カルト教団、無気力団
1.囚われの朝
息苦しさに目を覚ますと、蒸し暑さが全身を覆っていた。空調が軽くうなりを上げているので、室温は27度のはずだ。夜分には適温に感じたものだが、今は身体中が熱を持ち重く鈍く感じる。スマホに目をやると、まだ7時である。目覚ましは8時に合わせたのだが、再度寝つけそうにもない。涼しい1階へ避難することにしよう。
階段を下るとともに、快適な涼しい空気に包み込まれる。1階のリビングには、少し高級なエアコンがついており、今朝も快調に機能していた。そのままソファに倒れ込みたい気持ちを堪え、うがいをする。少し痰が絡んだ。なんとなく倦怠感も感じるし、あまりよい眠りではなかったようだ。薬を5種類、口に放り込むと、ソファに横になり、オンラインゲームの日課をすませてしまう。ほんのわずかなアイテムのために、毎日こなすのも馬鹿馬鹿しいのはわかっているが、やらないとなんとも落ち着かない。毎日コツコツと貯めることができるし、やらないと損した気分にもなる、うまいこと設計してある。そういえば、昨日読んだ村上春樹の「雑文集」の中で、カルト宗教の特徴を「いくつかの仮説をわかりやすいセットメニューにして手渡してくれる。すべての質問には理路整然とした解答が用意されている。相対性は退けられ、絶対性がそれにとってかわる」と説明していた。やることは決まっているし、ゴールも決まっている、大差ないなあと漠然と思う。そのまま端末でAIを開き、オンラインゲームのやめ方とカルト宗教のやめ方を訊ねてみる。似たようなものだった。1.自己認識、2.目標とスケジュールの設定、アクセス制限、3.サポート体制構築、専門家への相談、4.代替アクティビティ、5.メンタルヘルスには注意。カルト宗教の方が、自己認識に加え、疑問の芽生えと情報収集の言及があり、代替アクティビティではなく、新たなアイディンティティになっている程度で、概ね同じに見える。さすがAIは優秀で、適切な順番づけとともに、抜かりなく特徴を抽出してくれている。まあなあ、だけど代替アクティビティがなく、新たなアイディンティティもないから、そこに留まっているんだけどなあ。それ以上、考えるのもめんどくさいので、日課を超えて、のめり込まないように、今日は、あと夜1回やるだけにしようと思う。先日もそう思っていたのだけれども。
2 .目覚め
特に空腹は感じないが、朝食を抜きごろごろと転がっていると、いつものように怠惰に飲み込まれていくんだろうなと思い、冷やした甘味と暖かいコーヒーを腹に収める。単に市販のヨーグルトとインスタントコーヒーなのだが、若干、活力が湧いてくるのを感じる。栄養補給ではなく活力補給を飲食物に求めるのもおかしな気がするが、意外に今、身体が必要としているのはそういうものなのかもしれない。デザートにもコーヒーの味にもこだわりはある方だと思っていたが、活力欠乏時の補給と思えば、インスタントも悪くない。もう湿気を帯びカチカチに固まり、お湯をかけても部分的にしか溶けない、薄いんだか濃いんだかわからない粒入りコーヒーなのだが、外部から緩やかに受け入れ可能な異物を取り入れると解釈すれば、好きなものの劣化版というのは、日常遣いによい。
眼が霞む。顔を洗おう。先日より目薬を挿しているのだが、挿しても挿しても、すぐ目が霞む。だんだん目が閉じてくるし、目やにもでる。しょうがない。治療が順調に進むことを祈り、気にしないようにしよう。そういえば、今日は、下顎も張る。鈍い引き攣った感覚が左側にある。身体のあちこちに不調が出るのは、年齢のせいなのだろう。なんとか折り合っていく方法を見つけられるといいのだが。
さて、活力が消えてなくなる前に、今日の予定を決めてしまいたい。AIちゃんが診断した予定は、音楽を聴いてリラックスして過ごすも違和感を感じ、新しい挑戦をしたい気持ちとやる気のなさの葛藤に悩まされるそうだ。新しい挑戦をする気持ちなんか、ミジンコほどもないんだけどなと思いつつ、AI想定によると、さらに偶然の訪れにより、新しいことを始めてみたいという気持ちが高まっていくらしいから、葛藤しているというより、やる気のなさの大海の中に微かな挑戦したいような気持ちが溺れつつ漂っているのだろう。キーワードを選択すると1日の予定を占ってくれるパーソナルAI占いでも開発されればいいのにと思いつつ、幸運な偶然を呼び込みそうな予定を考えてみる。
先日から気になっていたカフェ。いっても結局シフォンケーキ食べて、紅茶でも飲んでそれだけだからと思って、伸ばし伸ばしになっていたが、偶然でも見つけに、行ってみるか。パン屋。お気に入りのパン屋は、今日は休みだけれども、偶然性なら、行ったことのないパン屋に行ってみるか。毎日くっちゃねる生活だから、そんなものしか思いつかない。まあ後は読みたい本もあるし、本当は運動もした方がいいのだけれども。そうか、ハードルを低くすればいいのか、運動する格好で出掛けて、シャワーは家に帰ってから浴びる、運動は筋トレ中心で、汗をわずかにかく程度にして、それで、前後に何か入れればいい。あー、車検に出した車に、運動靴を入れっぱなし、、うーん、サンダルでいいか、踵は固定されているし筋トレなら靴下にサンダルでも怒られないだろう、ネットにも室内用シューズって書いてあるし。
3 .偶然の出会いなど普通起こらない
まずは、カフェに向かう。どこかで偶然が訪れ、感銘を受ける出来事が起きるはず。AIの判定元であるネット神話によれば。
はい、まず道に迷う。グーグルマップで、だいたいの方向を確認し、運転をしていたのだが、途中で曲がる角を一つ間違えたらしい。超えるはずのない高速をまたぐトンネルを超えてしまう。再検索して、予定通りカフェに向かってもいいのだけれども、このまま間違えた道に沿っていけば、系列のカジュアルフレンチのレストランに辿り着ける。これは方針転換か、偶然の導きか。
少し遅めのフレンチをいただく。そしてそのまま、筋トレにいく。走らずに、筋トレだけ、各種20から30回づつ。長いこと運動不足だったから、軽い負荷しか上がらない。それでも体力をつけていかないと、活動レベルが上がらない。
4 . いわゆる謳われる物語と僕の人生
現実の人生に幸運な偶然や新たな出会いなどそうそう起こらない。もちろん、新たな行動を起こし続け、生じる出来事の意味合いを次々変化させ、幸運を引き寄せる人はいるのだろう。でもそんな気力も人生の目的も持っていない。道を間違えても、そのまま流される日々だ。たぶん、明日も明後日もそうだろう。身体のあちこちに不調が生じ、ガタガタになりながら、毎日をこなしていくのだろう。きっと、それは僕だけじゃなく、ほかのたくさんの人がそうなのかもしれない。ガタガタの運命の中で諦めずに足掻いている、それぞれが見える景色があると流行りの歌はいう。僕は、なんの奇跡も起こらない景色の中で、ぼんやりとその景色を眺めている、足掻きもせず、叫びもせず、踊りもせず。カルト教団、無気力団。教義、奇跡は起こらない、故に、僕は救われない。いや、たぶん、世界は救われる必要がなく、奇跡も必要ないのかもしれない。そしてなんの奇跡も起こらない景色の中で、奇跡など起こらなくても毎日生きていけるということを証明し続ける。