは一日の仕事が終わったときのように自然に崩し、スーツやシャツの襟などにもどのような怪しげな色もないように細心の注意を払った。
ガラスに向かってにっこりと笑うと軽く陽に焼けた顔から白さがこぼれた。ガラスに通行人の女性が振り向くのが映った。
さて。
おれは気を引き締めて歩きだした。数分で自宅へ着くと門を通りドア脇の呼び鈴を鳴らした。唇の端を両側に引き、笑顔を見せる。しばらくするとぱたぱたとスリッパの音がして扉が開いた。
「おかえりなさい、あなた」
「あー、かおるちゃーん。今日は仕事が一杯でつかれちゃったよ」
おれは大げさによろよろしてみせ、妻の薫の腕に飛び込み、胸に顔をうずめた。ファウンデーションの香りに混ざって女の汗の匂いがする。
「また、邪悪なことをやっていたから疲れたのね」
妻はおれをしっかりと抱きしめながら、突き放すように言う。
「そんなあ。何にもしていないよ」
おれの方が身長が高いが、妻の胸にほおをうずめたまま、おれは上目遣いでしゃべった。
「うそ。うそに決まっているわ」
妻は笑い顔のまま話した。
「あなたは外で悪いことやっているに決まっているじゃない。どうしてこんなに遅くなったの。なにか悪いこと、していたんじゃないの」
「いやー、課長がさあ、そろそろ定時になるころにどかーんと仕事を言いつけたんだ。ひどいよ」
「どかーん、と浮気していたんじゃないの」
おれはぷるぷると顔を振った。くすぐったくて妻は思わずおれを突き飛ばす。
「全然全然」おれは真顔で言う。「どかーんと」
「浮気」妻が継ぐ。
「ちがーう」おれは大げさに両手を広げて叫んだ。「全然違う」
「どう違うの」
「天と地ほども違う。ロンドンと北京くらい違う」
「嘘でしょ」
「本当だよ」
「うそね」
「ホント」
「うそ」
おれはやれやれと天を仰ぐ仕草をしてみせた。妻はくすり、と笑ってブリーフケースを受け取り、後ろを振り返る。
「いらっしゃい。今日はカキフライよ」
「うっひょー、いっただっきまーす」
妻の後に続いて台所に入り、皿に山盛りにしてあったカキフライの一つに伸ばした手をぱちんと叩かれた。
「不潔ねえ。ちゃんと手を洗ってよ。だから男って嫌い」
「じゃあ、なんで一緒に暮らしているんだよ」おれは口をとがらせる。
「ふふ、なんでかな」
妻が書斎へブリーフケースを持っていく途中、ゼロ・ハリのふたが突然、蝶番を中心に回って落ち、開いて止まった。中から書類やカードなどと一緒にマッチが転がり出てきた。
時間が止まった。
『ナイトバブ夜顔』
おれは相棒の工作員、三郎を心の中でののしった。なんでよりによってナイトクラブのマッチでなきゃいけないんだ。
「これ、なに」
振り向かないまま問う妻はどんな亡霊よりも恐ろしかった。
「いや、その、同僚にもらってさ。仕事で使うからって」
「仕事って、なんの仕事なの」
「それは……」
星が目の前を舞った。ゼロ・ハリの角が顔面に突き刺さるときぐにゃ、という音がした。鼻の中に鉄の味がする。全身から力が抜けそうだ。
「どういういうことよー!」
妻は台所へとって返すと、カキフライの大皿を持ち上げておれの顔面にたたきつけた。おれは両手を前にかざして防いだが、数十のカキフライが両腕のすきまから飛来して上半身に当たり、揚げたての熱い油がワイシャツからしみ込んできて肌を焦がした。
「あち、あち、あちちち」
おれは飛び上がった。胸をかきむしる。そのまま妻が大皿で殴打してくるのを背を向けて逃げ出し、風呂場へ駆け込んだ。走りながら上着を脱ぎ捨てる。シャワーを全開にし、とにかく水でやけどを冷やさなくちゃ。
シャワーを浴びているおれの背中を妻の振り下ろす大皿が何度も叩く、
「いたいいたいいたいいたい」
