第60話
――何が起こったのだろうか?
笑実は自分に何が起こったのかが理解できなかった。
敗色は濃かったが、決定はしていない。 充分に巻き返す事は可能。
そう考えていたのだが、接近して来た相手に第四位階を使用したと同時に彼女の中から何かが枯渇した感覚が生まれそれに引っ張られるように彼女の身体も崩れ落ちた。
攻撃された様子はないので間違いなく自身の内面に起こった事が原因だ。
そうなると魂――燃料の枯渇が原因だろう。 魂が具体的に何を指すのかを理解していなかった彼女は魔導書を合理的に効率よく運用する事しか頭になかったので消耗に関してはそこまで意識していなかったのだ。
笑実は冷静に自らの敗因を分析し、理解はしたがもうどうする事も出来なかった。
体は動かず、徐々に熱が失われて行くことが分かる。 彼女は冷めた思考でこれは死ぬなとぼんやり考えた。 死ぬ事に対する恐怖はない。 精々、事実として認識する程度だ。
仮に意識を失うだけに留まるとしても目の前にいる二人がとどめを刺すだろう。
魔導書はどう頑張っても動かない。 特に悔しいとも感じず、死んだらどうなるんだろうと無感動に考えていると駆け寄って来る足音が聞こえて来た。
それに何かを感じたのか笑実はゆるゆると力の入らない体に鞭打って顔を上げて視線を動かす。
ややぼんやりとしてきた視界だったが、自身に向かって力強く走って来る一人の男の姿があった。
ここに来てから何度も再会を思い描いた人物でつい先ほど殺すつもりだった男だ。
祐平。 ようやく会えたといった気持ちと今更になって何をしに来たのかと言った不満、そして無事でよかったといった複雑な感情が彼女の中で渦を巻く。
感情。 そう、彼女は死に瀕した事により徐々にだが喪失した感情が戻ってきているのだ。
――祐平、祐平、祐平……。
噛み締めるように彼女は祐平の名前を心の中で唱える。
既に彼女の体は彼女の意志に従わず、その口は掠れた呼吸しかできない。
体そのものには問題はないはずなのだが、肉体を動かす為の燃料が尽きて電源が切れるように機能が停止し始めている。 感覚の喪失に合わせて彼女の中で失われていたものが徐々に蘇っていく。
そして消え失せたはずの恐怖心と自分は何をしてしまったのか、何故そんな事ができてしまったのかと言った疑問と困惑が噴出する。 ここに来るまでに殺した相手の顔とその死に様が脳裏で弾けた。
あぁ、自分はなんて恐ろしい事をしてしまったんだ。 仕方がないあれは自分の意志ではないは通らない。 笑実は自身のやった事の記憶は存在しており、どんな気持ちで人々の命を奪ったのかをはっきりと思い出せるからだ。
恐ろしかった。 人を手にかけたという事実もそうだが、自分がそんな事を平気で実行できてしまった事が何よりも恐ろしかったのだ。 私はこんなにも狂った人間だったのか?
そう考えると恐ろしくて仕方がない。 死ぬ間際に訪れた理不尽に彼女は涙を流す。
どうしてこのまま怪物として死なせてくれなかったのか?
死ぬ間際になってこんな残酷な事をするのだろうか?
そう考えたがややあって内心で笑実は自嘲する。 いや、納得したと言うべきだった。
あれだけの事をしでかしたのだ。 楽に死ねると考えるのはあまりにも都合が良い。
これは罰なのだろう。 自分だけが生き残る事を考えて身勝手に他者の命を奪い、最後には祐平すらも殺そうとした。 彼が死ななかったのは結果論でしかない。
仮に前衛の二人を排除できた場合、笑実は容赦なく祐平を殺し無感動に魔導書を回収しただろう。
だから、これで良かったのかもしれない。 自分のような狂った怪物は死ぬべきなのだ。
でも――
「笑実!」
――ようやく真っ直ぐに祐平を見られるようになったのにこんなのはあんまりだ。
抱き起された笑実はこんなにも近いのに手が届かなくなった祐平との距離を思って悲しくなる。
祐平は笑実の名前を呼び続けるがその声が徐々に震え、目からは涙が流れた。
笑実は死ぬ。 それはどう頑張っても動かしようがない。
祐平もそれを悟っているからこそ、涙を流しているのだ。 助ける方法を魔導書で調べたが、帰って来る答えは一つ「不可能」。 彼女は後僅かの時間で死ぬ。
笑実は悲しんでいる祐平に何かを伝えたい。 何かを残したい。
そんな気持ちで必死に手を伸ばす。 ただ手を持ち上げるだけなのに凄まじい労力だ。
彼女の手が祐平の頬に触れ、力なく落ちようとしたが受け止めるように握りしめる。
何か言わなければならない。 だが、言うべき言葉が見つからない。
祐平は自分はなんて無力なんだと打ちのめされる。
どうすれば。 どうすればいいのだろう? そんな事しか考えられない自分自身を情けないと思いつつ、必死に言葉を探すが――
笑実は自由の利かない体で最期に笑って見せる。 もう、今の自分にできる事はこれしかなかったからだ。 死ぬ事は恐ろしく、自分のやってしまった事も同じく恐ろしい。
しかし、それでも最後の最後に祐平と会えた事だけは、殺さずに済んだ事だけは良かったと心からそう思う。
「……ゆ――へい」
微かな声でそう呟き、彼女の全身から力が失われた。 死んだのだ。
祐平もその事実を理解はしたが、受け入れるのは難しかった。
「笑実……笑実……」
そう力なく呟いて命を失った笑実の体を揺する祐平の姿に水堂と伊奈波は何も言えずにいた。
僅かに遅れて駆け寄ってきた卯敷と櫻居も泣いている祐平にかける言葉もなく、その震える背中を見つめる事しかできない。
大切な人を失い、傷ついた人間に立てと言うのは酷な話だろう。
しかし、状況がそれを許さない。 水堂はやや躊躇いながらも泣いている祐平の肩に手を置く。
「ダチを失ったばかりなのにこんな事を言うのもなんだが……」
「……いえ、分かってます」
いつまでも泣いていられない事を理解している祐平は特に声を荒げる事もなく、笑実の体をそっと横たえて手を胸の前で組ませる。
祐平は何度も深呼吸を行って強引に気持ちを整えると一つ大きく頷く。
「取り乱してすいませんでした。 取りあえずやれる事をやりましょう」
「……あぁ、御簾納のおっさんはもうどうにもならねぇが、櫻居。 来てくれて助かったぜ。 ありがとな」
「落ちているこれを見つけなければ見捨てられたのに運がいいのか悪いのか……」
櫻居は小さく首を振って肩を竦めた。
誤字報告いつもありがとうございます。
宣伝
パラダイム・パラサイト一~二巻発売中なので買って頂けると嬉しいです。