おれはシャワーを浴びながら左手で頭をかばったが、あまり役に立たなかった。
ばりん。
大きな音がして大皿が砕け散った。
「どういうことよー!」
「何もない、何もないよ。本当だよ。同僚がこれやるって押しつけたんだ。それだけだよ。本当だ」
「『ナイトパブ夜顔』ってどこよ」
「知らないよ。行ったこともない」
「うそ、嘘つきー!」
妻はおれのワイシャツの胸倉を引きむしった。濡れたシャツはきゅーと音を立てて裂けた。プラスチックのボタンが宙に飛んだ。ランニングシャツの胸ぐりに火ぶくれがいくつもできている。妻はそれを爪でかきむしった。
「ぐああああ」目の前が真っ白になる。
火ぶくれの中にあった透明の体液に続いて血がにじみ出てきた。必死で歯を食いしばるが倒れそうだ。
「本当だ! 本当なんだー!」
おれは絶叫した。胸が血で真っ赤に染まっている。それを見た妻の動きが一瞬止まった。ふん、と鼻を鳴らして後を向き歩き去った。
「リリパット・アーミー」おれは思わずつぶやいた。
「なに!」振り向いた妻がにらみつけた。
「あ、いえ……何でもありません」
「ふん」そのまま妻は去った。
後に残されたおれはため息をつき、ぼろくずとなったシャツを身体からはがした。再び冷水シャワーをかけてやけどの火照りを冷ます。最初は傷が痛んだが、徐々に感覚が麻痺してきた。
十分にやけどを冷ました後、タオルで叩くように体を拭いた。白いタオルに赤いまだら模様が付いた。
それから台所の救急箱から軟膏を出して塗った。胸に包帯をぐるぐると巻く。
先程床に散らばったカキフライはおれが拾って食べないようにご丁寧にみなごみ箱に放り込んであった。おれはため息をついた。
着替えてから湯を沸かし、カップラーメンをすすると応接間のソファーに横になった。
*
翌朝、上半身に包帯を巻いたおれが出勤すると、課長の浅見吾郎は眼鏡の向こうから上目遣いにおれの襟からはみ出ている包帯をちらと見て言った。
「次郎君。任務ご苦労。昨夜の報告は三郎から受けている。君も四人相手だと大変だな。傷は大丈夫か」
「はあ、大丈夫です」
本当は四人は問題でなく、こうなった相手は一人だが、それを蒸し返す必要はないだろう。三郎め、一体どういう報告をしたんだか。
おれ、小山内健二の勤めているのは公安調査庁、調査第三部、第一課というところである。
法務省に属する公安調査庁は日本の治安・国家安全保障上の脅威に対する情報を収集する情報機関である。国内問題を扱う調査第一部、国外問題を扱う調査第二部、そして調査第三部がある。
警察と異なり逮捕権や強制捜査権がないため、主に調査対象組織に内通者を獲得して情報収集のみを行うことになっている。もちろんそれだけでは足りないので、潜入調査員がいる。
しかし調査をもとに警察などが不用意に動いた結果、連携もれによって内部に潜入した調査員の身元が割れ、危険にさらされる事例がいくつか発生した。
そこで調査庁は密かに実行部隊としての調査第三部を設立した。調査第三部は表向きは資料の収集と整理を行う部門だが、実際には内閣や外務省、防衛省などの要請を受け、秘密の任務を行うのだ。
おれは自席につくとノートパソコンの電源を入れた。湯沸室でコーヒーを汲んでコップを持ってくる。機密保持のためにお茶くみの事務員すら雇っていないのだ。もっとも、おれにはその方がいい。
システムが起動するとおれはキャビネットからファイルを持って来、いつものように退屈な書類仕事を始めた。おれがやらされているのは、過去二十年分の紙の文書を電子化する仕事だ。光学文字認識《OCR》つきのスキャナには予算が出なかったので、全て手入力。これがお役所の仕事である。
「よお、エース。昨夜はお疲れ様」
回収班の佐藤三郎が声をかけてきた。おれはやつをにらんで答えた。
「お前か。おれのかばんにマッチを入れておいたのは」
「はは、アリバイ作りにと思ってな」
「頼むから打ち合わせにないことをするのはやめてくれないか」
「おっプロ意識が強いね、さすが」
三郎は自分が悪いことをしたという意識は皆無のようだ。任務はそつなくこなすが、それ以外では冗談ばかりだ。
ちなみに佐藤三郎というのはもちろん偽名である。調査第三部は実動部隊であるということを絶対に公にはできないため、実際の任務に出るおれたちは、一人が捕まっても他の実動部隊員の本名は決してわからないようにお互いを偽名で呼ぶ。
調査第三部には首席調査官の浅見課長配下に白井(官僚)係長、準備班の田中太郎たち、回収班の佐藤三郎たち、そして実行班の鈴木次郎、つまりおれがいる。
太郎はPCで情報収集をやっている。情報収集というのも何のことはないネット匿名掲示板3ちゃんねるだ。
太郎の通常業務はネット掲示板を泳ぎ回り、潜在的犯罪者の動向や裏情報を調べることだ。情報収集には傑出した能力がある。任務の準備を安心して任せられるのは太郎だけだ。
三郎は三郎でオンラインゲームの最中だ。
現代の特殊部隊もののオンラインゲームは昨今リアリティーを増し、アバターに隠れた人格が現れる。そこで実際のテロリストが思想偏向を調べて仲間をリクルートすることがあるので実際にオンラインゲームに参加して調査するのだ。
立派な仕事だが、はたから見ると勤務中に遊んでいるみたいに見える。いや、こいつは絶対に遊んでいる。
太郎が振り返って言った。
「次郎。そういえば、さっきじいさんがお宅に来いと言ってましたよ」
「やれやれ」
おれは立ち上がった。隠し扉をくぐってエレベーターを降り、Qの部屋へ行く。
装備班の松戸才蔵――通称Qはおれたちの装備を開発・支給してくれる偏屈な老人だ。ドアを開けておれが顔を見せると破顔した。にやにや笑いを隠せないようだ。
「よくきた次郎。新装備ができたぞ。テストも良好じゃ」
松戸老人は得意そうに手にした拳銃を渡した。おれが愛用しているコルト・シングルアクションアーミーをカスタム化した銃だ。なぜ六発しか装てんできず、再装てんにも時間のかかる前時代の拳銃を愛用しているかといえば、おれはこれが一番早く連射できるからだ。
7ヤード以内の至近距離であれば、腰だめに構えた位置から0.5秒で全弾を別々の的に当てる絶対の自信がある。おれのような特殊な任務に必要な装備だった。
「握ってみい、ほれ、重さが変わらんじゃろう」
「はい、これは何が違うのですか」
「ひひひひひ。分からんじゃろう」
松戸老人はうれしそうに笑った。
「これは普通のシングルアクションアーミーのように見えるが中身は全く異なる。グリップ部分に高電圧発生装置が仕込まれ、弾丸を帯電させる。弾丸は二万ボルトの電圧を帯びて標的に当たる。つまり飛ぶスタンガンじゃな」
松戸老人は目を大きく見開いた。
「さらにじゃ。これは麻酔弾でもある。標的に麻酔薬を注射して眠らせる。麻酔弾は効果が表れるのに時間がかかるのを電気弾で補っているのじゃ、しかも……」
老人はひとさし指をおれに突き付けた。
「銃の使用方法や重量バランスは元の銃と寸分変わらぬ。あんたはいつも使い慣れた銃を使うように使えばよいのじゃ」
「それは助かります」
「この重量バランスを元のままにするというところが一番苦労した。何しろ重いバッテリーとコイルを銃把に入れて……」
老人の自慢話にときどき相槌をうちながらおれは受け取ったシングルアクションアーミーを回したり、放り投げたりしてバランスを確認した。確かにいつも使用している銃と比べて違和感はないようだ。
「いや、何しろ急かされたので大変じゃったよ、期日に間に合わせるために……」
「期日って、任務のですか」
おれが尋ねたときに後ろから声がした。
「邪魔して悪いですが、任務打ち合わせです」
太郎が部屋をのぞきこんでいた。
*
事務所の奥にある資料室は壁一面ファイルの背表紙に埋め尽くされているが、その一つを手で押すと巨大なキャビネは音もなく動いた。
「こういうところをケチらずに電動式にしてほしいよな」
「予算の関係だ、悪いな」
中から浅見が憮然とした表情で言った。
「チーフ。早いですね」
おれは内心ひやひやしながらキャビネをもとに戻すと着席した。太郎と三郎はすでに座っている。白井係長はPCをプロジェクタのケーブルに接続すると壁に吊るされたスクリーンのそばへ寄り、説明を始めた。
「今回の任務は急を要します。現在わが国はK国と微妙な外交上の問題を抱えており、来週にはK国の外務大臣と日本の官房長官を交えた会談が東京で予定されています。それに先だって次官クラスの人物がすでに来日して事前調整を行っていますが、その秘書に当たるこの男……」
白井はリモートコントローラのスイッチをいじった。PCプロジェクタが栄養の足りなそうな人物の顔写真を白いスクリーンに映し出した。
「この男が新しい麻薬流通ルートの開拓に地下活動を行うことが、かねてから暴力団白丸会へ潜入調査を行っていた調査員からの情報でわかりました」
「他所の国でやってくれりゃいいのに、とんだ外交だな」おれが言った。
「日本は上得意だからな。末端価格が全然違う」三郎がシャーペンを指の上で回しながらぼそりとつぶやいた。
浅見課長が付け加えた。
「本来、麻薬捜査は全く調査庁の仕事ではない。しかし警視庁が動いてことが公になると外交問題になる、今の時期それだけはなんとしても避けたいので穏便に取り引きをつぶしてくれと外務省から要請があった」
浅見はおれを見つめた。
「そこで次郎。きみの出番だ。取引現場へ行き、一人も殺さずに取り引きをつぶして欲しい」
言ってくれるぜ。おれは内心つぶやいた。
「むろん、相手は凶暴で知られる白丸会です。当然取り引きには殺し屋も立ち会うでしょう。特にこの二人」
白井はスライドを進めた。背広を着、銀縁の眼鏡をかけた目の細い角刈りの男が表示された。眼鏡フレームは相手を威嚇するために下向きに傾いている。
「一人目は明智大五郎。銃身を短くした散弾銃の使い手です。残虐非道。人殺しを何とも思わない。ためらわずに撃ってくるでしょう」
白井は次のスライドを写した。肩までの長髪を生やし、薄汚れたTシャツを着た巨漢だ。
「二人目は小林善人。少し頭が足りないが怪力で、トンボの羽をむしるように生贄の指や首をもぐのを楽しみにするやつです」
二人とも名前と印象が全く合わない。親は願いを込めて名づけたが、残念なことに子供は期待に添わなかったという見本だ。三郎がおおげさに体をすくめ、震えてみせた。もちろん演技だ。こいつ。
白井は次のスライドをたぐった。
「そしてこれが白丸会の幹部、坂田真実です。武闘派で知られ、直接・間接に四十件以上の殺人に関与したと噂されています」
スーツ姿の目つきの鋭い男がこちらを見ていた。
「これが取引予定の現場です。Gホテルの地下にある秘密のカジノ別室。武器はいつものように太郎の準備班メンバーが準備します。次郎は手ぶらで入り、直前に武器を受け取ります。別室は小さいので、多くても相手は五人でしょう。
秘書官を除く全員を昏倒させたら次郎のタスクは完了。秘書官を保護し、次郎を脱出させる事後処理は三郎の回収班が行います。準備班の潜入はすでに完了しているので、次郎がうまくカジノ客に化けおおせて内部に入れるか、が今回の任務成功の鍵になります」
「ということだ」浅見がおれを見てつぶやく。
「ジロー、チェンジ」
「はあっ?」おれは突っ込んだ。浅見課長はときどきわけの分からないことを口走る。
「いやその」浅見は決まり悪そうにうつむいて、ぼそぼそ言った。
再び顔を上げると浅見は全員を見回した。
「決行は……今夜二〇〇〇《ニイマルマルマル》時」
*
「かおるちゃーん。ねえ……かおるちゃん?」
返事のない携帯電話を切るとおれは電源を切って回収箱に落とした。今夜は残業で遅くなる、と言ったら口をきいてくれなくなったのだ。
遅くなるか、そのまま帰ってこなくなるか分からないが、おれは帰宅するつもりでいた。
おれのいとこは、おれのような危険な仕事とは無縁の平凡な公務員生活だったが、ある日帰宅途中に心臓が止まり、そのまま帰らぬ人となった。
人間の人生なんてそんなにもはかない。
東京都内では交通事故で毎日三人死んでいる。どれも、当人たちは死ぬつもりではなかったが、運命にはあらがえなかった。
危険な仕事だから死ぬのではない。それが運命なら死ぬのだ。
真っ黒なタキシードに身を包んだおれは立ち上がって、偽装トレーラーの後部から路地に降り立った。道路を横切るときにトレーラーの運転席に座っている太郎がちら、とウインクしたのが見えた。
おれは待っていたタクシーの客席に乗り込むと、任務現場のホテルへ向かった。
Gホテルのフロントでおれは優待券をカウンターに置いた。
「予約していた近藤だけど」
「はい、近藤様」
慇懃なホテルマンは優待券を手にするとただちに電源の落ちた人造人間のように無表情になった。よく見て確認することもしない。手触りだけで普通の優待券と違うことを悟るのは、この男もディーラーなのだろう。
「どうぞこちらへ」顔だけで笑う。
ホテルマンの後について進んだ。
「VIP待合室B」と書かれたプレートを掲げている部屋の奥に階段室への入口がある。
階段を下りてから廃業した病院のような廊下を少し歩くと鉄の扉があった。無理やり開けるには機関砲が必要だろう。
ホテルマンが軽くノックすると、鉄扉についた小さな窓が開き、目が現れて来訪者を確認した。一瞬後、内側から錠がはずれる音がして鉄扉が開いた。
小部屋に入る。フロントのホテルマンはそこで引き下がった。
中には二人の男たちがいた。肉体暴力系の男と知性派風の男だ。二人ともタキシードを着ている。
「失礼します。決まりですので」
知性派はそう言うと右手に金属探知機を持ったまますばやくおれの身体検査をした。
肉体派はそれを少し離れた場所に立ったまま見ている。上着の左胸がふくらんでいる。来客が妙な動きをしたら直ちに対応できる距離だ。
もちろんおれは武器と言えばペンナイフすら携帯していない。審査をパスして小部屋からさらに奥の扉をくぐった。
中は廊下とはうって変ったゴージャスなカジノだった。黒いタキシードと同数の赤いドレス、それに白いスーツを着た筋者たちの姿が混じる。
おれは用意してきた札束をチップに交換した。国民の血税を洗った裏金だ。そのままルーレット台に近づき、慣れた様子を演技しているような表情でチップをはり始めた。
本当にギャンブルのゆくえには興味はない。しかし儲ける気満々の素人客をよそおい、全神経を張り巡らせて室内の様子を記憶した。
ここはヤクザにしきられているとはいえ、ほとんどはかたぎの客だ。見張りはチンピラばかり。本当に危険な連中はあの隅の小部屋にいる。
ルーレットが数度回り、おれのはったチップがすべて胴元の前に移動したころ、耳の奥に埋め込んであるマイクロマシンがちくちくとした。任務開始だ。合図があったということは用意ができているということだ。
おれは別の台へ移動するかのようにさりげなく立ち上がった。
ゆっくりと奥の扉に進むと、途中で片手に盆を掲げたウェイターとすれ違った。ウェイターは花束のように巻いたナプキンをおれに向けて差し出す。花束の真ん中にコルト・シングルアクションアーミーの銃把が見えた。それを右手で引き抜き、二歩進むと、全身の体重をかけ、扉を足で蹴破った。
小部屋の中にはあっけにとられた表情の人間が四名。一人は外国人ーーK国の秘書。テーブルをはさんで差し向かいに座っているのが白丸会の幹部。立っている二人がそのボディーガード。予想通り、資料で見た明智大五郎はショットガンをぶら下げている。その反対側にいる巨漢は……小林善人か。少し顔が違う気がするが。
「なんだてめえ」
おれの手にした拳銃を見て明智がショットガンを向け、小林が上着の内側に右手を差し入れた瞬間、コルトの撃鉄が瞬いた。
銃声はほとんど一発か二発にしか聞こえなかったが、その場にいた四人の内、三人は電撃をくらって即倒した。クイックドローによる連射だ。小林は片手を上着に引っ掛けたまま仰向けに倒れ、明智はショットガンの引き金を引く暇もなかった。
弾倉にはあと三発しか弾がない。おれはそのまま数秒、残心の構えで起き上がってくる者がいないか確認していた。Qを信じないわけではないが、麻酔弾がどれほどの時間で効くのか分からない。
おれは明智のショットガンを足で部屋の隅へ蹴飛ばし、倒れた大男に頭の方から近づいた。近くで見ると最初の違和感は確信になった。
こいつ、小林じゃない。
背後からのにぶい音を感じ、おれはとっさに前へ転がった。猫のように背後に忍び寄っていた小林が振り下ろした大理石の灰皿がおれの右手のコルトに当たり、コルトははじきとばされた。
小林はおれと床に転がったコルトとの間にゆっくりと割り込んだ。
目の端でドアを見ると、閉まっていた。おれをエスコートした準備班の男が閉めたのだろう。逃げ場はない。
おれは両手でこぶしを作り、ボクシングの構えを取った。小林の唇が残忍そうに吊り上った。格闘には相当の自信があるのだろう。
おれはその隙をついて前蹴りで椅子を蹴飛ばした。椅子は床をすべっていった。背もたれは狙い通り小林の金的に当たったが、小林の表情は全く動じなかった。
おれはフェイントで前へ出て小林の両腕に空を切らせ、両手のひらで同時に耳をたたいた。普通の人間なら鼓膜が破れるが、小林はそのままおれを突き飛ばした。
おれは部屋の反対側まで吹っ飛ばされ、白丸会幹部の体の上に乗っかった。背中に意識のない体のぐにゃりとした感触がする。
K国の秘書はテーブルの下に隠れている。それがいい。怪我をしないように。
小林がゆっくりと近づいてくる。あくまでも応援を呼ぶつもりはないらしい。
おれは飛びかかって小林の頭をつかみ、膝蹴りをあごに見舞ったが、小林はおれの体を持って引き剥がすと部屋の別の反対側へ放った。おれははでな音をたてて今度は明智の体の上に乗っかった。
数メートル先にコルトが転がっている。
おれがそれを拾おうと手を伸ばすと風のように近づいた小林がコルトを蹴飛ばした。こいつ。いつもはわざとゆっくり歩いているが、本気の動きは速い。
おれは小林のひざにしがみついたが、小林は濡れた猫をつまみあげるみたいにおれをつまみあげると、再び部屋の反対側へ放った。ご丁寧に今度はおれが最初小林と間違えた巨漢のボディーガードの上に乗っかった。まるで人間ベースボールだ。
「イッツ、ショータイム」
小林はそう言うと両手でおれの首をしめながら持ち上げた。おれは宙吊りにされた。
両手で小林の手首をつかんだが、鉄パイプのように硬い手首を動かすことはできない。
小林は目を細めておれののどに親指を食い込ませた。おれは意識が白くなりそうだった。
小林は少し手の力をゆるめた。おれはぜいぜいと息をした。こいつ、楽しんでやがる。正真正銘のサディストだ。早く、早くしろ。目からは涙、鼻からは鼻水が止まらない。あと少しで意識を失いそうだ。
出し抜けにのどを絞めていた手の力がゆるんだ。目を上げると小林の目の焦点がぼやけている。そのまま巨木のような体はぐらぐらとゆれ、最後にはどーんと仰向きに倒れ、おれはその上に乗っかるように倒れた。ホームイン。
おれはテーブルの下を覗いた。K国の秘書は硬直している。ドアの外から怒号が聞こえた。三郎の率いる回収班が侵入してくる音が聞こえた。
小部屋のドアを開けるとちょうど彼らが入ってきたところだった。
客や女はみな凍りついている。白スーツを着た暴力の専門家たちは拳銃を抜いたが、先頭に立ってきた人物を認めると思わず銃口を下げた。
白丸会の幹部、矢島剛石。今夜の取引に立ち会った男とは別のカジノの責任者だ。すぐ後ろに三郎が付き添っている。その後ろに回収班の二名がいた。
三郎がなにか耳打ちすると男は顔色を変えた。三郎がひそひそと話しする。男はこわばった表情のまま聞いていた。国家権力を笠に着ているのだろう。
男は少しためらっていたが、三郎にうながされ、小部屋に入ってきた。倒れている組員のかたわらにしゃがみ、脈をとる。
さすがに自分のところの組員が殺されたらメンツのためにおれたちを見逃すはずはない。今回の任務の絶対条件は「一人も殺さないこと」だった。
男は立ち上がると、白いスーツの男たちに手を振った。それを合図に用心棒たちが拳銃をしまう。
刺す視線を感じながら重苦しい直立した人間の化石をぬっておれは外へ出た。実行班の仕事は終わりだ。後かたづけは三郎たちがやる。
あの秘書がどうなるのか、どうやって白丸会を抑えるのか、おれは知らない。
おれを救ったのは麻酔弾だった。倒れている男たちの体に突き刺さっている麻酔弾を回収し、小林に組み付く度に体の各部に注射針を刺したのだ。使用済みの麻酔弾に残っているわずかばかりの麻酔薬がどれほど効くか分からなかったが、三つ使ってようやく小林の巨体を眠らせるだけの分量を注射できたというわけだ。
外の空気を吸うと生きている実感がした。体のあちこちが痛む。待っている乗用車の後部に乗り込むとシートにもたれた。おれは隠れ家でシャワーを浴び、硝煙の臭いを落として自分の服に着替えるのを心待ちにした。
*
こっそりと家には入ったおれは、台所へ向かう途中で妻と遭遇した。妻はきゃっと声を立ててからおれの顔を見ると安心した表情になった。
「かおるちゃん。どうしたの、こんな遅くまで。もう寝てると思ったのに」
「あーん。テレビでホラーを見ていたら、怖くて眠れなくなったの。良かったー、あなたが帰ってきて」
涙ぐんだ目でうれしそうに笑う。
「ふーん、どんな話?」
怖がりのくせに怖いものが好きなんだ、うちの妻は。
「うんとね。ヒロインが眠っている間に悪霊が首を絞めるの。それで朝起きると首筋にあざができていて……あらっ、これはなに?」
妻はおれの首筋に手を当てた。小林の指のあとがまだ残っている。
「え、ええええっと。悪霊の仕業じゃない?」
妻はきっ、ときつい上目づかいでおれを見た。まずっ。
「いや、ちょっと転んでぶつけたんだよ。なんでもない」
「こんなところ、転んでぶつけるわけないでしょ! どうしたの!?」
「あの……」どうしよう。心配かけるわけにはいかないし。仕事の内容は守秘義務があるし。
「キスマークでしょ」
「へっ?!」
「まあ、こんなにいくつも。相手は誰よ、誰なのー!」
「くくくくく、苦しい。やべてくれ」
妻に首をしめられながら、おれはもう一つ予備の麻酔弾があればと思った。